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伊達政宗と「政宗公まつり」~伊達政宗の美学~

更新日:2023/8/11 乃至 政彦
伊達政宗と「政宗公まつり」~伊達政宗の美学~

宮城県にゆかりのある戦国武将・伊達政宗。大河ドラマやゲームで大人気の偉人は、仙台城へ移る前の12年間、血気盛んな青年時代を大崎市岩出山で過ごしました。この地で開催される「政宗公まつり」は今から約420年前の文禄元年、政宗公が岩出山を出発し上洛した様子を武者行列で再現するものです。

政宗はどんな武将で、当時の武者行列とはどんなものだったのか?歴史家・乃至政彦さんに政宗が多くの人を惹きつけてやまない魅力とともに伺いました(全2回)。

美意識の高い戦国武将

奥州の戦国大名・伊達政宗。
政宗は、仙台藩74万石を築き、初代藩主となったほどの実績のある武将である。また、「伊達者」の語源になったと言われるように、とても美意識の高い男であった。

まず、あの黒光する三日月の前立てで有名な甲冑(「黒漆五枚胴具足」)が美しい。
あの甲冑は、スターウォーズのダースベイダーのデザインモチーフになったことでも有名である。政宗の美的センスは、現代の世界的感覚にも通用するのだ。

伊達政宗の眼帯

伊達政宗像 江戸中期頃、数少ない隻眼で描かれた肖像画

伊達政宗といえば、黒い「眼帯」をイメージする人が多い。だが、実は政宗本人が眼帯をつけていたことはない。戦国時代の日本に、眼帯の文化はなかったのである。
だから政宗の肖像画や木像を見ても、眼帯をつけているものは一つもない。

ではあの眼帯イメージはどこから来ているのかというと、大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987年)の創作であるらしい。山本勘介や柳生十兵衛が眼帯をつけるようになったのも昭和の映像作品からである。

つまり政宗の眼帯は史実ではない装飾だが、これがまたとてもよく似合うものだから、政宗に欠かせないアイコンとして定着している。

伊達政宗の行列

仙台城大手門脇櫓 写真/PIXTA

政宗と言えば、無数のエピソードがあるが、もっとも有名なのはその武者行列だろう。

豊臣秀吉の御世、政宗は朝鮮出兵のため、500人(一説に1,500人とも)の兵による上洛を要請された。しかし政宗は大いに気を張り、1,000人(一説に3,000人とも)以上の兵を動員して参列した。これには人々も驚くばかりであった。

ところがそれだけではない。京都から九州の豊臣軍本営地へと向かう途中、政宗の行列は京都の老若男女の目を驚かせた。

第一陣は前田利家、第二陣は徳川家康、第三陣は伊達政宗、第四陣は佐竹義宣であったが、名だたる大将の中でも政宗の行列は人の目を引く美しさがあったのだ。

家紋「竹に雀」を染める大軍旗が先頭を、続けて紺地に近の日の丸の幟が続く。兵たちの鎧は全て黒く染められており、とりわけその陣笠は前例のない異様さであった。「金ノトガリ笠長三尺計」(『伊達日記』)というもので、これがどういう形状だったか、文献のみで探るのは難しいが、烏帽子型の陣笠に金箔を押し固めたものだろう。

これらは江戸時代でいう大名行列の先例となるものなので、「見物ノ人」は誰ひとり声を上げずに眺めていたが、政宗本人の姿が見えると、あまりにも「カハリ候出立(=変わった格好)」であったため、武者たちの立てる足音や武具の音が聞こえなくなるほどの歓声が上がった。

先に述べた「黒漆五枚胴具足」を着用していたのだろう。政宗の行列は京都中で褒め称えられたという。

若き日の政宗

岩出山城 震天動地, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

しかし政宗には、よく知られた恐ろしい逸話がある。天正13年(1585)閏8月、政宗は陸奥国安達郡にある大内定綱配下が守る小手森(おてのもり)城を攻めた。定綱は政宗に味方すると約束しておきながら、これをいきなり反故にした。政宗にすれば絶対に許せない裏切り者であった。

小手森城を陥落させた政宗は、妻の兄である最上義光や家臣および地元の僧侶に当てて、籠城した兵たちを全員「撫で斬り」にしたと手紙で書き送った。籠城戦に無関係なはずの「犬まで」も皆殺しにしたと述べている。

当事者の手紙は「一次史料」と呼ばれ、歴史学では最重要視されている。
だが、その後、大内定綱は政宗が岩出山城に転封されると、政宗の家臣となっている。籠城した家臣たちを皆殺しにされてこのような転身はちょっと考えにくい。

また、伊達家の関与していない二次史料では、小手森城の城兵たちは落城間近で、侍女や軍馬を含めて、伊達軍の手にかけさせるなと言い合って、全員自害したと伝えられている。

私は二次史料の記録が正しいように思う。
しかし政宗は、事実が周囲に広まると、敵の戦意が高まってしまうと踏んだのだろう。何より自分が舐められるのが腹立たしかった。

そこで偽悪的に「これは俺がやった」ということにして人々に言いふらしたのだ。
政宗はとても見栄っ張りな男であった。

病床の政宗

伊達政宗像 政宗の遺言に従い両目を開いた状態で描かれている

その美意識は徹底されていて、弱いところを誰にも見せようとしなかった。

最晩年の頃である。
重病に苦しむ政宗を見舞おうと、ひっきりなしに来客が訪れた。徳川家光が驚くほど衰弱していたが、それでも周りが止めるのも聞かないで、来客相手に上下で正装して対応することにした。苦しい時にこんな真似ができる人間など、そうそういないであろう。

政宗の胆力は本物であった。
その最期は妻子を招かず、看護にあたる老いた侍女たちに「昔は戦場を死に場所と駆け巡っていたが、こんな形で死を迎えることになろうとは予想しなかった」と述べていた。そしていよいよとなった時、「もはやいかん」と言い、天竺(仏教の聖地)のある西に向かって手を合わせ、倒れた。息子の忠宗と侍医が駆けつけたが、政宗は彼らを睥睨するように見て、「やっ!」と一喝して息を引き取った。万治元年(1658年)享年60。

祭り開催情報

名称 第60回政宗公まつり
開催場所 宮城県大崎市岩出山船場21
スコーレハウス
開催日 2023年9月9日(土)、2023年9月10日(日)
主催者 政宗公まつり協賛会
関連サイト http://www.masamunekou-maturi.com/
https://masamunekou-maturi.jp/
この記事を書いた人
歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

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