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開催直前!2023年「春の藤原まつり」~なぜ源義経は奥州平泉に身を寄せた?

2023/4/26
2023/8/11
開催直前!2023年「春の藤原まつり」~なぜ源義経は奥州平泉に身を寄せた?

毎年春と秋に開催される「藤原まつり」。特に華やかなのは、5月1日から5日までの春のまつりです。期間中には、稚児行列などさまざまな催しがある中、圧巻なのは3日目の「源義経公東下り行列」。兄である頼朝に追われた義経が平泉にたどり着き、秀衡の出迎えを受けたという情景が再現されます。

毎年、この義経役を人気の若手俳優が演じ非常に多くのファンで盛り上がりますが、今年は犬飼貴丈さんが義経役を演じることで期待が高まっています。

前回の奥州藤原氏三代の歴史に続き、今回は奥州藤原氏と源義経との関わりを歴史ライターの鷹橋忍さんがご紹介します。

義経と奥州藤原氏

源義経像 中尊寺蔵

悲劇のヒーローとして人気の高い源義経が、奥州藤原氏三代秀衡のもとに、二度にわたって身を寄せ、平泉の地で過ごしたという話は有名だ。

なぜ、義経は奧州藤原氏を頼ったのか。また、なぜ、奧州藤原氏は義経を、受け入れたのだろうか。

まずは、義経の生い立ちからみていきたい。

義経は平治元年(1159)、源義朝の九男として誕生した。幼名は牛若という(ここでは義経で統一)。

母親は、近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕であった常磐(常葉、常盤とも)である。常磐は、身分は低いが、絶世の美女だったと伝わる。同母兄に今若(のちの阿野全成)、乙若(のちの義円)がいる。源頼朝は異母兄だ。

源氏の御曹司として生まれた義経だが、生まれてまもなく、その運命は一転する。

義経が生まれた平治元年の12月、義経の父・義朝は、後白河上皇の側近であった藤原信頼とともに「平治の乱」を起こして、平清盛に敗北。翌平治2年(1160)正月に、殺害されてしまったのだ。

『平治物語絵巻』鎌倉時代・13世紀後半 ボストン美術館蔵

鞍馬から平泉へ

義経の母・常盤は、義経ら3人の幼い子どもを伴い、平清盛のもとに自首。清盛は常盤と子どもたちを許した。

やがて、常盤は大蔵卿の一条長成と再婚する。

義経ら3人の子どもたちは一時、長成に養育されたのちに、それぞれ出家させられた。

義経が入ったのは、京都の鞍馬寺である。

鞍馬寺 写真/フォトライブラリー

このまま僧侶の道を歩めば、天寿を全うできたかもしれない。

だが、義経は数年後、鞍馬寺を後にする。諸説あるが、承安4年(1174)、義経16歳のときのこととされる。

そして、自ら元服し、「源九郎義経」と称し、やがて奥州藤原氏の本拠・平泉へと向かい、藤原秀衡のもとに身を寄せるのであった。

義経はなぜ、奧州藤原氏に身を寄せたのか

義経はなぜ、藤原秀衡を頼り、奥州に下ったのだろうか。

義経の奥州下りについては不明な点が多いが、母・常盤の再婚相手である一条長成の伝手を辿ったのではないかと、推測されている。

一条長成の親戚筋に、藤原秀衡の岳父である藤原基成がいた。藤原基成は、義経の父・源義朝が命を落とした平治の乱の、首謀者であった藤原信頼の兄である。

康治2年(1143)に陸奥守に就任した基成は、藤原秀衡に娘を嫁がせた。秀衡と基成の娘の間には、のちに四代当主となる藤原泰衡が生まれている。

基成は陸奥守に二期連続して任じられたのちに帰京したが、平治の乱後、弟の藤原信頼に連座して、陸奥国に配流された。

配流後の基成は、秀衡の政治顧問のような存在だったとみられている。

その藤原基成に、一条長成は義経の保護を依頼したため、秀衡も義経を平泉に迎え入れたのではないだろうかと、考えられている。

いずれにせよ義経は、平氏打倒の兵を挙げた異母兄・源頼朝に合流するまでの間を、秀衡の庇護のもと平泉で過ごしたのであった。

平氏滅亡~再び平泉へ

壇ノ浦にある源義経像 写真/フォトライブラリー

治承4年(1180)、源頼朝の挙兵を知った義経は、平泉を後にし、頼朝のもとに駆けつけた。

以後、平氏追討軍の主力として華々しく活躍し、建暦2年(1185 8月に文治と改元)3月、壇ノ浦の合戦で、ついに平氏を滅亡させたのは、周知の通りである。

ところが、合戦後は頼朝との関係が悪化し、義経は追われる身となってしまう。

鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』の文治3年(1187)2月10日条によれば、義経は諸所に隠れ住み、幾度も追捕使の追及をかわす逃避行の果てに、妻子や家人とともに、山伏や児童(ちごわらわ)に身をやつし、再び藤原秀衡を頼って、奧州を目指したという。

頼朝から義経を守れるような勢力は、もはや奥州藤原氏しか存在しなかった。

義経の最期

中尊寺から見た、弁慶の立ち往生した衣川の古戦場 写真/フォトライブラリー

義経は頼朝の追及から逃げ切り、平泉入りを果たした。時期は諸説あるが、文治3(1187)年の夏か秋頃とみられている。

藤原秀衡は今回も、義経を受け入れた。これは、頼朝ら鎌倉幕府との対決を意味する。

一方、頼朝は早急な軍事的侵攻は行わず、外交的な圧力を強めてきた。

秀衡は屈することなく頼朝と渡り合ったが、同年10月29日、この世を去った。

四代当主となった藤原泰衡も、当初は頼朝の「義経の身柄を引き渡せ」という要求に抵抗した。

だが、やがて頼朝の圧力に耐えきれなくなり、文治5年(1189)閨4月30日、泰衡は義経が居住する衣川の館を襲撃し、義経を自害に追い込んだ。

義経の武功が輝いた平氏滅亡から、僅か4年後のことである。享年31であった。

毛越寺 写真/フォトライブラリー

岩手県西磐井郡平泉町では、「藤原まつり」が、春と秋に開催されている。

令和5年(2023)の春も、5月1日(月)~5月5日(金)まで催され、さまざまなイベントが行われるが、そのメインは「源義経公東下り行列」である。

これは、頼朝から追われ、平泉にたどり着いた義経を、藤原秀衡は歓迎し、民衆もまた歓喜して迎えたというシーンを再現したものだ。

今年の義経役は俳優の犬飼貴丈氏、藤原秀衡役は宮城県南三陸町の町長・佐藤仁氏、弁慶役は和歌山県田辺市の市長・真砂充敏氏である。

31歳の若さで散った源平合戦のヒーローは、時を超え、今年も大歓声とともに迎えられるだろう。

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