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獅子芝居って何?なぜ岐阜県に根付いた?伏屋獅子芝居の公演から見えた魅力と継承活動

更新日:2024/3/7 稲村 行真
獅子芝居って何?なぜ岐阜県に根付いた?伏屋獅子芝居の公演から見えた魅力と継承活動

「獅子芝居(しししばい)」をご覧になったことはあるだろうか?この芸能では獅子舞が獅子頭を被ったまま芝居の舞台に登場するのだが、女性に扮して優雅な動きが見られる場合が多い。獅子舞といえば力強く、荒々しく、たくましい印象が強いという方もいるだろう。しかし、獅子芝居ではそのような印象は薄い。なぜこのような芸能が誕生したのだろうか?

そんな疑問を抱きつつ、2022年9月18日に岐阜県羽島郡岐南町で開催された「岐南地芝居公演」を訪れた。岐阜県は全国的にも有数の「獅子芝居」が盛んな都道府県だ。岐阜県の獅子芝居はどのように始まり、そして根付いたのか?その継承の取り組みや、どこで観られるのか?といったこともお伝えしていきたい。

獅子芝居とは?

獅子芝居とは神前で疫病退散の祓いのために舞う神楽獅子の後に、獅子が女形になって演じるもので、歌舞伎や人形浄瑠璃の外題(歌舞伎芝居の題名のこと)を演じるという特徴がある。この獅子芝居に使われる獅子頭の特徴としては、耳が立っており白髪がないことである。

獅子芝居の始まりは寛政年間(1789~1801年)に三河の岩蔵・岩治・作蔵の3人が原形を考え出し、天保年間(1830~1844年)に三河の寿作と尾張の龍介(市川竜介)がその3人から習い、形態が確立したと考えられる。

農村部において農耕に明け暮れる村人たちからすれば、獅子芝居は唯一の娯楽といってもよいものだ。江戸時代はそれまでと比べると世の中の平和が保たれていたため、娯楽性の強い芸能が次々と生まれた時代である。

伏屋の獅子芝居

獅子芝居においては物語があり、その登場人物である「人」に扮するために獅子頭を被る。この性質上、緊張感や恐怖心、あるいは逆におかしみや嘲笑といった相反する感情を呼び起こす。
獅子芝居で獅子頭を被る人は男性であっても女性役を演じることが多く、それは男性が求めてやまない広くて深い愛を秘めた女性像となっている。

獅子芝居の演目と見どころ

それでは、実際に観た伏屋の獅子芝居の様子を振り返りながら、獅子芝居の深い魅力に迫っていこうと思う。
まずは獅子芝居の前に、神楽獅子が行われた。笛と太鼓で音楽を奏でて公演の開催を知らせる「道行(みちゆき)」から始まり、獅子が登場する前に笛と太鼓の激しいリズムで人を寄せる「寄(よせ)」へと繋がっていく。

道行の後の舞台挨拶の様子

そこからは五穀豊穣や家内安全を願うべく獅子が登場!手に幣や鈴を持って様々な芸を披露し、観客を驚かせていく。

幣や鈴を持って様々な芸を披露

それが終わると、獅子芝居が始まる。これは前述のように獅子舞を用いて歌舞伎や人形浄瑠璃の外題を演じる芝居であり、現在伏屋では「傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)」を行なっている。ちなみに、以前には「神霊矢口の渡し」や「仮名手本忠臣蔵」などの外題も上演されていたそうだ。

今回上演された「傾城阿波の鳴門・巡礼歌の段」は、獅子の演じるお弓が夫の悪事によりお尋ね者となってしまい、娘のお鶴を国許に残し隠れて暮らすことから始まる。

ある日、お弓の許に巡礼姿のお鶴が現われ、「両親に会いたい一心から巡礼姿で諸国遍路の旅に出ていた」という内容を伝える。無事に母と娘は再会するが、母は娘に罪が及ぶことを恐れ、自分の身元を名乗ることができない。
そして、お鶴に国に帰ることを諭さざるを得ないという悲しい物語だ。

母と娘は再会した

お鶴に帰国を諭すことしかできないお弓

お芝居を拝見していて、セリフが長いけれど子役がそれを懸命に演じる姿が印象的だったのと、声色の微細な変化が感情に揺さぶりかけてくるような感覚があり、とても素晴らしかった。

伏屋の獅子芝居、始まりと歴史は?

今回拝見した伏屋の獅子芝居は尾張の嫁獅子系のもので、幕末に前述の尾張の龍介から伏屋の東五郎が習い伝えたものである。
元々は神前に納める神楽獅子から発生して祓うことが主体となり、五穀豊穣・村内安全を祈願するため氏神の白山神社に奉納されてきた舞いに、芝居が統合された形である。

伏屋の獅子舞は伊勢神宮の御神木の川狩りの際の奉送迎、京都東本願寺の本堂改築の地築きでの神楽奉納、名古屋汎太平洋博覧会余興などに出演。昭和32(1957)年には犬山成田山での全国獅子舞大会に優勝、また同年にNHKテレビ放映など、全国規模で活躍してきた獅子舞団体である。

また、昭和47(1972)年には伏屋獅子舞保存会が設立された。周辺の獅子芝居団体が消滅する中、貴重な伝統を残しているということで、昭和63(1988)年8月には岐阜県の重要無形民俗文化財に指定された。

こちらの動画では、獅子芝居の公演だけではなく、伏屋の地域で行われる獅子舞に関しても紹介されているので、ぜひご覧いただきたい(岐南町公式チャンネル)。

伏屋の獅子芝居継承の取り組み

現在は後継者難であり、その背景には組織形態の変化が関係している。
元々1897年まで存在した伏屋村があった頃、熟練者たちが「旭組」と称して獅子舞の活動を行なっており、その旭組の存立基盤として若連(後の青年団であり、伏屋では獅子組と呼んだ)の芸能活動があった。つまり、旭組の人々が師匠となり若連に獅子舞や獅子芝居の演技指導を行なっていたのだ。
この芸能活動が鍛錬を必要とするものであったため、青少年が立派な大人になるための通過儀礼として考えられてきた背景がある。

伏屋村が周辺の地域と合併した後もこの活動は続いたが、昭和30年代(1955年~)になると担い手不足で伝統は途絶えた。
組織形態の変化は社会情勢の変化でもあって、地域行事の衰退や個人主義の台頭のみならず、大人としての通過儀礼を地域で作っていこうという考え方は徐々に薄れていったことも関係しているだろう。

そこから、貴重な伝統を復活させようという機運は高まり、昭和47(1972)年の伏屋獅子舞保存会設立へと繋がっていく。

近年は担い手の高齢化問題が徐々に解消しつつあり、「若手の人が獅子舞をきっかけに転職して戻ってくる」こともあるという。また、「子供の頃にやっていて楽しかったから、また大人になって始める」ということもあるそうだ。
ただし、若手が多い分、指導者不足という課題を抱えている現状もあるという。継承活動を今後工夫していく必要もあるそうだ。

娘のお鶴役を演じるのは小学生

岐阜県は獅子芝居王国!

もともと岐阜県は東海と北陸、あるいは東日本と西日本の文化の結節点であり、人や物の交流が盛んで、都市文化の流入も早かった。そのような経緯もあって、江戸時代以降は、歌舞伎などの芝居文化が流入してきて、岐阜の田舎まで到達するのには時間はかからなかった。

元々あった神楽獅子に獅子芝居をつけて娯楽性が増す過程には、男性が女形の獅子を演じるという男女の逆転現象という創作性も感じられる。
出雲阿国(いずものおくに)という女性が荒くれ男のかぶき者に扮して「かぶき踊り」を創作し、大人気となり歌舞伎の先駆けとなったように、獅子芝居にも本来荒々しい獅子の姿を優雅なものへと変換させていく魅力のようなものを感じることができた。

日本全国を見ても、獅子芝居という獅子の形態は珍しいものだし、神楽獅子から獅子芝居までの一連の流れの技術力の高さにはとても驚いた。興味を持った方は、文末のリンク先などを参考にぜひ岐阜県の獅子芝居の公演に出向き、実際にその公演を見ていただきたい。

例年10~11月には「岐阜県獅子芝居公演」といって、県内の獅子芝居(5団体前後)を一気に見られる機会がある。以前は約20団体が獅子芝居を披露する機会もあったようだが、それでも獅子芝居が盛んな県といわれれば、依然として岐阜県の名前があがる。まずはそのようなイベントを入り口として、気になった団体があれば直接その地域の祭礼行事の日程を調べて足を運んでみるのも良いかもしれない。

【参考サイト】
地芝居大国ぎふWEBミュージアム

【参考文献】

岐南町『岐南町史 通史編』(1984年3月, 太洋社)
安田文吉・安田徳子『ひだ・みの 地芝居の魅力』(2009年3月, 岐阜新聞社)
岐阜県教育委員会『岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書ー』(1999年3月)
岐阜女子大学地域文化研究所『岐阜県の地芝居ガイドブック』(2009年3月)
岐阜女子大学(代表者:持田諒)『岐阜県地芝居研究調査 岐阜県の地芝居を育む人と風土』(2009年)
岐南町『ふるさとの文化財』(2003年9月)
岐南町歴史民俗資料館『民俗資料集VI』(1990年2月)

この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター
日本全国500件以上の獅子舞を取材してきました。民俗芸能に関する執筆、研究、作品制作等を行っています。

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