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宮司不在だった神社を再建?日光大室高龗神社の狐塚宮司にインタビュー

更新日:2024/3/5 Narai
宮司不在だった神社を再建?日光大室高龗神社の狐塚宮司にインタビュー

日本に現存する神社の数は約八万社ありますが、そのうちの約七万社は宮司がいない神社であることをご存知でしょうか?

読者のみなさまの近所にも正月や祭りの時以外は社殿が閉まっている神社があると思います。その理由は後継者の不在や、神社の支えとなる氏子の減少などが挙げられます。

そのような傾向の中、一度宮司不在の神社となったものの、約二十年の歳月を経てすっかり変貌を遂げ、歴史ある神社の息を吹き返した日光大室高龗神社の再建ストーリーをご紹介します。

「めぐりあわせ」で宮司として就任

日光大室高龗神社は日光市大室に鎮座し、古くから多くの信仰を集めている神社です。

由 緒

高靇神社は日光市大室字大山の中腹に鎮座する。創建年月は不詳であるが、口碑によると永承六年六月・奥州下向のとき、源義家が鬼怒川洪水の為当社付近に滞在し減水を待ったと言われ、故に永承以前の古社であるとも伝えられる。

往古より正一位靇大権現と称し、大室村の鎮守として崇敬されてきたが、明治六年六月三日、近隣十四ケ村を代表する社として郷社に列せられる。更に明治十年七月には三十七ケ村の郷社となる。

明治四十三年十一月、本殿の改修・拝殿の新設を行い、同年、県より神餅幣帛料を供進されることとなる。

引用:日光大室高龗神社HP「由緒」より抜粋

高龗神社では代々地元の人が宮司を務めていました。それがある時後継者不在で途絶えてしまい、この神社は宮司不在となります。当時はとなりの地域の神主がいわば出張のような形で管理していました。神社が開くのは年間七回の祭事の時のみ。うっそうとした森の中にひっそりと佇む神社でした。

しかしその神主さんも他界してしまい、代替えの時にこの地域出身の神主である狐塚泰久さんにお声がかかったそうです。当時の狐塚さんは他の大きな神社の神主として勤めており、先代と同じく掛け持ちで高龗神社にご奉仕していました。その後数年間の兼務を経て、狐塚さんが43歳の時に完全移行で高龗神社の宮司として就任する事となります。

その時の事について

「大きな神社で働いていたけど、当時その神社での仕事がエスカレートしてきた事や、プライベートでも色々とあって、辞めたいとの考えがあったんです。それに高龗神社は小さな神社だけど、こっちに来たら俺いきなりトップだし!」

と冗談交じりに話す狐塚さん。

しかし、40代にして安定した神社での職を手放し、小さな集落の神社へと移る事は大きな決断であった事でしょう。

「始めの頃はここを何としても人が集まる場所にしたいと、とにかく仕事一筋でやっきになっていました。木の間伐をし、施設を整備したり、ブームに乗って色々な御朱印を作ってみたり。
当時は“お祭り”って僕の頭の中に無かったんですよ。それよりも一般のご祈祷だったりとか、お守りを売るだとか、そういう事しか考えてなかったです。
お祭りは頑張ったとしても、人をまとめる大変さだったり、やったところで人が来るのだろうかという心配があったりと、苦労する割には神社に収入がありませんから。」

宮司としてやっていくには、先ず神社に収入をもたらさないとならないのが現実です。氏子の総数は400戸くらい、多くの方が協賛金を払ってくださったとしても、それだけでは神社として成り立たないのだとか。
当時の年間のお賽銭額は数万円。その他この地域で元々神社でのお葬式(神葬祭)が定着していたため、それによる収入がありましたが、それでも十分ではなかったとのこと。
できるだけ広く、県内はもとより関東中からも参拝に来てくれる神社にしなくてはならないと、様々な取り組みを試みました。しかし、地元の人の反対にあったり、長く続かなかったりと、失敗に終わった事も多かったとか。

「全てはめぐりあわせで今高龗神社の宮司をやっています。精神的にきつい時期もありましたが、結果としては良い選択でした。」

気さくにインタビューに応じて下さった狐塚泰久宮司

震災をきっかけに、より深まる氏子との絆

様々な失敗を繰り返しながらも、狐塚宮司の取り組みは少しずつ功を奏し、遠くからの参拝客も増えて軌道に乗ってきた折に起こったのが、東日本大震災でした。

「言い方は悪いですが、地元の人を相手にするより、広く宣伝して沢山の参拝客が集まればそれでいいんだなんて、調子に乗って考えていたんです。
それが震災の時に、境内の灯篭が全部崩れたんですよ。その時にすぐ駆けつけてくれて、色んなところを直してくれたのは、みんな地元の人たちだったんです。ずっと何代にもわたって神社を支えてきた地元の氏子さんたちだからこそ、何かあるとすぐ駆けつけてくれる。それがあった上で今の神社が成り立っていると気付かされました。」

高龗神社は「病気平癒」「厄除け」などのお祓いを中心として多くの参拝客を集めていますが、その他にペットやバイク、車のお祓いや、それに伴った特殊なお守りや御朱印も扱っています。変わったところでは、この地域で盛んなスポーツである「フィールドホッケー」のお守りもあるそうです。

すべては神社の参拝客を増やし、再建する為に始めた取り組みであったものの、お守りや御朱印が爆発的に売れるわけでもないとの事。それよりもこの土地の神社の宮司として、先ずは氏子の方々に目を向ける事が大切だという事を、震災を通して強く感じ、考え方が変わるきっかけとなったそうです。

高龗神社で扱う御朱印。他にもバイクや四駆の御朱印が人気を集めている。

この地域で盛んなホッケーのお守り。全国的にも珍しいそうです。 

「何とかして宮司として食べていけるようにならなきゃ、正直なところそれしかなかったんです。
だけどだんだん軌道に乗ってくると何が大切なのか見えてきたのかな。毎年決まった日に祭典をきちんとやっていて、それを見ていてくださる地元の氏子さんたちがいるから神社があるんだなとか。
そこらへんが強い信仰の元になってくるのかな。やっぱり“お祭り”っていうのは一番大切なんです。

新たな祭りへの取り組み

「もともとここはお神輿のような“お祭り騒ぎ”をするようなお祭りってないんですよ。祭典を行った後、みんなでお酒を飲んで直会(なおらい)をするという、シンプルなスタイルで。」

そんな高龗神社で若い人も巻き込んで盛り上がりたいと、狐塚宮司が提案した取り組みに「日光奇水まつり」がありました。
高龗神社がある大山の中腹から湧き出る水は、古くから怪我や病気を治す御神水とされ、神社の主な御神徳は「病気平癒」となっています。そこにあやかり新たに始めた水の祭りでしたが、長くは続かなかったそうです。

御神水は「湧水源」から空気に触れぬよう地下のホースを通して境内まで引いてます。

「ここから少し離れたところの町にある神社と合同でお水の祭りをやったことがあるんです。大きい桶が乗っていて、中に水が入るようなお神輿で。
うちも、そこの神社も御神水があったんでやってみたんですけど、この辺は若い人に神輿を担ぐ感覚がないんですよ。やったことがない人ばっかりですから。そこに他のところからお神輿のベテランを呼んで来たりすると、引いちゃうんですよね。やるごとにノリが悪くなってきて。地元の担ぎ手がどんどんいなくなっちゃって、できなくなったのがありましたね。」

また、狐塚さんが新たに取り組んで、現在でも続いている祭りとして、「奥宮大祭・雅楽演奏会」があります。

「奥宮のお祭りはずっと行われていなかったんです。ここから少し上がっていったところに奥宮があるんですけど、何かお祭りをやらなくちゃおかしいと、それを夏の祭りとして提案させてもらって。ただやるだけじゃなくて、私は雅楽をずっとやっていたものですから、雅楽の演奏会をやろうと。」

「ここの神社は大昔から楽人さんがいたんですよ。だから雅楽に関してはみんな馴染みがあったんですよね。だから新たにまた再開という形で、これは比較的やりやすかったですよね。」

その雅楽演奏会も、コロナ禍で中止となっているそうです。

「お祭りをやらなくてもいいんじゃない?というような風潮、感覚が定着しないようにしたいですね。実はやる方もすごく楽だったりするところもあって、イベント事は私もさんざんやって来たんですけど、お金が少しぐらいかかってしまうのは仕方ないとして、精神的な疲労ってものはすごくあるんですよね。
お互いが、“やらなくてもいいよね?”みたいな感じにならなければいいですけどね。今年できなくても来年くらいにはやりたいです。それも盛大にね。
そして“やっぱりお祭りっていいな”と思ってもらえるといいですね。

山の上にひっそりと佇む奥宮

境内の奉納舞台にて開催される雅楽演奏会の様子(画像提供:高龗神社)

 

杜と神社を想う氏子たちと共に 

美しく整備された大室の森林

二十年前の高龗神社は年に7回の祭典時以外は殆ど人が訪れることが無い神社でしたが、現在は地元の人のみならず、遠方からも多くの人が参拝に来る神社となりました。

宮司として就任した狐塚さんを助けたのは、地元の林業ボランティア「大室の森林をつなぐ会」の方たちだったそうです。

「この辺一帯は全部木でしたから。間伐もしていなかったから当時は真っ暗。自然林と違って人工林は手入れしないとダメなんですよ。杉檜って全部人工林ですから、間引いて、枝おろしをして、幹をよく見せる。そうすると健康に育つし、周りの感じもいいじゃないですか。」

伐採した木材を使い、参拝者が休める雰囲気の良い東屋や、檜の香りが心地よいトイレ、森を散策するための木道、山の上にはツリーハウスを建設するなど、全て狐塚さんのアイデアと林業ボランティアの方々の力で、一つ一つ作り上げたそうです。わずか20年前までは一帯が森で覆われていたと聞くと驚くくらいに明るく、施設が充実しています。

2021年現在の高龗神社。様々な施設が充実しています。

「大室の森林をつなぐ会」によって整備された、ツリーハウスへと向かう遊歩道。(老朽化によりツリーハウスは2021年現在立入禁止)

参拝客の憩いの場となる心地よい東屋。

それらの取り組みに地元の方々から絶賛の声が上がる中、同時に反対の声も少なくなかったとか。

「集落にはいろんな人がいて、それぞれが想う神社があるんですよね。高龗神社はうっそうとして、少し暗いような、そういう神社だからいいんだよ、とか。」

そのような意見も、自分たちの神社を大切に想うからこそですので、狐塚さんにとって精神的なダメージを受ける局面も多々あったそうです。

実際に他の神社では、地元の人からの反対の声があると、何もできないという神主さんが多いようです。「余計な事はしなくていい」との考えだとか。

しかし、神社の存在、役割を後世につなげていく為に、今やらなくてはならない事があるのも現実です。

「大きく世の中変わってくるじゃないですか、どんな仕事だってある程度そこらへんを見据えないといけないし、神社界もそうだと思うんですよね。実際境内を綺麗にしたら、若い人も沢山来て下さるようになったしね。」

そして2021年、高龗神社の境内に新たに「胎内くぐり」が設置され、6月30日「夏越の大祓」の日に合わせ、落成式が執り行われました。

ここを通り抜ける事で肉体と魂を浄化し、生まれ変わるとされている。

この胎内くぐりは、高龗神社が鎮座する大室地区で古くから「大杉」との屋号を持つ家にあった推定樹齢600年以上とされる杉の大木が使われ、「大室の森林をつなぐ会」の方々によって設置、奉納されました。

その大きさは全長2メートル、重さ2.5トンにも及ぶ立派なもの。これからもこの土地の人々に愛され、神社とともに生き続けることでしょう。

「大室の森林をつなぐ会」は、その活動を高く評価され、表彰されています。

終わりに

このように一度宮司不在となった神社を再建したというケースは極めて稀な事のようです。高龗神社でそれを成す事ができたのは宮司として就任した狐塚さんのアイデアと行動力、そして、氏子たちの神社に対する想いがうまく合わさって実現された事で、どこの神社でもできる事ではないように感じました。

周辺地域の方たちは「高龗神社はいいよね、氏子が動いて協力してくれるから」と言うそうです。それについて狐塚さんは「もう飽きるほど聞きました。高龗神社は私じゃなくて、氏子の力なんです。」とやや拗ねたように言います。

しかし氏子の力だけでは到底成しえない事であるのは明白で、現在の高龗神社には狐塚さんの熱意と、ちょっとした遊び心を随所に見る事ができます。

そして、豊かな森林と、美しい水が湧き出るこの山が、古くから信仰を集める霊験あらたかな土地であったという事も、ここに人々が集まってくる要因なのではないでしょうか。

今後もこの神社が人々の心のよりどころとして存在し続ける事を願ってやみません。

●日光大室高龗神社HPはこちら

●高龗神社での車のお祓いについて詳しくは下記の記事をご覧ください。
スズキ・ジムニーJB64交通安全のお祓いに!四駆好きが集まる全国唯一の神社とは?(Motor-Fan.jp)

この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター

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