毎年春と秋に開催される「藤原まつり」。特に華やかなのは、5月1日から5日までの春のまつりです。期間中には、稚児行列などさまざまな催しがある中、圧巻なのは3日目の「源義経公東下り行列」。兄である頼朝に追われた義経が平泉にたどり着き、藤原秀衡の出迎えを受けたという情景が再現されます。
毎年、この義経役を人気の若手俳優が演じ非常に多くのファンで盛り上がりますが、今年は犬飼貴丈さんが義経役を演じることで早くも話題になっています。
藤原清衡が豊かに産出する砂金をもとに京文化の摂取に努め、基衡、秀衡の三代で平泉に荘厳華麗な文化の花を開かせた藤原氏。今回は奥州藤原氏の歴史と、源義経との関わりを、歴史ライターの鷹橋忍さんが2回にわたりご紹介します。
奥州藤原氏とは
黄金の都・平泉(岩手県)を築き、平安時代末期の東北地方に絶大な勢力を誇った奥州藤原氏。藤原三代とは、その奥州藤原氏の初代・清衡、二代・基衡、三代・秀衡を指す。
砂金や良質の馬や、アザラシの皮など北方の産物の交易で得た大いなる財力によって、栄華を極め、平泉文化を花開かせた。三代はどのような歴史を歩んだのか?
初代・藤原清衡〜奥州藤原氏の礎を築く
前九年合戦 幼くして父を失う
奥州藤原氏の初代・藤原清衡は、天喜4年(1056)に生まれた。
父親は、平将門を討った藤原秀郷の末裔で、陸奥国(現在の福島、宮城、岩手、青森の各県と秋田県の一部)の在庁官人だった藤原経清である。母親は「奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・志波・岩手の六郡)の王(あるじ)」と称され、同地に勢力をふるった豪族・安倍頼時(頼良)の娘だ。
清衡は「前九年合戦(1051~1062)」により、幼くして父親を失うことになる。
前九年合戦とは、陸奥国府と対立していた安倍氏が、朝廷から派遣された陸奥守の源頼義らに滅ぼされた戦いである。多くの犠牲者を出しながら、12年にわたり断続的に続けられた。
戦いは安倍氏が優勢であったが、源頼義らは出羽国(現在の秋田県、山形県)の豪族・清原武則の力を借り、激戦の末、康平5年(1062)、ついに勝利を収めた。
安倍氏に加担していた清衡の父・藤原経清は残忍な方法で処刑され、異母兄も戦死、あるいは処刑されたという。
清衡、数え年で7歳のときのことである。
後三年合戦 骨肉の争いを制して平泉へ
前九年合戦後、清衡の母は、清衡を連れて、源頼義に協力した清原武則の長子・清原武貞に再嫁している。これにより、安倍氏が領有していた奥六郡は、清原氏の支配下となった。
清衡は武貞の子として遇され、成人すると、奥六郡内の江刺郡(岩手県奥州市)を与えられて、豊田の地に構えた館(たち)を本拠とした。
また、清原一族と思われる女性を妻に迎え、子どもも誕生している。
このように清原家の一員として暮らしていた清衡だが、やがて異母兄の清原真衡や異父弟の清原家衡(清衡の母と清原武貞の子)と、相続を巡り争うことになる。
この清原氏の内紛に、陸奥守として赴任した八幡太郎義家こと源義家(前九年の合戦で安倍氏を滅ぼした源頼義の子)が介入し、大きな戦いに発展した。この合戦を「後三年合戦(1083~1087)」という。
この戦いで、清衡は家衡に妻子を殺害されている。
翌寛治元年(1087)、清衡と清衡に加担した源義家の軍勢は家衡を討ち取り、後三年合戦は幕を閉じた。
骨肉の争いを制した清衡は、その後、父方の「藤原氏」を称し、摂関家に駿馬や砂金を献上して接近するなどし、奥羽の覇者の地位を得た。
そして、康和年中(1099~1104)頃に、江刺郡の宿館(政庁を兼ねた施設)を、平泉へと移した。
奥州藤原氏と平泉の栄光の時代が始まる。
中尊寺の造営 浄土を築く
平泉に進出した清衡は政庁「平泉館」の建設の他に、たび重なる戦で亡くなった生きとし生けるものの霊を、敵味方の別なく弔い、浄土に導くため、中尊寺(岩手県西磐井郡)の造営に着手した。
前九年・後三年合戦で父や妻子を失った清衡は、平泉に浄土を築こうとしたのだ。
清衡は、大治3年(1128)7月、73歳で亡くなった。清衡の跡を継いだのが、清衡の次男・藤原基衡である。
二代・藤原基衡〜平泉をさらに発展させる
基衡は、異母兄の藤原惟常(小館)と家督を争い、惟常とその子ども殺害して、二代当主の座についたという(清平二子合戦)。
父・清衡の基盤を受け継いだ基衡は、それをさらに繁栄させていく。
しかし基衡は保元2年(1157)頃、病により急死する。基衡の跡を継ぎ、三代目当主となったのは、藤原秀衡である。
三代・藤原秀衡〜「鎮守府将軍」に任命
秀衡は「北方の王」と称された。
嘉応2年(1170)、父と祖父も達することのできなかった「鎮守府将軍」に任命され、のちに陸奥守にも補任されている。
秀衡は二度にわたり、源義経を保護したことでも知られる。
一度目は、義経が鞍馬山を出奔した時。
二度目は文治3年(1187)、義経が、鎌倉に武士政権を樹立した源頼朝から追われた時である。
秀衡は義経を二度目に迎え入れたその年に、「義経を大将軍として陸奥国の国務にあたるように」と息子たちに遺言を残し、この世を去った。
奧州藤原氏の滅亡
秀衡の跡を継ぎ、四代当主となった藤原泰衡は、頼朝の圧力に抗いきれず、義経を攻撃し、自害に追い込んだ。
しかし、頼朝は全国規模の大動員をかけ、平泉へ兵を向けた。「奥州合戦」である。
文治5年(1189)8月21日、泰衡は館や宝蔵に火を放って平泉を逃亡し、夷狄島(北海道)を目指したが、肥内郡(秋田県北部)で家人の河田次郎に裏切られ、殺害された。
ここに奥州藤原氏は滅亡し、その百年の栄光に歴史に幕を下ろした。
この奥州藤原氏を偲んで、岩手県西磐井郡平泉町では、毎年、春と秋に「藤原まつり」が開催されている。令和5年(2023)の春も、5月1日(月)~5日(金)の5日間にわたって行われる予定だ。
祭りのメインイベントである「源義経公東下り行列」では、毎年、選ばれた人物が義経や秀衡らに扮して馬や牛車に乗り、山伏姿の弁慶らや華やかな待女たちを従え、毛越寺から中尊寺までの約3.5キロの道のりを練り歩く。
現代に蘇った奧州藤原氏の世界に、祭りを訪れた人々は酔いしれるだろう。