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鬼の正体とは?日本や世界の鬼面が集結!京都・大江山の「日本の鬼の交流博物館」を訪れた

更新日:2024/3/8 稲村 行真
鬼の正体とは?日本や世界の鬼面が集結!京都・大江山の「日本の鬼の交流博物館」を訪れた

鬼と言われると何を思い浮かべるだろうか?日本の昔話『ももたろう』では主人公に退治されてしまったり、節分の日には豆をぶつけられたりと、鬼にはどこか悪者のイメージがつきまとっているように思う。しかし、鬼は本当に悪者なのだろうか?

日本全国の節分行事には「鬼は外、福は内」だけでなく、数が少ないながら「鬼は内、福は内」や「鬼は内、福は外」という場合もあるという。地域の統治者の名前に鬼の文字が入っていたとか、鬼が人を助けたとか、由来は様々である。大人気アニメ『鬼滅の刃』のヒロインである禰豆子(ねずこ)も、鬼でありながら人間に守られる存在として描かれている。つまり鬼のイメージは場所や時代によって捉え方が異なっており、非常に多義的であるということをまずは押さえておかねばならない。

私は今回、「鬼とは何か?」という問いを再考すべく、鬼伝説で有名な京都府・大江山麓にある日本の鬼の交流博物館を訪れた(2021年7月)。この博物館は日本と世界の鬼の対比や、日本全国の鬼伝説を広く取り扱っており展示品も豊富で、鬼について理解を深められる日本有数の場所である。どのような気づきを得たのかを振り返っていきたい。

「鬼」を表現している博物館

日本の鬼の交流博物館は京都丹後鉄道宮福線・大江駅からバスで20分のところにある大江山の家で下車、そこから徒歩約2分の場所にある。大江山の家の前には広い駐車場もあるので、車でのアクセスも可能だ。博物館の場所はとてもわかりやすい。外観を見て「これは2本角がある鬼のようだ!」とすぐに気がついた。

この博物館の横には巨大な鬼瓦がある。日本全国の職人に頼んで制作したらしい。ところどころ色に違いがあるのはその証拠である。綺麗にスッキリ作られているよりも、思いが込もっているように思える。

世界的な視野から日本の鬼を再考する

日本の鬼の交流博物館の中に入ると、鬼瓦やら鬼の仮面がずらり!鬼、鬼、鬼!日本中、世界中の鬼をこの場所に一気に集めたような展示の数々に圧倒された。また、展示に対する解説がとても細かく参考資料も豊富にあるので、鬼についてしっかりと理解を深めたい人にとっても楽しめる場所となっている。

こちらは入り口入ってすぐの展示内観。日本の鬼の系譜が書かれている。

日本の鬼にも民俗芸能の鬼、祀られる鬼、鬼瓦の鬼など様々なコーナーがある。

愛媛県宇和島市には「牛鬼」と言って、顔は鬼、身体は牛の妖怪が伝えられている。

世界各地から集められた鬼の数々。真ん中の2本の角がとっても長いのはベトナムの鬼!

インドネシアの聖獣バロンは生、魔女ランダは死を司る

世界の鬼に共通する考え方とは?

展示を拝見していて、日本の鬼も世界の鬼も一つに括ることはできないと感じた。しかし、あえて展示の言葉を借りるならば「世界的秩序=コスモスからはみ出し、混沌(カオス)にひそむ超越的な力を表現している」と言えるようだ。例えば、権力によって排除されてしまった豪族や異民族、怨みながら死んだ霊や妖怪、災厄や自然現象までもが鬼の範囲に含まれる。鬼に対する考え方は、場所や時代性によって大きく左右されるようだ。

日本の鬼の元になった考え方は?

展示やそれについてのパンフレットの内容を元に、日本の鬼について掘り下げていきたい。日本の鬼とは?を考える上で欠かせないのが、インド・中国・朝鮮という伝来ルートの存在だ。インドや中国における鬼概念は死者との強い結びつきがあり、仏教の発展とともに広がった考え方だった。また、朝鮮の鬼は儒教的な発想が強く、土俗信仰とも結びついた。鬼を捉えてしまう絵を家の軒先に飾り災厄などを防ぐという風習もあったようだ。

日本に鬼が登場したのはいつ?

それでは日本における鬼はいつから登場したのだろうか。712年成立の現存最古の歴史書・古事記に鬼に関する記述はない。ただ、その8年後に編纂された日本書紀では「もの」と訓読する鬼のような存在が登場。佐渡ヶ島に漂着した粛慎(みしはせ・中国北方の民族)の風習や容貌に脅威を感じて逃げたという話が掲載されている。また733年に成立した『出雲国風土記』では、一つ目の鬼が登場し、これが鬼の初出とも言われる。

※鬼の初出に関しては様々な説があり、『日本書紀』に書かれている斉明天皇崩御時(661年)に登場した大笠をかぶった鬼が初出とする説もある。

日本の鬼はどのように広がっていったの?

平安時代以降は、怨みをのんで死んだ人の霊が祟る御霊信仰、自然の脅威に対して天文・暦・方位などを思考や行動に生かしていく陰陽道、浄土信仰の中で生まれた地獄の思想などを背景として鬼のイメージが確立してきた。これは疫病の流行など社会不安が増大した結果である。牛のような角と虎のような牙があり、まだらのふんどしを履いているイメージのことである。牛と虎のイメージは陰陽五行説における鬼門などからきているとされる。

鎌倉時代以降は新仏教の台頭と地獄思想に影響を受けた『餓鬼草子』などの絵巻物に知られるように、名僧によって鬼もそれに苦しめられた人々も救われるという思想が広まった。鎌倉以降に有名になった鬼の話は、大江山の酒呑童子、安達ヶ原の鬼婆、戸隠山の鬼女紅葉の3つである。鎌倉時代は武士の台頭とともに鬼は武勇によって駆逐される武勇賛美の道具として語られるようになった時代でもある。

室町時代以降は能(謡曲)に、鬼の出てくるドラマ(幽鬼物)が多く見られるようになる。能の世界では、破滅的心情の中で極限に追い詰められた人々の意思を視覚的に表したのだ。また、江戸時代の鬼は小説や芸能、演劇の世界の中に娯楽として生きることとなり、鬼の恐ろしさや現実味が薄れていくこととなる。

大江山の鬼はどんな鬼?

それでは、この日本の鬼の交流博物館周辺に伝わる大江山の鬼伝説についても見ていきたい。大江山の鬼伝説というと、主に3つあるそうだ。まずは、崇神天皇時代に土地を追われた陸耳御笠(くがみみのみかさ)という豪族の話、そして、7世紀に英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちくま)の3名に率いられた鬼の大集団が聖徳太子の弟・麻呂子親王に討伐された話。最後に、酒呑童子の話である。大江山の鬼伝説を広く認知させるきっかけになった酒呑童子の話についてここで振り返っておきたい。

酒呑童子の伝説に登場する鬼たち

酒呑童子とは何者だったのか?

内容の要旨は以下のようである。

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今から約1000年前、正暦元(990)年に大江山千丈ケ嶽に酒呑童子を頭目として、茨木童子を副将、熊童子・虎熊童子・星熊童子・金熊童子を四天王とした鬼の一味が立てこもっていた。藤原摂関政治の時代に、都あたりに出没して池田中納言の娘がさらわれたことをきっかけに、一条天皇が源頼光に鬼退治の勅命を下した。武勇の高い渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武の四天王を従えて、山伏姿に身を変えて、蔵王権現、元伊勢内宮外宮、天の岩戸を祈願して山に入った。それから住吉・八幡・熊野の3神が現れ、神変鬼毒酒(人が飲めば薬、鬼が飲むと毒となる薬)を授けられた。さらに山に分け入ると血染めの衣を洗う女の案内で鬼の城に入り、酒呑童子はそれを迎えて酒宴となった。酒呑童子は血の酒、腕や股の肉を食べさせ、それを受け入れた山伏たちを疑うことがなくなった。酒呑童子は打ち解けた態度で自分の半生を語るが、源頼光は神変鬼毒酒を振る舞った。そして、酔いつぶれた酒呑童子の首をきり、その際酒呑童子の首に噛み付かれたが3神にもらった星兜によって難を逃れ、都に凱旋した。

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平安京の繁栄に対して、酒呑童子はどのようなメッセージを残したかったのだろうか。これは上述のように鎌倉時代の武士の台頭と関係しており、源氏の武勇と隆盛を物語るストーリーであったとも言われているため、実在の出来事であったかは定かではないようだ。

鬼は鉱山師だった!?

大江山の鬼伝説に関して、様々な説が飛び交う中で、大江山の鬼は鉱山師だったという説もあるようだ。例えば、酒呑童子物語においてその住処が「鉄の築地(ついじ=土台)に鉄の門」と表現され、酒呑童子の出生地である新潟・弥彦山では製鉄民の崇敬を受ける神を祀っているという。大江山は地下資源が豊富でタタラ跡も残されているが、製鉄によって焼けただれた表情は鬼と間違うものだったのでは?とも考えられている。鬼が製鉄民だったという可能性は全国的に事例が検討できそうである。

鬼のモニュメント、目線の先にあるものは?

日本の鬼の交流博物館にはここに紹介できなかった鬼の話がたくさんあふれている。現地に行けば、何かしら鬼に関する新しい気づきや価値観と出会えるだろう。本当に充実した滞在で、ゆっくり見て回ったので、2時間以上はかかった。

それから博物館を後にして、バス待ちの時間に周辺を回ってみた。大江山の家バス停前にある大江山グリーンロッジでは簡単な食事をすることができる。私はまだランチを食べていなかったので、「鬼喰うバーガー」(500円)をいただいた。豚肉や卵が入っているボリューミーなバーガーで、卵のトロトロ感が美味しかった。その他にもおにぎりなど、軽食が充実していた。

大江山グリーンロッジの鬼喰うバーガー

また、周辺を歩いてみると、鬼の人形が様々な場所に設置されている。道端から鬼がひょこっと出てきたら面白そうだと想像が膨らむ。

少し高いところまで上がってみると、ウルトラマンのデザイナーで知られる成田亨さんが制作された「鬼モニュメント」があった。5mの台座と3mにおよぶブロンズ像はとても迫力があり、繊細な作りには驚かされる。視線の先に京都市があるようだが、何を想い鬼たちは京都を望んでいるのだろうか。昔、この地に生きていた鬼たちに想いを馳せるのに、とても良い場所である。

現代は妖怪ブームと言われているが、日本史上鬼がブームとなったのは、平安時代末期、室町時代末期、江戸時代末期だったという。いずれも社会的不安が絶頂となり、政治的空白が存在していた時期である。現代日本人も企業のセーフティーネットを求めながら、人間関係や労働環境の不自由さに息苦しさを感じている人が多い。生き方に正解がない混沌の時代において、インターネットによる効率化や科学技術の発展では補えない人知及ばぬ力を感じることもあるだろう。地震や津波などの自然災害に脅威を感じることもあるかもしれない。心に鬼が住み着くのは大昔の話だけではない。現代人が誰でも経験しうることなのだ。そう考えると「鬼とは何か?」をさらに知りたくなってくる。

 

<日本の鬼の交流博物館の基本情報>

●住所
京都府福知山市大江町佛性寺909

●アクセス方法
京都丹後鉄道宮福線・大江駅からバスで20分、大江山の家で下車。そこから徒歩約2分。

●開館時間
9:00~17:00(入館は16:30まで)

●休館日
毎週月曜(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月28日~1月4日)

●入館料
一般      330円
高校生     220円
小中学生 160円

●15人以上の団体(料金は1人分)
一般     260円
高校生   170円
小中学生 130円

日本の鬼の交流博物館のホームページはこちら

この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター
日本全国500件以上の獅子舞を取材してきました。民俗芸能に関する執筆、研究、作品制作等を行っています。

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