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なぜ盆踊りは輪になって踊る?民俗学から本当の成り立ちにせまる!

更新日:2024/3/8 Yuji Niimi
なぜ盆踊りは輪になって踊る?民俗学から本当の成り立ちにせまる!

なぜ盆踊りは輪になって踊る?民俗学から本当の成り立ちにせまる!

夏の風物詩であり、日本人にとって欠かせない行事でもある盆踊り。今では先祖を祀るだけでなく、その地域最大のイベントとして観光の目玉になっているのも多くあります。

「盆踊り」という言葉が歴史上に初めて登場したのは室町時代。さらに遡れば、13世期に始まった踊り念仏が盆踊りの元祖だということまではネットでも比較的簡単に知ることができます。しかし、それだけでは盆踊りにまつわる多くの謎を解き明かすことはできません。そこで、今回は「なぜ盆踊りは輪になって踊るか」をテーマに、その成り立ちを解き明かしていきます!

写真AC:くろてんさん

輪踊りと行進踊り|2種類の基本的な踊り方を知ろう!

皆さんは盆踊りと聞いてどのような光景を思い浮かべますか?おそらく提灯が吊るされた櫓を囲んで踊る姿、または阿波踊りの流し踊りに代表されるような、踊り手が隊列を組んで踊る姿が真っ先に浮かび上がるのではないでしょうか。前者は「輪踊り(回り踊り)」、そして後者は「行進踊り」と区別することができ、この2パターンは現在における盆踊りの一般的な踊り方だと言えます。

ではどちらがより盆踊りの原型に近いのだろうか?阿波踊りを例に取ると、現在のような統一された踊りスタイルは1930年前後に始まった観光化によって確立されたものです (*1)。しかし、すでに江戸時代には阿波踊りの原型である組踊りなど、「行進踊り」に分類される芸能が盆の徳島城下を賑わしていました (*2)。

さらに全国を見ると、行進しながら踊る芸能自体は室町時代から存在しています。本記事では深く取り上げませんが、当時では「掛け踊り」と呼ばれる、盆踊りと結びつきがある芸能が存在しており、人々は村中を踊り回ったり、隣の村へ受け渡す「踊り継ぎ」を行っていました (*3)。特に江戸時代初期に流行した「伊勢踊り」は、人々による踊りのリレーを通じて全国的に波及した代表的な例です。

しかし、盆踊りの歴史を遡ると、すでに700年以上前から「輪踊り」形式の芸能を確認することができます。そこで、次は盆踊りの原点である「踊り念仏」について解説します。踊り念仏を知ることで、輪踊りの謎を解き明かすための予備知識を手に入れましょう!

高円寺阿波おどり 写真AC:makoto.hさん

*1 小林敦子「「阿波踊り」における「女踊り」の確立と「女の男踊り」の台頭 」2016, 10-11
*2 中村久子「阿波踊り起源説について」1996, 25
*3 文化庁「下伊那のかけ踊」調査報告書 2010, 16

踊り念仏|盆踊りの起源に迫ろう!

踊り念仏を一言で説明すると、主に僧侶が輪になって踊りつつ、念仏を唱える宗教舞踊です。鎌倉時代以降の文献からその存在が確認できますが、今回はその中でも盆踊りの源流であると考えられている、一遍上人によって広められた踊り念仏について取り上げます。

13世期の僧侶であり、また時宗の開祖となった一遍上人(1234-1289年)。全国の行脚を通じて念仏を庶民に広めるだけでなく、踊り念仏の発生・流布の立役者となりました。

歴史資料上における踊り念仏の初見は、1299年に作成された絵巻「一遍聖絵」の第4巻。1278年に一遍上人が長野県の小田切という村で念仏布教を行っていた際、集まった人々が自然発生的に踊り始めたのがきっかけです。実際に絵を見ると、僧や尼が庭先で輪になって踊り、一遍上人は「縁先で提(酒を盛る器)を叩いて」拍子をとっている姿が見て取れます (*4)。

一遍聖絵4巻|小田切の踊り念仏の様子。 国会図書館オンライン

一つ注目していただきたいのは、小田切での踊り念仏では僧や尼に混じって俗人(一般の人々)が踊っているのに対して、2年後の場面(第7巻)では僧だけが鉦(かね)を叩きながら踊っていること。坂本要(以下 坂本氏)は、時間が経過するにつれ、踊り念仏が宗教的な儀礼として整備されたのではないかと考察しています (*5)。

一遍聖絵7巻|踊り念仏の様子。 国会図書館オンライン

では、どのように踊られていたのか?一般的に日本の踊りは跳躍運動が中心であることから、踊り念仏も同じような跳ね踊る動きが取り入られていたと考えるのが普通です。実際に橋立亜矢子は、三隅治雄による「踊念仏というものが非常に激しい踊りだった」という推論を根拠に、跳躍がある踊りであったと説明しています (*6)

しかし、坂本氏は現在伝わる踊り念仏は江戸時代に再構築されたものであり、一遍時代の唱え方や踊り方を確実に知ることはできないという指摘も (*7)。とはいえ、「一遍聖絵」には盆踊りでよく見られる「同じ側の手と足が同時に前に進むステップ」が再現されていることが近年の研究で明らかになっているなど、踊り念仏が盆踊りの祖先として多大な影響を与えたこと自体は間違いありません (*8)。

しかし、踊り念仏の創設者は本当に一遍上人なのか?実は「一遍聖絵」の第4巻を見ると、平安中期に念仏の民間普及に努めた空也(903-972年)こそが踊り念仏の始祖であり、自分は彼が持っていた志の継承者であると一遍上人は主張しています (*9)。

果たして一遍上人の発言は本当なのだろうか?民俗学者の五来重(以下 五来氏)は、1111年頃に成立した伝記「拾遺往生伝」の上巻から「大念仏」についての記述に着目します。

「正暦の初、自他を勧進して、七日念仏を修せり。いはゆる超証寺の大念仏これなり」(現代語訳、日本国語大辞典「大念仏」より引用)

最終的に五来氏は「大念仏」を「なんらかの合唱または舞踊を伴ったと考えられる」ことから、「一遍の発言を無稽なものとも言えない」と結論づけています (*10)。確たる証拠がないため真実を確かめることはできませんが、もしかすると踊り念仏は本当に一遍上人が布教する以前から行われていたのかもしれません。

最後に、踊り念仏はどのようにして盆踊りへと変化したのか?これも長くなるので細部は省略しますが、宗教的要素が薄れる代わりに娯楽的要素が強まり、また風流(ふりゅう)の影響を受けたことで装飾や仮装などの要素が取り入れられた結果、「念仏踊り」へ変化したと考えられています (*11)。その後、「村内の新仏の家々を次々に訪れては、庭で輪になって踊る」という念仏踊りの後半の部分が独立した結果、今日における輪踊り形式の盆踊りが生まれました (*12)。盆踊りや念仏踊りが「風流踊」としてユネスコ無形文化遺産へ登録申請されたのも、このような歴史的背景があるからです。

さて、ここまでは盆踊りの種類、そしてそのルーツについて探りました。次はついに本記事のテーマである「なぜ盆踊りは輪になって踊るか」を解明していきましょう!

*4 坂本要「踊り念仏の種々相(2)」2016, 120
*5 坂本要「踊り念仏の種々相(2)」2016, 121
*6 橋立 亜矢子「かぶき踊の源流とその虚構性」2012, 133
*7 坂本要「踊り念仏の種々相(1)」2015, 75
*8 荒木 宏允; 谷田部 竜; 長澤 可也「国宝「一遍上人絵伝」に描かれる踊念仏の踊りのシーケンスを復元」2016, 4-768
*9 田中夕子「念仏聖信仰の一考察」2015, 50
*10 五来重「念仏の芸能化について」1959, 652
*11 斎藤りぼん「じゃんがら念仏踊りの発祥と伝承過程について」2016, 123
*12 福原敏男「洛北における盆の風流灯籠踊り」2004, 502

輪になって踊る理由とは?折口氏の考察にせまる!

そもそも人々はなぜ輪になって踊るのか?この理由を探るためには、踊り念仏の成り立ちについて少し考察する必要があります。

鍵となる問題は、なぜ人々は念仏を唱えながら踊るようになったのか?坂本氏は、そもそも「普通仏教では僧は座して禅定に入るもので歓喜踊躍(かんぎゆやく)して踊るものではないとされる」と指摘しています (*13)。踊り念仏の創設者が一遍上人でも空也にせよ、まずはこの二つの要素が交わる必要があることは明白です。

では、どのような経緯で念仏と踊りが組み合わさったのか?この疑問を解明するヒントとして、民俗学者の折口信夫(以下 折口氏)は90年以上前に以下のような考察を述べています:

「盆踊りは、なぜ音頭取りを中心として、その周囲に大きな輪を描いて回るのであるということを考えてくると、そこに天の御柱廻りの形式の遺存していることを感じる。(中略)切明の神事の花竿持ち、盆踊りの音頭取りは、神々のよりましであったものであろう。(中略)盆踊りの輪形(わなり)に回るのは、中央に柱のあったことを暗示するのはもちろんであるが、時代によっては、高灯籠なり切子灯籠なりを立てたこともあったらしい。これらの灯籠が我々の軒端に移ったのもその後のことであろう。」(折口信夫「古代研究 第1部 第1民俗學篇」1929, 326-7、現代語訳は筆者による)

*御柱廻り:古事記の国産みの場面で、イザナギとイザナミがオノゴロ島で行った儀式のことを指しています。
*切明の神事(切明神事):8月15日に、島根県の須佐神社で行われる行事。折口氏は「竿持ちが中に立って、花笠を被った踊り手がその周囲を回るそうである」と説明しているが、現在の竿(神事花)は固定されています。
*高灯籠と切子灯籠:お盆に立てる灯籠の種類。高灯籠は高く立てるのに対し、切子灯籠は主に紙製で、吊り下げるといった違いがあります。

よりまし(尸童)とは、神霊が一時的に乗り移る対象である人間のことで、代わりに柱や高灯籠・切子灯籠などを依り代(よりしろ)として中心に据えることも。すなわち、折口氏の主張によれば、元々踊りの輪の中心には神が宿っており、輪踊りはその周りを囲んで踊るという行為を通じて形成されたということです。

これは何を意味するのか?そもそも、仏教には踊りはともかく、神という概念は存在しません。となると、踊り念仏は仏教の念仏と、仏教以外の宗教によって形成された「輪になって踊る」という概念が融合した結果だと言えるのではないでしょうか。

では、その宗教とは何か?その答えにたどり着くためには、仏教伝来以前における日本の信仰のあり方について知る必要があります。そこで、ここからは折口氏の「古代研究」を切り口に、古くから伝わる日本の宗教について追究してみましょう!

*13 坂本要「仏教民俗としての念仏踊り」2008, 116

古神道|日本古来の宗教について知ろう!

仏教が海を渡って日本へ伝来したと考えられているのは6世紀。しかし、それ以前から日本には精霊信仰、またはアニミズムと呼ばれる、「原始宗教」に分類される信仰が存在していました。

そもそも、アニミズムとはなんなのか?梅原氏は、アニミズムを以下のように簡単に説明しています:

「アニミズムとは、動物あるいは植物、あるいは無機物にも人類と共通の霊が存在し、その霊によって、全ての生けるものは生きるものになるという思想であると言えよう。」(梅原猛「アニミズム再考」, 13より引用。)

すなわち、動物や植物といった世の中に存在する全ての生物だけでなく、雨や風といった現象を引き起こす「自然」そのものにも霊が宿っており、これらの霊魂、精霊を信仰するという考えがアニミズムの中核であるといえます。

では、日本におけるアニミズムの様相を示唆する証拠は存在するのか?

一例として挙げられるのが、1996年に行われた奈良県に存在する清水風遺跡(弥生時代中期〜古墳時代前期)で発見された絵画土器の分析。民俗学者の赤田光男(以下 赤田氏)は、絵画には精霊の復活再生や自然の豊饒を目的とした呪術儀式を行われている様子が示されていることから、1世紀の日本においてはアニミズムが一般的であったことは「いうまでもない」と説明しています (*14)。この例だけではアニミズムの詳細な分布や地域間の違いについては分からないものの、仏教伝来以前の日本の固有信仰の大まかな内容について理解できたのではないでしょうか。

その後、「原始宗教」に分類される当時の精霊信仰は、時代の変遷を通じて2つの崇拝観念へ分離します。

一つ目は、祖先に対する信仰。もちろん、アニミズムが分離する以前から「熾烈な霊相互の闘争の中に存在する一つの霊」として人間の霊は信仰の対象でした (*15)。また宇治伸も、人々は死者となってもなお存在する死霊を「恐れて」いたために、儀礼を通じて祀っていたと指摘しています (*16)。しかし、文明の発達を通じて社会が発展し、祖先を頂点とした血族共同体という概念が形成されることで、人々は崇拝を通じて先祖の霊魂の力に「期待」するようになります (*17)。

もちろん、確実な証拠が存在しないため、いつ「人間霊」と「精霊」に対する信仰が分離したのかを特定することはできません。しかし、赤田氏は前述の清水風遺跡で発見された絵画土器には「族縁の祭殿を象徴する」場面が描かれていることから、1世紀までには先祖信仰が存在しているのではないかと考察しています (*18)。また、民俗学者の梅原猛によると、人間社会が農業牧畜へと変遷する過程で「自然支配」が進められることで、宗教内における人間の地位が高まるというのが宗教の構造だそうです (*19)。以上のことを考えると、人間社会が進化を遂げる過程で、原始宗教であるアニミズムも分離したと考えるべきでしょう。

そして「人間霊信仰」の対極として位置するのが、原始宗教である精霊信仰(アニミズム)から分離した後の「精霊信仰」。人間霊を「タマ」、そしてその他の霊魂を「モノ」と呼ぶのは、2つの崇拝観念へと分離した証だと言えるでしょう (*20)。

さらに、上記の信仰が相互に影響を及ぼし合うことで、「精霊人間霊習合信仰」という信仰が発生します。一例として、農耕神(山の神と田の神)が祖先崇拝と合体した結果、

「本来同一のものであるとする考え方が生じ、この祖先と合体した農耕神が、また、火を囲んで営まれる家、すなわちその火神の信仰と結びついて、その革新は祖先信仰であると目される氏神祭に、農耕神の祭儀を吸収するようになった」(竹田聴洲「祖先崇拝 : 民俗と歴史」, 152より引用)

ことが挙げられます。他にも先祖が死後動物に変身するといった考えなど、人間霊と精霊が意識的に区別された結果、原始宗教時代の精霊信仰から変容したことが見て取れるのではないでしょうか (*21)。

また、時代の変化によって、精霊信仰が俗信化していくことを忘れてはなりません。赤田氏の指摘を例にあげると、水の霊をはじめとした自然霊に対する信仰が、「信仰が衰退し、祟り面が強調されて妖怪化して」しまったことで河童といった妖怪の言い伝えに変化したとのこと (*22)。他にも稲荷神社の狐のように、本来では信仰対象であった動物が「神」から「神の使い」へと変貌と遂げた例など、今日においても精霊信仰の名残を垣間見ることができます (*23)。

伏見稲荷大社のきつねの像と桜門。 写真AC:gimyzrさん

ここまでは、仏教伝来以前における日本の宗教についてざっと見ていきました。以上の発見をもとに、次は先ほど紹介した折口氏の考察について深掘りしていきましょう!

*14 赤田光男「精霊信仰と俗信」2017, 16
*15 梅原猛「アニミズム再考」1989, 14
*16 宇治伸「日本村落構造の研究(VI)」2015, 28
*17 赤田光男「精霊信仰と俗信」2017, 17
*18 赤田光男「精霊信仰と俗信」2017, 17
*19 梅原猛「アニミズム再考」1989, 21
*20 赤田光男「精霊信仰と俗信」2017, 17
*21 赤田光男「精霊信仰と俗信」2017, 17
*22 赤田光男「精霊信仰と俗信」2017, 22
*23 梅原猛「アニミズム再考」1989, 16

「柱」に対する信仰とは?折口氏の考察を読み取ろう!

さて、前章では仏教伝来以前の日本における信仰について調べました。しかし、精霊信仰や祖先崇拝とお盆を結びつけるためには、もう1段階「柱」について深掘りするする必要があります。

そこで、折口氏の考察をもう一度確認しましょう:

盆踊りは、なぜ音頭取りを中心として、その周囲に大きな輪を描いて回るのであるということを考えてくると、そこに天の御柱廻りの形式の遺存していることを感じる。(中略)切明の神事の花竿持ち、盆踊りの音頭取りは、神々のよりましであったものであろう。(中略)盆踊りの輪形(わなり)に回るのは、中央に柱のあったことを暗示するのはもちろんであるが、時代によっては、高灯籠なり切子灯籠なりを立てたこともあったらしい。これらの灯籠が我々の軒端に移ったのもその後のことであろう。(折口信夫「古代研究 第1部 第1民俗學篇」1929, 326-7、現代語訳は筆者による)

上記の発言を要約すると、以下の2点に集約できます:

・輪の中心には神々のよりまし(または依り代)となる柱が存在していた
・時代によっては、灯籠や音頭取りなどが柱の役割を担っている

まず1つ目の点ですが、これは神道やそれ以前の信仰における樹木崇拝など、柱を依り代として神霊や祖霊を招く宗教観を指しています (*24)。これは柱には神々の世界とつながるための呪力が内在している、または高いところにある神々の世界と結びついていると見立てられていたからです (*25)。この点については、民俗学の父である柳田國男(以下 柳田氏)が考察を通じて自然の樹木や人工の柱が「神が降りるための依り代」としての役割を担っていた信仰の存在を明らかにしたことを岩田安之は指摘しています (*26)。

樹木信仰の一例である、静岡県来宮神社の大楠。写真AC:kadenbookさん

しかし、柱は必ずしも人々がその周辺で祭祀を行うためだけに存在していたわけではありません。これは「神」ではなく、あくまでも「神や霊が行き来する通路」であるという、「依り代」という柱の性質が理由です (*27)。顕著な例を挙げると、諏訪神社では「御柱」が4つある社殿の四隅に建てられています (*28)。このような場合、柱は豊作などを願う対象というよりも、外敵を入れないようにする防塞の意味合いが強いです (*29)。

諏訪大社上社本宮 一之御柱と塀重門。 写真AC:acsunifu23さん

似たような例としては、石川県の能登半島に存在する真脇遺跡の環状木柱列があります。環状木柱列とは巨木を利用し、木柱を円形状に配置した縄文時代の遺構のことで、主に北陸地方に分布。山本典幸は「記述考古学上の情報に限界があるため多くの難点を伴っている」としつつも、環状木柱列の役割を以下のように考察しています (*30):

環状木柱列とは祖霊が宿った記念物と考えられる。(中略)真脇遺跡に集まった人びとは、長期間にわたって、祖先神をまち、まつり、おくり、その神に祈り、神の加護を受ける。その祖霊信仰の結果、生存者の記憶から日常的に既に消えつつある遠い先祖の記憶の再帰を、環状木柱列といった祖霊の象徴とそれを用いた非日常的な儀礼に託した。(山本典幸「環状木柱列と祖霊(下)」110-1より引用。下線は筆者による)

具体的には、記念物(環状木柱列)の内外で神との飲食・歌や踊りを執り行なうことで、「神も人びとも曖昧な状態に到達する」ことが非日常的な儀礼の内容と推測されています (*31)。以上はあくまでも一例ですが、人々は柱そのものだけではなく、柱に神霊や祖霊が宿ることで形成される神秘的な空間に対して信仰心を持ち、祭祀や儀式を行っていたことが伺えるのではないでしょうか。

そして2つ目の点ですが、神霊や祖霊が宿るのは柱だけではないことを意味しています。実際に佐村隆英は「万葉集」や「今昔物語集」などを中心に奈良から平安時代の説話や縁起を調べたところ、「死者の霊魂は山、岩、霧、樹木などの「高さ」につく場合が多い」と指摘しています (*32)。具体例としては、神社の春祭りについての記述がわかりやすいかもしれません:

卯月(4月)8日は、柳田民俗学では水分神と祖霊の性格を持つ山の神が里人に迎えられて田の神となり、稲の生長を守り始める日とされている。この神は収穫後の秋に子孫と新穀を共食したうえで再び山に帰って山の神となる。これが神社の春祭り、秋祭りのはじまりとしている。(宮家準「民俗宗教における柱の信仰と儀礼 」48より引用。原文ママ・下線は筆者による)

以上の記述からは、祖霊が山にいると考えられていたことを暗示するだけでなく、前章で見た「精霊人間霊習合信仰」とも辻褄が会うことがわかります。また、山の神を迎えるにあたって人々は天道花(てんどうばな)という、ツツジやシャクナゲ、ウツギなどの花を竹竿の先につけたものを神々の依り代として庭や軒先に立てることを宮家準氏は指摘 (*33)。次章では灯籠の例も取り上げますが、いずれにせよ折口氏の考察についてある程度掘り下げることができたのではないでしょうか。

下の写真はその一例である広島県で行われる壬生の花田植。田を儀礼の場とし、また田をならすのに使うエブリに田の神が依りつくといわれるなど、精霊信仰の面影が残っています (*34)。

壬生の花田植 © tanaka

さて、最後はお盆における日本古来の信仰と仏教の関係性について明らかにすることで、本来の目的である、「なぜ盆踊りは輪になって踊る」かを解き明かしましょう!

*24 宮家準「民俗宗教における柱の信仰と儀礼 」2007, 59
*25 工藤隆「杖と柱」2011, 189-90
*26 岩田安之「樹木や柱の信仰 -縄文時代における信仰の一側面-」2015, 1
*27 梅原猛「アニミズム再考」1989, 16
*28 工藤隆「杖と柱」2011, 190
*29 岩田安之「樹木や柱の信仰 -縄文時代における信仰の一側面- 」2015, 7
*30 山本典幸「環状木柱列と祖霊(下)」2010, 107
*31 山本典幸「環状木柱列と祖霊(下)」2010, 110
*32 佐村隆英「日本人の霊魂観」1992, 824
*33 宮家準「民俗宗教における柱の信仰と儀礼 」2007, 48
*34 文化遺産オンライン「壬生の花田植」

なぜ輪になって踊る?|精霊信仰・神道と仏教の観点から探ろう!

さて、ここからはお盆という行事の成り立ち、そして精霊・祖霊信仰と神道の観点から盆踊りの成立過程について調べていきます。

そもそもお盆とはなんなのか?仏教の観点から盂蘭盆会(うらぼんえ:仏教行事としてのお盆)の成り立ちは、以下のように集約されます:

仏教の盂蘭盆会は,仏教の経典の一つである「盂蘭盆経」を基礎とし,目連が餓鬼道に落ちた母の倒懸の苦しみを救おうとし て,釈梼の教えに従って祭儀を設けて三宝に供養したことを起源としている。 それは,先祖供養の行事であり,明らかに仏教行事である。(櫻井圀郎「日本人の宗教観と祖先崇拝の構造」2003, 64より引用)

ではなぜ仏教の行事であるはずの盂蘭盆会に精霊・祖霊信仰の考えが組み込まれたのか?これは、同じ時期に日本古来の風習が行われていたことが示唆されます。実際に折口氏によると、大昔の人々は「聖霊祭り」という、「蘇生」と「一種の不思議な偉力」の取得を目的として魂を切り替える行事が存在しており、一時期は年に6回も行われたこともあったそうです (*35)。しかし、時代の変遷を経ることで、「偶然にも」正月とお盆の時期における行事だけが盛んになったと柳田氏は指摘 (*36)。結果的に後者が仏教の盂蘭盆会と統合されることで、「お盆」という行事が形成されたと考えることができます。とはいえ、「正月の祭神棚と盆の精霊棚の構造やカミを迎える意識」が同じであることからも、正月とその半年後のお盆が同一の目的で行われていた行事だということは今日でも窺うことができるでしょう (*37)。

精霊棚(盆棚)。 写真AC:yutasyoさん

また、魂の切り替えに関する具体的な内容は、「生き盆」から見ることができます。これはお盆に先立って年長者の「いきみたま」、すなわち生きている魂の健康を祝福する行事です (*38)。この交流を精霊信仰に則って解釈すると、親や年長者に向けて感謝の意を述べる過程で「自分の魂が上の人の体に付加」されるとのこと (*39)。

さらに、上記の行事からは、死者・祖霊だけでなく、存命中の両親に対しても供えるという、「仏教以前からの固有信仰の名残」を感じることができます (*40)。実際に柳田氏も、生者(親)と死者(祖先)のミタマ(魂)は本質的に異なるため、盆の作法も親のある者とない者では著しく異なる例が多いことを指摘 (*41)。あくまでも仏教の観点では死者を供養することが目的であるお盆に精霊・祖霊信仰の考えが浸透していることは、生者間における魂レベルの交流と呼べる「生き盆」から明らかなのではないでしょうか。

もちろん、お盆における精霊信仰の影響は他にもあります。本記事でもう一つ取り上げるのは、灯籠。

まず前提として、人々は「火の神」を祀ったり、火祭りを行ったりなど、火を神聖視していました。例えば、下の写真の和歌山県新宮市で行われる新宮の御燈祭。神倉山の山上で神聖な火である御神火を起こし、上がり子と称する参拝者が分かち合い、山を駆け下りる儀式です (*42)。

和歌山県 新宮の御燈祭 ©panpanzupan

盆においても「迎え火」や「送り火」が行われたり、または「盆提灯」を用いることで祖霊を迎え入れたり送り出したりするなど、火に対する信仰と密接な関わりがあります (*43)。そして火をともす器具である灯籠も、お盆の間は精霊が「依り憑く」と信仰されていました (*44)。

さらに、宮家準は灯籠の一種である「高灯籠」のことを交えて、「火」の観点から精霊信仰が仏教に影響を及ぼしていることを以下のように記しています:

盆には寺院の境内などに柴草(小さい雑木)で作った柱の先端に御幣や榊(神域の木)をつけたものを立てて、下から松明など を投げて御幣への点火を競う柱松という行事が畿内、長野、山口などで行われている。また各地で新仏が迷わずに家に帰るように頂に葉をつけた杉、檜、竹を立て、中ほどにこれも葉をつけた横木をわたす「高灯籠」が立てられている。この両者はともに祖霊を迎える招ぎ代(依り代)と考えられるものである。」(宮家準「神道と修験道─民俗宗教思想の展開より」2007, 49より引用・カッコは筆者による加筆。)

このことからも、今日のお盆には祖霊を迎えるという精霊信仰由来の考えが浸透していることが伺えるでしょう。以上を総括すると、現在のお盆は「地獄に落ちて苦しむ先祖のために,生存子孫が尽力して救済の手を差し伸べよう」とする先祖供養と、「カミとなった祖先(祖霊)を迎え、祭る」ことが趣旨の祖先祭祀という、二つの目的が同一視・統合されたことで成り立っているといえるのではないでしょうか (*45)。そして、お盆には仏教と神道・精霊信仰の要素が混在しているという事実が、一遍上人の踊り念仏とは違う視点から盆踊りの成立過程を紐解く鍵となります。

大分県のななせ火群まつりで行われる柱松。 ななせ火群まつり © 大分市

まず、今日における盆踊りでは輪の中心にはなにが置かれているのか?東北民謡の父と呼ばれる武田忠一郎(以下 武田氏)は、以下をリストアップしています (*46):

・輪踊りで輪の中心に何もない場合でも肉眼に見えない何物かを想像する。
・精霊棚
・切子灯籠を一ヶ所に集めた物
・傘の周りを回る場合
・篝火(かがりび)を取り巻く踊り ー秋田県の毛馬内盆踊りや西馬音内盆踊り
・櫓(上には音頭取り、囃子、大太鼓、若者などがのる)

まず精霊棚と切子灯籠ですが、本記事で行った精霊棚と灯籠の分析からも精霊信仰の影響があることは明らかです。次に櫓や傘ですが、これらは「神降臨の依代という古い信仰の面影」だと福原敏男(以下 福原氏)は考察 (*47)。以上からは精霊信仰と輪踊りの関係性が伺えるだけでなく、「傘」の存在が、輪踊りの原点にもう一段階迫るための手がかりとなります。

京都下鴨神社の吊灯籠。 写真AC:真明さん

まず初めに、正月やお盆、そして季節の移り変わり目に祖霊や神霊が村や里へ訪れると信じられていたことは、これまでの発見からも十分明らかだと思います。しかし折口氏によると、この中には悪霊のように悪い魂も混じって戻ってくると考えられていたそうです (*48)。そのため、人々は祈祷など様々な工夫を講じることで、疫神や悪魔といったものをはらおうとしていました。日本の踊りの始まりも、「足をふみしめて」踊ることで死霊や悪霊を追い払うことが目的だったそうです (*49)。

以上の考えや行いの根底にあるのが、「魂を鎮める」という考え。「鎮める」というのは、「非常の事態に対応して、鎮め、和めて正常な姿に快復させようとする」思想が礎となっています (*50)。そして、現在でも「鎮め」の思想を目の当たりにすることができる顕著な例が、愛知県の花祭や京都のやすらい花といった祭りです。

花祭とは愛知県北東部の山間部に位置する奥三河で冬の数ヶ月にかけて地域各所で行われる、「湯立神楽」に分類される神事芸能です (*51)。かつて諏訪大社で行われていた鎮魂の祭祀である神楽が原型であるとされており、神霊に献上する湯が入っている湯釜を中心に、様々な舞が夜を徹して行われるのが特徴 (*52)。そして、その中には「一年の災いを拭い去り、人々に幸運をもたらす」とされる鬼の舞が行われています (*53)。具体的には「厄災をもたらす悪霊を踏み鎮める」呪術に由来したとされる動きを取り入れており、鎮魂儀礼の思想を色濃く残していると言えるでしょう (*54)。また、このような鬼が舞うという芸能は、花祭の要素を有していると考えられる、信州南部の大森山諏訪神社で行われる坂部の冬祭りでもみることができるとのこと (*55)。折口氏が冬祭りの前身の一つとして鎮魂祭りを挙げているのも、歴史上において冬祭りの一環として行われた花祭の存在を考えると納得がいくのではないでしょうか (*56)。

御園地区の花祭で登場する山見鬼。 写真:東栄町

もう一つの例が、春に行われるやすらい花(別称やすらい祭)。平安時代から行われており、現在においては風流の代表的な祭りです。内容としては、花を飾った風流傘をおしたてた行列が、笛や太鼓の囃子と共に町の各地を練り歩き、踊りを繰り広げます。

特徴的なのは、風流傘。本来は「宗教的権威や政治的権力」を象徴するためのものですが、やすらい花では神霊が依り所とする道具として「当初から意識されていた」と段上達雄(以下 段上氏)は考察 (*57)。これは、やすらい花が鎮花祭(はなしずめの祭り)の意味合いを持っていることに起因しています (*58)。武田氏は、鎮花祭の目的を以下のように説明しています:

春の花が散る頃になると(3月)夏が近づき、悪疫が流行したり洪水になったり、よくない事が続くというので、また花の早く散るのは田みのりの悪い前兆ですから、春の花を安めるまつり、あおあひて稲の花を前兆する祭をしたのです。舞いながら畏い(*かしこい)神を巻きこんで連れ出すというおどりで、道を流して村境まで踊っていくのですが、それと共に村の外へ悪霊が出て行くことをかんがえたのです。(武田忠一郎「盆踊りについて」1954, 50より引用:現代訳・注釈は筆者による。)

実際にやすらい花の大鬼の踊りは、「疫神(鬼)に扮し て踊って疫神たちを招き出し、今宮神社の疫神社に封じ込めるためであった」と段上氏は指摘しています (*59)。以上の例から、日本には悪霊などの魂を鎮めることを目的とした祭りや踊りが存在したことがわかるのではないでしょうか。

では、これらの「魂を鎮める」祭りがどのようにして盆踊りへと変化したのか?ここからは、折口氏による記述を通じて、鎮花祭から念仏踊りへと変遷する過程を明らかにしていきます。

まず折口氏によれば、やすらい花や鎮花祭が盛んになったことで、田楽が台頭し、仏教の考えが注入されたとのこと (*60)。実際に田楽と精霊信仰に関係性があることは、神霊の依り代となる傘の存在からも伺えます:

田楽能も、田舞の源流とする学者の想像を信ずることが出来るならば、田楽法師の持っている傘は、田植の時に立てられた、髯籠の一種なる花竿の観念化でなければならぬ。(折口信夫「古代研究 第1部 第1 民俗學篇」1929, 326より引用:現代語訳は筆者による)

* 田楽能:田楽で演じられる、猿楽の能
* 田楽法師:田楽・田楽能を演じた芸能者集団
* 髭籠(ひげこ):長い竹や針金で作ったかごで、神の依り代でもある

その一例が、住吉踊りと呼ばれる、大阪で行われる田植行事「住吉の御田植 」で行われる踊り (*61)。この踊りでは長柄の傘を開いて持つ音頭とりが輪の中心にいますが、この傘は「田植神事に建てた花竿」が転じたものだそうです (*62)。また、上記の花祭も、田楽の特質の一部を保って居るとのこと (*63)。

非常に簡潔にまとめ上げましたが、鎮花祭が「田楽にも影響を及ぼして居る」と折口氏は述べているのも、納得がいくと思います (*64)。そして、この過程で「一種の宗教的自覚」が起きたことで、念仏踊りが現れ、そして盆踊りへと変遷するのです (*65)。

最後に、念仏踊りから盆踊りへの変化を、「鎮魂」を軸に見ていきます。

今回のキーワードは新仏(あらぼとけ)。精霊信仰ではアラミタマと呼ばれ、死後初めてのお盆を迎える霊魂のことを指します。この新しく死者となった死霊は時間の経過と共に祖霊へと変化することで、守護神として「かつて一員であった集団の幸福のために働くようになる」と野口隆(以下 野口氏)は考察しています (*66)。しかし、アラミタマ自体は荒神と同じように疫病を引き起こすなど、「祟りの可能性を含む不安定で危険な状態」であるとも考えられていました (*67)。すなわち、死者が祖霊、さらには山の神といった存在へ昇華するためには「埋葬の儀式に更に第二の鎮魂祭が必要」であり、このような精霊信仰に基づく考えがお盆にも受け継がれているのです (*68)。

例えば、人々は新盆(初めて迎えるお盆)の精霊棚を「特に大きく丁寧にこしらえ」たり、目印となる灯籠を家の間に吊るしたり、また親族や周りの人々も見舞いと称して訪問したりなど、地域によって細かい差異はあれど、他の祖霊とは異なる扱いが求められます (*69)。また盆踊りにおいては、輪の中心にある切子灯籠は最近亡くなった人がいる、すなわち新盆の家からのだと成田守は記述 (*70)。さらに、盆の輪踊りは「村内の新仏の家々を次々に訪れては、その庭で輪になって踊る」という、中世における念仏踊りの影響を色濃く残した風習から、後半の部分が独立・拡大したものであると福原氏は考察しています (*71)。上記のアラミタマと新仏はいずれも「死後初めて供養される」ということにおいて共通点を持っていることからも、魂を鎮めるという精霊信仰の考えを盆踊りから感じ取ることができるのではないでしょうか。

そして、盆踊りを構成する最後の要素が、小町踊りに代表される女踊り。元々は「盆釜(ぼんがま)」と呼ばれる、若者が一か所に集り、野外で一定期間生活するという風習がルーツでした (*72)。しかし時代の変遷とともに芸能化・風流化したことで「若い女の子が手を繋いで道を歩き、あるところに行くと円陣を作って踊る」女踊り・小町踊りが生まれ、盆踊りに女の人の参加という、「欠くべからず要素」を加えたのです (*73)。

なぜ盆踊りは輪になって踊るのか?直接的な原因は、お経を唱えながら跳躍するという念仏踊りの一要素が分化したことで、「円陣を作りながら踊る踊り」が形成されたからです (*74)。しかし、その根底には仏教伝来以前における、日本古来の神道・精霊信仰といった考えが存在していることがわかりました。

また、序盤で述べた盆踊りにおける2パターンの踊り方も、「神または仏を招き降ろすために招代(おぎしろ:依り代と同じ意味)の周囲をめぐっておどる」輪踊りと、風流に代表されるような「来臨し主神とおともの神、即ち伴神の一行が祭場に練り込む(練り歩く)」行進踊りというように説明することができ、多様な信仰が内包されていることがわかります(*75)。以上から、盆踊りは仏教だけでなく、その形成過程で日本の精霊信仰、すなわち神に対する信仰に多大な影響を受けていることが明らかになったのではないでしょうか。

*35 折口信夫「古代研究 第1部 第1 民俗學篇」1929, 333-4
*36 柳田國男「歳時習俗語彙」1939 , 2
*37 櫻井圀郎「日本人の宗教観と祖先崇拝の構造」2003, 73
*38 折口信夫「古代研究 第1部 第2 民俗學篇」1929, 1002
*39 折口信夫「古代研究 第1部 第1 民俗學篇」1929, 334 現代訳は筆者による。
*40 成田守「盆踊りくどき」1974, 7
*41 柳田国男 歳時習俗語彙, 1939, 474
*42 文化遺産オンライン「新宮の速玉祭・御燈祭り」
*43 櫻井圀郎「日本人の宗教観と祖先崇拝の構造」2003, 64
*44 福原敏男「洛北における盆の風流灯籠踊り」2004, 505
*45 櫻井圀郎「日本人の宗教観と祖先崇拝の構造」2003, 65-6
*46 武田忠一郎「盆踊りについて」1958, 51. 現代訳・再構成は筆者による
*47 福原敏男「洛北における盆の風流灯籠踊り」2004, 502
*48 折口信夫「古代研究 第1部 第1 民俗學篇」1929, 338
*49 武田忠一郎「盆踊りについて」1958, 50
*50 水野正好「鎮井祭の周辺」 1981, 84
*51 文化遺産オンライン「花祭」
*52 笹原亮二「民俗芸能と祭祀 ― 中在家の花祭の現場を巡って― 」2014, 371
*53 「新日本風土記アーカイブス「花祭」
*54 笹原亮二「民俗芸能と祭祀 ― 中在家の花祭の現場を巡って― 」2014, 376
*55 文化遺産オンライン「坂部の冬祭の芸能」
*56 折口信夫「古代研究 第1部 第1 民俗學篇」1929, 591
*57 段上達雄 「傘鉾・風流傘の誕生1―神霊の宿る傘― 」2014, 13
*58 文化遺産オンライン「やすらい花」
*59 段上達雄 「傘鉾・風流傘の誕生1―神霊の宿る傘― 」2014, 15
*60 折口信夫「日本芸能史六講」1944 , 105
*61 文化遺産データベース「住吉の御田植 」
*62 折口信夫「古代研究 第1部 第1 民俗學篇」1929, 326
*63 文化遺産オンライン「花祭」
*64 折口信夫「古代研究 第1部 第1 民俗學篇」1929, 614
*65 折口信夫「古代研究 第1部 第1 民俗學篇」1929, 339
*66 野口隆「古代死の周邊」1943, 200-1
*67 檜垣巧「日本的アニミズムと宗教的自然観 -特殊日本的な宗教意識の発掘-」1989, 7
*68 野口隆「古代死の周邊」1943, 197
*69 柳田國男「歳時習俗語彙」1939 , 499-504
*70 成田守「盆踊りくどき」1974, 7
*71 福原敏男「洛北における盆の風流灯籠踊り」2004, 502
*72 武田忠一郎「盆踊りについて」1954, 50
*73 折口信夫「日本芸能史六講」1944, 111
*74 折口信夫「日本芸能史六講」1944, 110
*75 武田忠一郎「盆踊りについて」1954, 50

まとめ

さて、本記事は踊り念仏や精霊信仰、そして鎮花祭といった魂鎮めの祭りなど、非常に幅広い観点から盆踊りにおける輪踊りのルーツを探っていきました。振り返ると非常に長くなってしまいましたが、これでもカバーできたのはほんの一部。念仏と仏教本来の思想の相違、または盆踊りは季節の移り変わりを象徴する行事だったなど、お盆と盆踊りにはまだまだ謎が多く存在します。気になった部分があれば調べてみることで、盆踊りだけでなく、日本の宗教観や信仰心のルーツにせまることができるのではないでしょうか?

写真AC:KOU2301さん

 

アイキャッチ画像|夏休みの盆踊りイメージ 写真ac:makoto.hさん

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この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター
イギリスの大学で音楽学を専攻しています。研究分野は民謡を中心とした民俗音楽と、盆踊り。中部地方のお祭りをメインに、民俗芸能・祭りの歴史などについてご紹介します!

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