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祭りをどう守るか?迫る「祭りの危機」研究者が示す4つの可能性<前編>

2023/9/28
2024/3/8
祭りをどう守るか?迫る「祭りの危機」研究者が示す4つの可能性<前編>

コロナ禍を経て、全国で「まつり」の賑わいが戻ってきたこの夏。これまでの我慢の反動や好調なインバウンド効果もあって、各地は大盛り上がりの様相だった。

しかしコロナ禍以前から、主に担い手不足による祭りの中断、継承の断絶の可能性など「祭りの危機」は叫ばれてきた。祭りの現場を見つめてきた國學院大學観光まちづくり学部准教授の石垣悟さんに、今、祭りに何が起こっているのかを聞いた。


石垣 悟(いしがき・さとる)
國學院大學観光まちづくり学部准教授。1974年秋田県秋田市生まれ。筑波大学大学院歴史人類学研究科退学後、新潟県立歴史博物館研究員、文化庁文化財第一課文化財調査官、東京家政学院大学現代生活学部准教授を経て現職。静岡県文化財保護審議会委員、富山県文化財保護審議会委員なども務める。専門は、民俗学、博物館学、文化財保護論。

「祭りの危機」とは何か?

――石垣先生は2022年『まつりは守れるか:無形の民俗文化財の保護をめぐって』(八千代出版)を上梓されました。この本を編むに至った問題意識とはどのようなものでしょう?

祭りが危機だ、続けられない、というのは、かねて多くの人が指摘してきたことなのですが、その危機的な状況とは一体どういうものなのか、具体的にはよく分からなかったのです。何がどう危機なのか、そこにどのような問題が起こっているのか。そして、その危機に関係者はどう向き合っているのかを今一度しっかり考えようと思ったのが動機です。

執筆いただいたのは各地の行政担当者が多かったのですが、結果的に、普段あまり表に出てこない祭りの内情が記されることになりました。執筆者および関係者の方々には書きにくいことを苦労して書いていただき、多くの人が知りたかったけど知れなかったような今までにない貴重な記録がまとめられました。この本が、今後未来に祭りをつないでいくための一つの叩き台になればと思っています。

――祭りを続ける、という関係者の苦労が赤裸々に描かれていて衝撃を受けました。読者からの反響も大きかったのでは?

そうですね、ありがたいことに刊行から半年くらいで重版も決まり、多くの方に興味を持っていただいている実感はあります。

編著者としては、祭りをやっている人、祭りの担い手に読んでほしいという思いがあります。もちろん祭を保護する立場にある行政の人にも読んで欲しいですが、祭りを担う人が祭りを続けていく上でいま抱えている問題、悩んでいる問題に対して、こんなやり方もあるのかという気付きの得られる内容になっています。担い手が必要以上に重圧を受けずに、祭りという無形の民俗文化財を未来に残すさまざまな道があることを知ってもらいたいですね。

――ホッとする方もいるかもしれません。それでは、改めて「祭りの危機」というのは一体どのような状態なのでしょうか?

2016年に共同通信社が行った調査では、全国都道府県指定の祭りのうち、文化財指定後に休止・廃止となったものが60件(全体の約4%)あったそうです。また、全国統計ではありませんが、群馬県教育文化事業団の調査では1997年〜2008年の10年間に、群馬県内855件の民俗芸能のうち、約26%が中断・廃絶し、祭行事の約9%が中断・廃絶・継承の危機にあるというデータがあります。おそらく全国で見ても同じような状況だと推測しています。

その原因は、よく言われているように担い手不足が進行しているからです。実際、今、大規模に行われている祭礼でも、地縁・血縁を中心とした地域の力だけで維持できている祭りはほとんどないのではないでしょうか。

――祭を担う人が少なくなっているのはなぜなのでしょう。

単純に人口が減ってきているということもありますが、同時に、祭りに対する意味合いが変わってきていることが大きいと思います。祭りには、古くから信仰的な意味合い、娯楽的な意味合いなど多様な意味合いがありました。祭りは人々の日々の生活に深く関わり、人生の大きな割合を占めていたのです。しかし、現在は祭り以上に個人の人生に大きなウエイトを占めるものがたくさんあります。

さらになぜそうなったかを考えると、現在では多くの人が生まれた土地に縛られなくなったことがあります。どうして祭りが人生の大きな割合を占めてきたかといえば、生活の場と祭りの場とが分ち難く常に密接に繋がっていたからにほかなりません。それが、祭りが世代を超えて長く受け継がれてきた要因の一つでもあります。

しかし、現在では生まれてから死ぬまでずっと同じ土地で暮らし続けるという人は少なくなっています。こうした短期間での人々の流動は、祭りと生活・人生との間に距離を作ることとなり、祭りの危機をもたらすこととなってきたわけです。多くの人にとって祭りがなくても生きていけるようになったというのが現実です。祭りの未来を考えるには、まずこの点を認める必要があると思います。

こうした祭りの意味合いや距離感の大きな変化に加え、特に2000年以降には少子高齢化が著しく進行しています。このことが総体的に祭りを担う人々の減少をもたらし、祭りの危機をより深刻なものとしていると思います。

「祭り」と「人」の距離が遠くなった

――祭りと人の距離が近かった時代はいつ頃までなのでしょう。

私の印象になりますが、昭和40年代ごろまではある程度は続いていたと思います。もちろん何かをきっかけに一朝一夕で劇的に変わったというわけではなく、少しずつ変化してきたわけですが、古いタイプともいうべき地域社会の文化の担い方が確実に維持されていたのはその頃までと思います。就職などで地域を離れていても祭りの時には地元に帰る、そういう考えの人がまだまだ多かった時代ですね。

この頃には、離郷第2世代、つまり彼らの子供たちも、お盆やお正月には田舎の祖父母のところへ帰省するという形で、祭りに動員されるという生活スタイルがありました。ところが孫世代まで下った現在では、両親が地域で生まれていないですし、地域の祖父母もすでに亡くなられていますから、孫世代が「帰省」する必然性もなくなってきます。子供のころに祭りに関係する機会があった人とそうでない人では、祭りとの距離感や向き合い方はやはり違います。祭りが近づくとワクワクする、体が自然に反応するという人はだんだん少なくなってきているように思います。

――人と土地のつながりが希薄になったのと同時に、祭との距離も遠くなったわけですね。

そうですね。かつて多くの人にとって、生活の場と仕事の場は一つでした。成人や結婚、葬式といったライフイベントも同じ場で行われました。また1年のサイクルで見れば、そこに四季という時間による抑揚が加わり、祭りという刺激もその中に息づいていたわけです。しかし、今はさまざまな土地を行ったり来たりして暮らし、場所や四季に関わらずさまざまな抑揚と刺激のある生き方ができる時代です。そうした人生において祭りの意味は大きく変わりますよね。

もちろん観光として見る側に立つならば、今のリズムでも良いのですが、やる方としてはそうはいきません。また生業との関係についても、かつては自分たちの祭りに合わせて休みを決めていたわけですが、多くの人が会社組織のような土地から離れた場で働いている中で、休みの日を地域社会で決められなくなっているというのも大きいです。こうなると、祭りとの距離が近く、なおかつ自由になる時間のある人しか祭りを担い続けることができなくなります。

――2023年は多くの地域でお祭りが復活して、どこも大変賑わっていました。見る側と担い手側という視点を置くと、祭りの危機の見えづらさの理由が分かるような気がしました。

表向き、祭りをやっているその時は非常に活気があるのです。若い人もたくさん集まり、とても賑やかで、その一瞬は危機なんて微塵も感じられません。でも、そのような祭りでさえ、ある時突然できなくなったり、来年はもうやめますということになったりすることがあります。表に見えている部分と裏の部分がある。祭りの危機は、祭りのやっていない時の地域をしっかり見ないと分からないように思います。

祭りが行われている古い街並みも、祭りの時に見れば風情と活気があってとてもいいものです。でも、祭り以外の日に行くと誰も歩いていなくて閑散としていることも少なくありません。担い手や地域にとっての現実はそれなのです。そういう現実の中で祭りをやっていると考えると、やはり危機的な状況にあると私には思えるのです。

――祭りの日だけを見ていても危機は見えてこない……。

お祭りが大好きな方でも、祭り以外の日にその場所を訪れるという人は少ないのではないでしょうか。地域にとっては、祭りを見にきてくれるのはある面ではありがたいことだと思われますが、厳しい言い方をすると、観光客などの外部から来る人は一番良い時だけを見ているわけです。祭りの日ではない地域をしっかり見つめることで、祭りに対する向き合い方はいい意味で変わるような気がします。

「祭り」をどう守るのか?

――「祭りの危機」の状況をうかがった上でお聞きします。それでは祭りはどうすれば守れるのでしょうか?

論点・正解はいくつもあると思います。少なくとも、私が今思っているのは四つです。

まず一つ目は、祭りを冷静に見つめ直してみることです。ここまで、人と祭りに距離ができたと話してきましたが、見方を変えれば、それは祭りを外側から客体視できるようになったともいえるわけで、冷静に解決への糸口を探れる好機とも言えます。

つまり、私たちが近代以降、それまで当たり前にやっていたことを広い視野で眺めることによって、そこにどのような価値があって、どのような意味を持っているかを見つめ直すことができるようになったということです。

民俗学をはじめとした人文・社会科学は、明治以降、各地の祭を調査・研究し、祭りに学術的・文化財的な新しい価値を見出してきました。新しい価値・新たな姿を認識できるようになることで、従来とは別の面から祭りへの誇りを持てる道が拓かれてきたということです。したがって、祭りの関係者が、自分たちの祭りを知り、他者の祭りを知り、その価値を改めて深く学ぶことが必要で、それにより、離れてしまった人と祭りは再び近づいていく可能性もあるように思います。

――当たり前を見直すなら今がチャンスということですか。

そうですね。そしてもう一つは、関わっている方々の意識変革です。「100年以上も前から受け継がれている」とか、「伝統的」とかいわれているような祭りについては、特に関係者の意識変革は必須です。

こうした祭りの場合、「続ける」ことと「変えない」ことが絡み合って打つ手を失っていることも少なくありません。新聞をはじめ、メディアも伝統的な祭りを扱うときに、その祭りがいかに昔から変わらずに続いてきたか、という点を強調しがちですよね?この言い方だと、変わらないでずっとやってきたことに価値があるような印象を与えてしまいます。

でも実際のところ、全く何も変えずに続いてきた祭りなど皆無といっても過言ではありません。どんなに歴史のある祭りも、時代に合わせて変わってきたからこそこれまで続けてこられました。担い手は、今の社会に合わせる形で変えてみるという柔軟性と勇気を意識的に持つ必要があるのです。

ただし、何を変えるか、どこを変えるか、どのように変えるのかは、祭りが集団で担われている以上、一人の独断で方向を決めるのではなく、関係者どうしの話し合い・共有が不可欠です。だからこそ重要になってくるのが、先ほど述べたように自分たちの祭りを客体化し、その価値をしっかりと理解できているかどうかです。それをしっかりと学んでおかなければ、未来に責任を持った変化は遂げられないと思います。

「続ける」ために何を変えるか、どこを変えるか

国指定重要無形民俗文化財「近江中山の芋競べ祭り」。2016年に継続の危機に見舞われるが、しきたりの緩和を含めた関係者の努力と合意形成で現在も継続が叶っている。((公社)びわこビジターズビューロー)

――著書の中では、「近江中山の芋競べ祭り」の例(矢田直樹、前掲書p.104)が印象的でした。どこは変えていいのか、どこは変えてはいけないのか、関わっている人が共有できる変化の道を見つける作業が必要ということですね。しかし、担い手の方々だけで「客体化」するというのはなかなか難しいのでは?

とても難しいと思います。なぜならば、担い手なら祭りに対する感情や思いがあって当たり前だからです。そうした感情の部分の調整が必要になります。

その調整を誰が担えるのか?祭に直接は参加していないけれども関係のある人、つまり、それは行政であったり、研究者だったり、あるいはまちづくり団体であったり、外部の目を持った人々と意見を交わしながらやっていくことが必要だと思います。滋賀県の職員である矢田直樹さんは、それを長く実践されてきている稀有な存在です。

――なるほど。それでは三つ目はいかがでしょう?

三つ目は、先ほど土地との繋がりを指摘しましたが、祭りが行われる土地の関係者だけで祭りを支えていくことは、もはや現実的ではないという事実を受け入れることです。これからは外部の多くの人たちの支えも得なければ、祭りを未来に繋いでいけないという認識を持つべきだと思います。これも広く見れば時代に対応した変化の一つです。

これからは祭りを支える外国人がいてもいいでしょう。ただし、誰でもいいからとにかくたくさん人を呼んできて協力してもらおうという安易な方策は避けなければなりません。どのような人にどのように協力してもらうか、そこにどういう責任が生じるかをしっかり議論しながら少しずつ関係者を増やしていくことが必要です。ありきたりですが、祭りにおける関係人口の創出についても、真剣に検討すべき時にきています。それが、祭りを未来へと持続させていくことに繋がるはずです。

――祭に対する理解を深めてもらって参加してもらうことが重要ですね。

そうです。そこに関連して、最後の四つ目は観光客に代表される外から訪れる人々にも、その祭りについてしっかりと学んでもらう必要があるということです。

ここでお話ししている「祭り」とは、単なる一過性のイベントやフェスティバルではありません。そこには自然環境や歴史環境、社会環境の影響を受けながら今日まで受け継がれてきた空間的・時間的厚みがあります。そうした厚みをしっかり学んでから見てもらう必要があります。

「学ぶ」というと、私たちはどうしても学校教育に連なる「勉強」「学習」をイメージしがちですが、そうではありません。簡単にいえば、祭りを担う人々や祭りの行われる土地、そして祭りを今日まで受け継いできてくれた先人への共感です。個人的にはそうした学びを経た人こそが祭りを見る資格があるとすら思っています。単に「盛り上がっている場に身をおいて珍しいものを見る」という浅薄な観光ではなく、「(共感をもって)理解する」という観光が祭りには求められますし、そうした観光こそが翻って祭りだけでなく地域の危機を救うことにまで繋がると思います。

――今挙がった四つの課題も、やはり担い手だけの努力で解決するのは難しいように思います。だとすれば、担い手以外に、一体誰が祭りを守れば良いのでしょうか?

私が考えるに、それは……

記事<後編>では「誰が祭りを守るのか」をテーマにお話を伺っています。

石垣悟・編著(八千代出版)2022
2500円(本体)+税

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