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2023年豊橋鬼祭、天狗と赤鬼のからかいが見どころの本祭に密着!祭りを通じて感じた継承の形と変化とは?

更新日:2024/2/29 稲村 行真
2023年豊橋鬼祭、天狗と赤鬼のからかいが見どころの本祭に密着!祭りを通じて感じた継承の形と変化とは?

「豊橋鬼祭」は毎年2月10日・11日に愛知県豊橋市を舞台に行われる、春の訪れを告げるお祭りです。安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)を舞台に、宵祭と本祭の2日間行われました。

レポートの後編では、「天狗と赤鬼のからかい」をはじめ、神楽の数々や年占いなど、見どころの詰まった本祭の様子を振り返ります。

宵祭の開催レポートはこちら

豊橋鬼祭とは?

当日の様子を振り返る前に、豊橋鬼祭の概要について簡単に触れておきます。このお祭りは日本建国の神話を田楽に取り入れて神事としたものといわれており、古来よりその形を崩さず継承されてきました。五穀豊穣や無事安寧などの願いが込められています。

最も知られている本祭での「赤鬼と天狗のからかい」を中心に、御神楽、田楽、年占い、御神幸など、数多くの神事が、2日間にわたって行われます。約千年の歴史があり、神事として戦争中も中断することなく奉納されてきました。1980年(昭和55年)には、国の重要無形民俗文化財に指定されました。

まずは早朝の「日の出神楽」から

雨が降っていた前日とは違い、本祭の当日はからっと晴れており、安久美神戸神明社は朝日を浴びて清々しい雰囲気に包まれていました。

朝8時から神楽殿にて、西新町の方々による「日の出神楽」が行われました。

御神楽児の男児2名が鈴と麻(ぬさ)を振りながら回ります。白塗りの化粧ときりっとした目元がよく映えています。衣装がとても豪華ですね。

例祭が始まり浦安の舞が奉納される

午前10時から例祭が始まりました。

宮司による祝詞(のりと)の奏上につづき、美しい巫女の入場です。こちらは曲尺手町(かねんてちょう)による浦安の舞。まずは「扇の舞」が奉納され、続いて「鈴の舞」も奉納されました。

優雅な演舞が見られました。

小鬼による地踏み行事

11時50分に小鬼の地踏み行事が開始されました。いよいよ鬼の登場です!鳥居の前から札木町(ふだぎちょう)の小鬼が勢いよく境内に入ってきました。小鬼はここから本殿前の儀調場(ぎちょうば)まで進みます。

小鬼が手にしているのは「撞木(しゅもく)」と呼ばれる武器です。とても柄が長く、銀と赤の斜め縞模様になっています。T字の短い方は模様が4等分に区切られており、「春夏秋冬」の四季を表します。そして長い方は12等分になっていて、1年12カ月を表しているといわれています。

儀調場に立った鬼はタンキリ飴をまき始めます。このタンキリ飴を食べると夏病み予防になるといわれており、飴には「1年間元気に過ごせますように」という願いが込められています。

さあ、ここからは地踏み行事の始まりです。

小鬼の所作は、後述する「赤鬼と天狗のからかい神事」で登場する赤鬼と似たような「地踏み」を行います。

この地踏みには罪、けがれ、災い事を大地に封じ込め、大地を再生し、私たちに祝福をもたらす意味があるといわれています。これは相撲でお相撲さんが踏む「四股(しこ)」と同じ意味があるそうです。

扇子をめがけて、小鬼がステップを踏んでいきます。

小鬼は衣装で体が重いと思いますが、その重量を感じさせることのない、軽快なステップを見せてくれました。

地踏み行事が終わり、小鬼は社務所に立ち寄り、お供物のタンキリ飴を差し出します。ここから小鬼は、人々に幸せをもたらす鬼に変身するのです。

鬼は門寄りに向けて出動しました。タンキリ飴と白い粉(小麦粉)を豪快にまき、大地を祓い清めながらの退出です。

白い粉はものすごい量です。

小鬼の門寄りが始まりました。要望のあった約200軒の家々に門寄りをして、お供物のタンキリ飴を手渡し、感謝と祝福を受けます。途中、談合神社(談合の宮)にも立ち寄り、安久美神戸神明社に戻って来るのは、午後7時ごろの予定です。

五十鈴神楽の奉納

宵祭に引き続き、12時半からは呉服町の方々による、五十鈴神楽が行われました。

2人の可愛らしい神楽児が美しく化粧をし、紫衣緋袴(しいひばかま)に舞衣である千早(ちはや)を身に着け、太陽と月を表わした天冠(てんかん)を頭に載せ、右手に鈴、左手に麻を持って神楽を舞います。

楽人の奏でる笛、大太鼓、小太鼓のゆかしい調べに合わせて、2人の神楽児が静かに、左へ3回、右へ3回、左へ3回と連続して回り舞い納めます。舞の後は記念撮影の時間もありました。

赤鬼と天狗による田楽ならし

五十鈴神楽の奉納の後、一の鳥居を入ってすぐの潔斎殿の前では、赤鬼と天狗による「田楽ならし」が始まりました。これは装束を身に着けた神役が、「赤鬼と天狗のからかい」の前に行う、最後の予行練習です。

赤鬼も天狗も、装束の重さは20kg以上あります。「ならし」では、この身に着けた装束が10時間以上の長丁場に耐えられるか、具合を確かめる意味もあるそうです。

青い着物に茶色の裃を身に着けた、赤鬼の警護衆が「アーカーイ」と声を張り上げているのは、赤鬼の登場が近いことを知らせています。そしていよいよ登場した赤鬼は、ものすごい迫力に満ちていました。

それに立ち向かう天狗も、潔斎殿から登場します。天狗は高く足を振り上げて、リズミカルに行進するように現れました。

黒鬼は動かずにそれを見守ります。

田楽ならしを見ることで、これから行われる「赤鬼と天狗のからかい」がより一層楽しみになってきます。

御的神事

その後、からかいが始まる前に、儀調場では鍛治町の方々による「御的神事」という神事が行われました。

この神事は神前で矢を射て、この年の農作物の豊穣を祈り、厄鬼退散を祈願する目的があります。高い所の土地を示す「干地(かんぢ)」と、低い所の土地を示す「福地(ふくぢ)」の2人の射手が、 20歩前方の的に向かって合計12本の矢を放ちました。この12本の矢は1年12カ月を意味しており、1年の平穏無事の祈りが込められています。

御的は杉の木で作られています。薄い板の表に3重の円が書かれており、裏面には「鬼」という漢字に似た文字が書かれています。

これは「甲」「乙」とカタカナの「ム」の3文字が組み合わさったものです。御的神事は勝負を争うものでは無いことから、「甲乙ム(無)」(こうおつなし)という意味でこの文字を作ったと考えられています。このような的を用いる御的神事は非常に珍しいようです。

天狗と赤鬼のからかい

御的神事が終わり、午後2時ごろ、いよいよ「赤鬼と天狗のからかい」が始まりました。天下の奇祭である豊橋鬼祭においてひときわ名高い神事であり、五穀豊穣、無病息災、厄除け、諸難消除、天下泰平、産業振興の願いが込められています。

荒ぶる神である赤鬼がいたずらをするので、武神である鼻高天狗が赤鬼を懲らしめようとしますが、赤鬼も必死で戦いを挑むというストーリーです。天狗と赤鬼のそれぞれが、ご神前で秘術を尽くして戦うので、その所作に注目です!

「赤鬼と天狗のからかい」は赤鬼の地踏みから始まりました。

赤鬼は全身赤の装束で、筋骨たくましき巨体を白い太い紐で肋骨のように縛り、虎の皮の褌(ふんどし)を締め、金色の頭髪を後ろに長くたらすという風貌です。

高足取(たかあしどり)という足を後ろに跳ね上げるように進む独特のステップで進みます。撞木(しゅもく)を片手に打ち振り、天狗に向かって、意気揚々と稲妻型に前進するのです。お面を被っている赤鬼は視界が狭いため、向かう先には常に日の丸型の扇子があり、目印にもなっています。

赤鬼に対抗するのは天狗です。

天狗は二の鳥居の手前あたりにて構えています。微動だにせず、ただひたすらに赤鬼の動きをじっと見つめています。天狗は日本神話に登場し、武神として知られる猿田彦(サルタヒコ)の化身です。鎧を着て太刀を背負い、侍鳥帽子(さむらいえぼし)を身に着け、薙刀(なぎなた)を持ち、鼻高の面を被っています。この天狗の薙刀は、邪気を祓う平和的なシンボルです。

天狗は大地を固くしっかりと踏みしめ、跳び上がって前進します。一方で赤鬼は天狗をあしらいつつ、後へ後ろへと退却していきます。

儀調場の前まで退却してきた赤鬼と、その赤鬼を追い詰めた天狗は、立ち止まります。この時間は扇子であおがれるため「風を入れる」と表現されます。赤鬼と天狗にとって、呼吸を整えるための小休憩です。

社殿と赤鬼に背を向けた天狗は、薙刀を小脇に抱え込んで後退をしていきます。一歩一歩と大地を固く踏みしめ、二の鳥居のほうへと戻っていくのです。

天狗が後退し、気分をよくした赤鬼は、意気揚々と撞木を振りかざし、高足取で天狗に向かって進み始めました。赤鬼は右斜めから天狗に撞木を突きだし、天狗は直ちにこれに立ち向かいます。ここから、赤鬼が天狗を挑発する3つの「神秘的な所作」が披露されます。

一つ目は「すっこき」と呼ばれる、撞木を天狗に投げつける所作、二つ目は「鼻の穢れ(けがれ)」を天狗めがけて投げつける所作、三つ目は「股の穢れ」を投げつける所作です。どれも穢れを投げつけるということが共通しており、現代の感覚では、どこかユーモア溢れる所作としてとらえる方も多いでしょう。

天狗は、頭を上にそらすことで全ての穢れを避けることに成功しますが、数々の赤鬼の侮辱的な挑発にたまりかねて、二の鳥居まで退却することとなります。

天狗を退却させ、気分をよくした赤鬼は、意気揚々と天狗のもとに向かいます。

しかし、最終的には天狗が赤鬼を追い詰めます。鼓を「ポン」を打ち鳴らすと、太鼓が「テン」と響き、小さな板を綴り合わせた楽器・拍板(びんざさら)が「ザラ」と奏でる。励まされながらも、赤鬼を儀調場の前まで退却させます。

そして赤鬼は、耐えきれなくなり、ついに境内の外へと飛び出していきます!

自分が犯した罪の償いに、社務所に供物のタンキリ飴を納めた後、白い粉とタンキリ飴を豪快にまきながら、一の鳥居より出発して氏子町内を回る門寄りへと出かけていきました。

白い粉の量は小鬼の時よりも一層多く、境内にいる人々は真っ白に染められます。この白い粉を浴びタンキリ飴を食べると厄除けとなり、夏病みせず一年間元気に過ごせるといわれています。

赤鬼の門寄り

境内の外へと飛び出した赤鬼は、安久美神戸周辺の家々を回る門寄りへと出発していきました。道端では地域の方々が拍手をしながら見守る姿がありました。

時には一般宅で白い粉をまくこともありました。

自動車はビニールシートをかけて、しっかりと粉から守っていました。

赤鬼の門寄りを追っていく中で、粉をまく建物と、まかない建物があることに気がつきました。地域の方にお話を伺うと「以前はまくのが当たり前でしたが、今では希望者のところのみまく形に変わっています。昔は商店の中まで派手にかけてしまい、手土産を持って謝らなくてはいけないこともあったようです。希望者を募ることで皆が祭りを楽しめるように工夫しています」とのこと。時代に応じて、最善の門寄りのやり方を模索されているようでした。

夜になっても門寄りは続きました。

天狗の切祓

町中で行われる赤鬼の門寄りに並行して、赤鬼を追いやった天狗は儀調場にて「切祓(きりばらい)」を行いました。薙刀を両手で水平に構え、跳び上がって左右左と3回まわる所作などが見られました。この切祓によって赤鬼の退散を知らせ、天下のお清めをするという意味があります。

ひたすら頭をなでる黒鬼

その一方で額殿の前では黒鬼がじっと立っており、参拝客の頭をなでていました。穏やかに人々を見守り、堂々としたたたずまいです。この黒鬼に頭をなでてもらうと、子どもは夏病みをしないで、健康で頭の良い立派な子に育つとされています。

黒鬼は後ほど神輿を先導する重大な役目を担うこともあり、一番位の高い神役です。白色の着物に、白色の大口袴をはき、背中に二本の白い筋の通った黒色の上着を羽織り、黒い髪を後ろに垂らしています。

諸神楽や田楽

さて、天狗の切祓の後、儀調場では諸神楽や田楽が行われました。順にご紹介していきましょう。

① ポンテンザラの田楽

旭町、旭本町の司天師と、曲尺手町の笹良児(ささらご)の方々による「ポンテンザラの田楽」。鼓を「ポン」と打ち鳴らすと、太鼓が「テン」と響き、拍板が「ザラ」と奏でます。

司天師は、鼓と小さな太鼓をそれぞれ持ち、その後ろに並ぶ笹良児は、拍板を持ち、音を奏でています。

② 司天師田楽

続いて始まったのは、旭町、旭本町の司天師による「司天師田楽」。司天師は赤鬼に傷つけられた神様を表しており、足を引きずるような仕草を見せながら、面白おかしく体を回します。またこの田楽は、どこへ行っても安全で危害を受けることなく、平穏無事であることを意味しています。

③ 天狗の神楽

今度は飽海町の天狗の神楽が行われます。天狗は正面に進み、鈴と麻を持って、神楽を行います。この時、氏子らによって「ドンデン」という響きの大太鼓が打たれます。宮司はじめ、神職の方々は神楽歌を詠じます。

④ 司天師の神楽

その後に旭町、旭本町の司天師2人による「司天師神楽」が行われました。天狗と同じく「ドンデン」と打ち鳴らされる大太鼓に合わせ、宮司をはじめとする神職の方々が神楽歌を詠じます。司天師は、赤鬼に傷つけられた神様を表しており、足を引きずるような仕草を見せるのが特徴的です。

⑤ 御幸神楽

続いて、西新町の方々による「御幸神楽(みゆきかぐら)」が行われました。2人の男の子の神楽児が美しく化粧をし、髪を後ろに下げ、紫衣緋袴に千早(ちはや)をつけています。日月の天冠を戴き、右手に鈴、左手に麻を持って、笛や太鼓の調べにあわせて舞います。静かに左へ3回、右へ3回、左へ3回と繰り返し、鈴と麻を振りながら回って舞い納めです。

⑥ 笹良児神楽

曲尺手町による「笹良児神楽」です。その内容は御幸神楽とも似ていますが、右手で鈴を持ち、もう一方の左手にササラを捧げているなどの違いがあります。最後に神前に向かって拝礼をして、舞い納めをします。

御玉引きの年占い

諸神楽や田楽が行われたのち、最後の神事である「御玉引きの年占い」が行われました。

この神事では、その年の農作物の豊凶を占います。まず、持ち上げられた榎玉(えのきだま)を、天狗が薙刀で左右に切り祓いを行います。榎玉はこの後、占いに使われます。

堂々と立ち、たたずんでいた黒鬼が動き始めました。榎玉を黒鬼の前にてささげ持ったのち、石の四角の台の上に供えます。

先ほど御的の神事を行った干地と福地の射手2人が、榎の枝で作った「御鈎(みかぎ)」を両方から榎玉(えのきだま)の太注連縄(ふとしめなわ)に引っ掛け、これを3回引き合って勝負を決めます。

低い所の土地を示す「福地」が勝つと、その年は雨が少なく、低い土地の農作物が豊かになります。一方で高い所の土地を示す「干地」が勝つと、雨に恵まれ高い土地の農作物が豊かになるとされています。この地域の農民はこの御玉引の年占いの結果を受けて種まきの場所を決定してきたため、とても大切な神事として伝承されてきました。

さあ、多くの人々が見守る中、緊張の瞬間です。

榎玉は手前側に転がりました!

高いところの土地を指す、干地の勝ちです。今年は雨に恵まれ、高い土地の農作物が豊かになるという結果になりました。

榎玉は最後に高々と上げられました。

御神幸

境内における全ての神事が無事に終了しました。飽海町の黒鬼を先頭に、談合神社への御御幸の開始です。

天狗もそれに続きます。

次に、御頭様(おかしらさま)の乗せた御船代(おふなしろ)、司天師や笹良児が続きます。元来、鬼祭は御頭様を中心として行われており、儀調場においても中心に据えられるなど御神幸の主役となっています。

交通整理の方々など、多くの地域住民に見守られながら、さまざまな道を歩き談合神社に向かいます。

途中、祭壇が設けられており、子どもにお菓子が振る舞われることもありました。談合神社につくと、もう時間は午後6時を過ぎ、辺りは暗くなってきました。御頭様の乗せた御船代は社殿の中に入り、天狗の舞などが奉納されました。

そして御船代は長い旅路を経て、安久美神戸神明社の本殿に帰ってきました。

ここで御神幸は終了です。夜になりましたが、門寄りはまだまだ続きます。途切れることなく続く祭礼を堪能し、改めて古式の神事を忠実につないでいる関係者の方々の想いに触れることができました。近年は祭りや神事の簡略化が進んでいる所も多いですが、古い形式をそのまま伝えることの素晴らしさを感じることができた1日でもありました。

赤鬼のしきたり

ところで本祭の前日、赤鬼役をされたことのある中世古町の氏子総代の方に、赤鬼役を奉仕された時についてお話を伺う機会があり、赤鬼役になることへの誇りとともに、それを継承することの大変さを知ることができました。

――赤鬼のしきたりについてお話を伺いたいです。

毎日の暮らしすべてにしきたりがあります。まず赤鬼役を決めるには、希望者の「御籤(おくじ)の儀」というくじ引きから始まります。それで赤鬼に決まった人は、直ちに家族や関係者に報告し、神様へと奉告に参拝します。その儀式の後、鬼祭当日まで潔斎に入るという流れです。食事制限があり、四つ足の動物や牛乳などは摂取できません。これは厳粛に神役を担うための“斎戒(さいかい)”という考え方によるものです。

――練習はどのように行うのですか?

朝の5時から7時くらいまで、毎日ふんどし一丁で、赤鬼の練習(奉仕)をします。前の年に赤鬼をした先役が、まず今年の赤鬼役をお迎えに行って、すぐ側について細かい動作を教えます。

――ええ!そしたら赤鬼役も先役も、1泊2日以上出かけることはできないですね…。

そういうのはできないですね。潔斎に入ると、女性は赤鬼の役に決まった人を一切触ることができず、(奥さんがいても)食事の提供も、赤鬼役の衣類の洗濯もできません。自分でやるかお父さんにやってもらいます。お祭りの当日まで、この潔斎は続くんです。

――赤鬼役になりたいという方は何に惹かれるんでしょうか?

子どもの頃から赤鬼を見ていますから憧れがあるんでしょうね。赤鬼役は中世古町の住人しかできないんです。(1年に1回だから)次こそは鬼をやりたい、という気持ちになるんでしょうね。昔は赤鬼役になりたい人同士が喧嘩になることもあったようです。

――昔と今とで変わったことはありますか?

お宮さんでやる所作に変わりないですね。昔の方が俗界と距離を置くということに厳しくて、潔斎の期間に新聞を読んではいけないという時代もありました。あとは家に帰れず、潔斎殿で10日間過ごすということもあったようですね。これはとても厳しいことで、日中はひたすら精神統一をしたそうです。暑いとか寒いとか痛いとかかゆいとか、言っていられないですね。

――鬼を経験されたのはいつですか?

昭和の終わり頃ですね。

――楽しいことはありましたか?

ひたすら辛かった思い出があります。36歳の時、タイミング的に他に赤鬼を担う人が見つからなくて、なんとかやってくれんかと頼まれたのがきっかけでした。本当はもっと若くて25歳くらいまでにやるのが普通です。しかも会社員だと仕事を休まないといけないこともあります。それでも絶やしてはいけないという想いがありました。

――食事の制限はどう感じましたか?

食べ物が制限されると、なかなか力が出ません。飲み食いなしで祭りの当日は走ります。3kgくらい痩せましたね。

――ダイエットしたい人にとっては良いかもしれませんがハードですね。

赤鬼の衣装は約20kgあります。小柄で細身の人は格好がつかないので、腹の前に座布団をガンガンに詰められます。重い衣装をまとい、息もしにくいです。昨年は体重50kgくらいの人が赤鬼役を務めたので、衣装が体重の半分くらいの重さでした。当日はトイレも行けないので、水を飲ませず、口をゆすがせるだけですね。

――そうなのですね…赤鬼をしている時に倒れて運ばれた人はいないんですか?

それは精神が極限状態なので大丈夫なんです。役をやり遂げるという意思の方が勝ります。でも万が一病院に行かないといけないような事態が起こったら、横にいる先役が代わりを務めなければいけません。だから、この先役というのは重大な責務なんです。教えながらも、自分がやらないといけないかもしれません。天狗とか他の町の役はよくわかりませんが、赤鬼はこういう感じですね。

――赤鬼の様子がよくわかりました。お話を聞かせていただきありがとうございました。

赤鬼役を経験された方の暮らしは、今までの生活と打って変わって、まるで修行僧のような身が引き締まる暮らしのように思えました。暑さや寒ささえも乗り越える人間の身体に秘めたエネルギーが解放され、その先に鬼という人智を超えた存在が誕生するのかもしれません。

豊橋鬼祭の今、感染対策やアプリの使用

一方で現代を生きる私たちは、疫病が流行れば、それを祈りではなくマスクで防いでいます。つまり、人智を超えずして科学によって厄を祓おうとしている側面もあるのです。

境内に貼られた「マスク着用」の張り紙は、新型コロナウイルスが収束していない中、入念な対策が模索され開催にこぎつけたことを意味しています。

また、遠方にお住まいで豊橋鬼祭に駆けつけることができなかった人は「おにどこ」というアプリによって、赤鬼の門寄りの進行を見守ることができました。こちらが、赤鬼がどこを進行しているのかがわかるアプリの画面です。

今回、東京在住のアプリ使用者の方から、コメントをいただきました。

「東京のどこにいても、大学構内にいようが、山手線にいようが、今鬼がどこにいるのかをリアルタイムで観察できるのが楽しかったです。マップの上を鬼のマークがずっと動いているので、気が付いたらずっと携帯を見ていました。遠くにいてもどこにいても鬼を身近に感じることができ、実際に祭礼の場所にいなくても祭礼に参加している気持ちになりました!」とのこと。豊橋鬼祭は必ずしも現地に行かなくても楽しめるようです。

【あとがき】

この記事では「天狗と赤鬼のからかい」をはじめ、神楽の数々や年占いなどの見どころの詰まった本祭の様子と、古い神事をそのままの形でしっかりと継承しながらも、時代に合わせた変化を遂げる豊橋鬼祭の姿をお伝えしました。取材を通して驚いたのは、朝から晩まで1つのお祭りにこれだけ多くの行事が盛り込まれているということです。たくさんの担い手の力が合わさって祭りが成り立っていることを改めて実感したとともに、伝統を脈々と継承し続けてきたこの祭りの重みを感じることができました。

豊橋鬼祭 特設WEBページはこちら

この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター
日本全国500件以上の獅子舞を取材してきました。民俗芸能に関する執筆、研究、作品制作等を行っています。

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