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上杉謙信と「謙信公祭」~伝説の義将・上杉謙信~

更新日:2023/8/11 乃至 政彦
上杉謙信と「謙信公祭」~伝説の義将・上杉謙信~

新潟県にゆかりのある戦国武将・上杉謙信。今年、2022年は上越市にて3年ぶりに「謙信公祭」が開催となります。
上杉謙信はどんな武将で、どんな縁があるのか?また「謙信公祭」で再現される武田信玄との川中島合戦とはどんなものだったのか?上杉謙信に関する書籍を刊行する歴史家・乃至政彦さんに、謙信の魅力と祭りとの関連性を伺いました。読めばさらに祭りが楽しめること確実です(全3回)。

兄のために働く若武者・上杉謙信

越後(新潟県)の戦国武将・上杉謙信は、「義将」との評価が高い。少年期の謙信(当時は「長尾景虎」と名乗っていた)は、兄の長尾晴景を主君として、その軍事を補佐した。晴景は越後一国の国主であった。

謙信の初陣は14歳。「代々の軍刀」をもって、戦場を駆け巡った。晴景は若き謙信の力量を信じて、亡父・長尾為景の親衛隊を謙信に預けていたらしい。為景は史上稀に見る勇将で、その親衛隊も鍛え抜かれた精鋭だった。また謙信本人もミリタリーマニアで、ミニチュアを使ったシミュレーションやおもちゃの武装を使っての合戦ごっこが得意だった。
おかげで謙信は向かうところ敵なし。まだ大人になり切らない若武者が、越後各地の不穏分子を次々と打ち破ってしまう。
病弱な晴景を侮る者たちも、謙信を恐れて大人しくなっていった。

しかし、晴景の側近が謙信を危険視しはじめた。このままでは越後は謙信のものになってしまう。実際、晴景より謙信を国主にしたいと考える者も増えはじめた。ずっと兄のために働きたい―そう願っていた謙信は思わぬ波乱に戸惑いを隠せなかった。

下克上を回避した謙信の信望

「謙信公祭」が開催される春日山神社

やがて時がきた。晴景の側近である黒田秀忠が謙信を排除しようとしたのだ。秀忠は晴景を思うまま操って、権力を持ち続けていたかった。だが、謙信が邪魔で仕方なかった。
両者の争いは謙信の勝利に終わった。そこで晴景は自身の実力不足を嘆き、謙信に国主の座を譲ることを決めた。謙信は何度も断ったが、もはや晴景の寿命は限られていた。ここに謙信は越後国主に就任する。謙信19歳のことであった。

ただ、いくら仕方ないと言っても、実力で権力を得てしまうのは、下克上も同然。見ようによっては不義である。謙信は青くさいところがある。これでは歴史に汚名を残すことになるのではないかと思い悩んだ謙信は、思い切った決断をする。
わたしは今後、結婚をしませんと誓ったのである。死ぬまで女性を近づけずに生きていきますと決めたのである。これはどういうことだろう。

晴景には、生まれたばかりの男子がいた。謙信は、この幼子を養子に迎え入れ、自分はこの子が育つまで家督を預かるだけだということにしたのである。これならば節義を守れる―。そう思ったのである。

事実、謙信は「生涯不犯」(しょうがいふぼん。永遠に性的な交わりを断つこと)を守り通した。この不犯は、後世に理由があまり伝わらなかったため、謙信が同性愛者だったからとか、神仏への戦勝祈願のためだとか、色々と推測されているが、そうではなく、ちゃんとした政治的理由があったのである(なお、この養子は若くして亡くなったため、謙信はすぐに姉の子・上杉景勝を新たな養子に迎え入れ、権力簒奪の事態を避けた)。

謙信は、強い義の心をもって、国主デビューしたのであった。長らく反乱続きだった越後の空気はここに一変し、国内の武将たちは「新しい国主さまのために働いてみよう」と考えはじめたのである。

武田信玄との出会い

甲府駅前にある武田信玄像

こうした心意気を頼もしいと思ったのだろうか。近辺諸国の武将たちが、「本領を奪われました」「関東管領だったのに関東を追い出されました」と謙信を頼って越後にやってきた。すると謙信は、喜んで迎え入れ、「理由もなく他人のものを奪うなど言語道断―」とその支援を表明した。

日本地図を見てみると、越後一国は四国地方の半分よりも広い。九州地方と比べてもかなりのものだ。もちろんそれだけの多くの兵を養える。日本屈指の軍事大国だ。ならばその力は慎重に用いなければならない。
ここに謙信は「依怙(えこ)の弓矢は取らない。筋目のための戦いなら何処なりとも駆けつける」と豪語する。力ある者が力なき者から奪う。それではいけない、乱世を正すには、力ある者こそが模範を示さなければならないと考えたのだ。

こうして謙信は、甲斐の武田信玄との戦争へと突入していく。信玄は領土拡大の天才だ。しかしその実力の使い方が許せない。お前の戦いは私戦に過ぎない、侵略と破壊はそこまでにするのだ―と厳しい態度で合戦を挑み続ける。

信玄は謙信を「お心の優しいことだ」と見下していたが、さすがに器量のある大将である。敵であるはずの謙信を過小評価することはなく、褒めるべきところはためらうことなく称えた。特に合戦の上手さには、惚れ惚れと感じるところもあったようだ。「太刀においては、日本無双の名大将」とまで高評した。
謙信の一本気な人柄を、あまり嫌いにはなれなかったのだろう。一時期は、謙信と和睦しようと考えることもあった。

義の塩

川中島古戦場跡(八幡原史跡公園)にある上杉謙信と武田信玄像

やがて謙信は京都に軍勢を進めようと準備した。信玄も駿河の今川氏真を倒そうと考えはじめる。ここに両者の停戦が隠密裡に進められる。

ところがこれに気づいたらしい今川氏真が、塩止めを開始する。甲斐は海のない山国である。塩の輸出を停止すれば困るだろうと思ったのだ。これに相模の北条氏康も参加した。氏真と氏康は、謙信にも参加を呼びかけた。だが謙信は、騙されない。
―かれらは信玄が怖いのだ。だから私にずっと争い続けてもらいたいのだ。塩止めに参加したら、停戦はご破産になる。
しかし、謙信は京都に進軍したいので、かれらとも仲良くしようと交渉している途中であった。このため「否」と言うことができない。

だからと言って、今の状態を放置していても問題だ。なぜなら、越後から甲斐に向かう塩商人はきっとその足元を見て、大儲けしようとする。つまり値上げだ。ならばと考えた謙信は、氏真と氏康の使者に対し、次のように返答した。
「わたしは戦争好きだ。だが、わたしが戦うのは民衆ではない。わたしの武器は米や味噌ではなく、弓矢と刀槍にある。だから信玄の兵士を苦しめることはあっても、民衆を苦しめたいとは考えない」
自分のキャラクターを崩さずに、要請を断ったのである。

ついで謙信は甲斐へ向かう塩商人たちに、次の命令を徹底せよと伝えた。
「絶対に値上げをするな。塩は必ずいつも通りの値段で売るのだ。―もしこの言葉を守らなかったら、どうなるかわかっていような?」
塩を適正価格で売ってもらえた武田の領民は、謙信の計らいにとても感謝したという。それからしばらく謙信と信玄は一時的なものではあるが(今川氏真や北条氏康に隠れて)、秘密の停戦を成立させている。

なお、謙信は自身の対応を恩着せがましく人々に語ったりしていなかったらしく、上杉家では江戸時代半ばまで忘れていた。ところが武田の遺臣たちがこれを風流な事であると子孫たちに語り伝えた。ここに謙信の「敵に塩を送る」のことわざが生まれたのである。

義将・上杉謙信の威徳は、今もその故郷である新潟県と、上杉家が転封した山形県に、その温もりが残っていよう。

この記事を書いた人
歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

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