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200年前の神田祭・山王祭の巨大山車は、なぜ消滅し、どこへ行ったのか―山車とイノベーション―<後編>

200年前の神田祭・山王祭の巨大山車は、なぜ消滅し、どこへ行ったのか―山車とイノベーション―<後編>

二輪から四輪になった“イノベーション”により大きく発展した祭の山車は、江戸時代になってさらに進化。天下祭として都市型祭礼をリードした「神田祭」や「山王祭」では、豪華絢爛な巨大な山車の行列が江戸の町を賑わし、それはもう一大イベントとなっていました。

しかし、それらが一気に消滅していきます。はたして都市の山車はどこへ?山車に起こったいくつものイノベーションからその運命をたどってみましょう。

記事の前編もぜひご覧ください。

人間の“見栄”が山車をどんどん巨大にさせた

前編で紹介したように、京都の祇園祭を起点に“都市型祭礼のひな形”が完成し各地域に定着していきました。しかし、山車が巨大化するのは社会が安定し、マチやムラそしてヒトが定着して貿易が盛んに行われ、経済的にも発展する江戸時代になってから。その大きな要因の一つとして山車が四輪となったことをあげましたが、実はそれだけではありません。

戦のない平和な江戸時代に入ると、経済活動が活発化し町組織も整備され、城下町を中心とする都市が広範に成立。都市の祭礼では神事以外の祭礼=神様をもてなす行為、つまり山車や練り物(ねりもの:仮装などの出し物で構成するパレードのようなもの)などは、町ごとに力のある商人・町人に委ねられてますます派手で盛大になり、町民にとって一大アミューズメントともなりました。

そんな都市祭礼の華やかな様子は、近隣地域はもちろん、街道や貿易海路といったルートから、口伝えで各地域に流布。街道や海路でつながる都市で似たような祭文化が形成されているケースが見られるのは、そのためだと言えるでしょう。

とはいえ、写真や動画もない時代です。祇園祭を起点としながらも各都市の祭りが“似て非なる”のは、実際に見ていない人々の口伝に、各都市の風習や流行、担い手の財力、そして“見栄”が加わったから。

“隣の町よりウチのほうが凄い!”を目指したくなるのが人の性。都市には財力のある商人だけでなくウデのよい職人や芸能に長けた人が集まってきますから、ここは見栄の張りどころとばかりにそれぞれ趣向を凝らし派手に、山車も壮大になっていったのです。

東都歳事記神田祭行列山王祭にはこんな大きな象のハリボテも。象の足もとには人の足が見えています。/斎藤月岑 (幸成) 編『東都歳事記』巻之2夏の部(博文館,明27.5) 国立国会図書館デジタルコレクションより

その最たる例が、山王権現(日枝神社)と神田明神の祭礼です。徳川幕府の庇護を受け、豪華な山車が江戸城内に入り上覧を賜ったことから「天下祭(てんかまつり)」「御用祭(ごようまつり)」と称されたこれらの祭りは、競い合うように豪華絢爛に。

『江戸時代の山王祭では、45番もの山車が引き出され、その行列は江戸の町を埋め尽くさんばかりでした』(赤坂山王日枝神社公式サイトより)とあるように、江戸市民のあまりの熱狂ぶりに幕府は財政や人力の負担を考慮し、天和元年(1681年)にはそれぞれの本祭りを一年おき、交互に行うよう制度化したほどです。

天下祭のように規模の大きな祭では、いくつかの町が共同で行うため、それこそ各町の見栄の張り合い。趣向をこらした華美で壮大な山車が何基もお出ましし、“祭の華”として氏子だけでなく多くの見物客を熱狂させました。祭りにかかる費用の捻出のために、妻や娘を遊郭に売る、なんていう話もあったとか…。

神田明神祭禮繪卷にみる神田祭山車江戸後期の『神田明神祭禮繪卷』に描かれた神田明神祭礼祇における山車。/『神田明神祭禮繪卷』[写]. 国立国会図書館デジタルコレクションより

“江戸城門をくぐるため”に進化!?

この頃、天下祭を中心に山車の主流となったのが「江戸型山車」です。江戸型山車は、初期は一本柱の層のてっぺんに氏子町のシンボルとなる飾り(出し)のついた比較的簡素な構造になっており、祇園祭の傘鉾にその流れを感じることができます。

いっぽう新型の江戸型山車は、台車上にしっかりとした枠組みが組まれ、踊り手や囃子方の乗る一層目には日よけが付き、最上層には町のシンボルとなる大きな人形が乗っている様が描かれています。

これは、壮大になりすぎた祭りに対してたびたび出された倹約令、そして天保の改革による倹約政策により町民の最大の楽しみでもあった附祭(つけまつり。踊りや祭りの余興部分)の数が制限されたことを受けての改良。大型化だけでなく、水引幕などの装飾が華美になっており、祭りに熱狂したい江戸市民の心意気を反映させた進化と言えるのではないでしょうか。

神田大明神際礼図歌川貞重山車歌川貞重,貞重『神田大明神御祭図』,古賀屋勝五郎. 国立国会図書館デジタルコレクションより

そして、江戸型山車には、もう1つ特筆すべき進化がありました。

天下祭に見る江戸型山車は、上覧の際に江戸城門をくぐれるよう、山車上部が上下に昇降するエレベーター機構になっていたのです。見栄の張り合いでどんどん壮大になっていった江戸後期の山車は、4〜5メートルはあろう城門をくぐれないほど巨大化。そこで、三層構造のてっぺん、人形の乗る層全体が山車の中に下降する仕掛けを採用し、城門をくぐれるようにしたのです。そしてくぐり終わったらまた人形がせり上がる、という具合。

このような“からくり機構”は当時、技術者を雇って改修するにも多大な費用を要したはず。最先端テクノロジーを搭載した山車のお披露目は、江戸商人の財力と見栄の見せ所でもあったのでしょう。

神田祭復元山車文久二年の姿をそのまま復元した「加茂能人形山車」。二段上下可変式の典型的な江戸型山車の特徴がみられます。神田明神境内に展示されています。

ちなみに、このようなからくり技術は元禄時代にピークを迎え、山車のほか人形や時計、歌舞伎などの舞台装置に発展。中には、説明書のない現代で再現できない精巧な仕掛けもあるのだそうです。

進化した江戸型山車は、弓のように曲げた竹に旗のように長い布を飾り付けた「吹貫型山車」、二輪山車の中心に柱が立ち、上に箱形の万度(まんど)、その上に円盤状の張子がありさらにその上に人形や造花等が飾られた「万度型山車」、柱の先に正方形の台を乗せその周囲に幕を垂らし上部に人形などを飾った「鉾台型山車」と呼ばれる江戸独自のスタイルを確立し、祭りの中心となり関東エリアに広まっていきました。

川越まつりや佐原の大祭の山車がその代表例と言えるでしょう。前編で紹介した遠州横須賀三熊野神社大祭で曳き回される「祢里(ねり)」は、当時の万度型山車の原型が継承されています。現在、祢里を曳くのは人ですが、二輪山車特有の左右にゆらゆらと“ねりねり”しながら練り歩く様は必見です。

ちなみに、江戸型山車は本来二輪で牛に曳かせるものでしたが、牛のレンタル代やその山車を曳き回す鳶への賃金といった莫大な費用面を主な理由に、江戸末期にはほぼ姿を消していったようです。

また、毎年7月に行われる秩父川瀬祭では、万度型山車の進化型とされる「笠鉾」が登場。絢爛豪華な笠鉾4基と屋台4基が賑やかなお囃子と子供達のかけ声の中、町中を曳き回されます。

電線で山車が消滅!?文明開化という名の悪魔

江戸時代に隆盛を極めた都市の山車文化ですが、後期には国内外諸問題による幕府財政の悪化、天保の改革により幕府や大名、商人からの資金、人的援助がなくなり停滞。天下祭は慶応3年(1867年)を最後に終焉の時を迎えました。

やがて都市の祭礼は、幕末・維新直後の中断がありながらも明治に入り氏子達の努力により復興。明治17年の神田祭では46本の山車が曳かれるなど、江戸時代に負けないほど盛大に祭礼が行われた時もあったようですが、恐慌や文明開化による都市の近代化により、都市の山車文化は衰退の一途をたどります。
近代化した東京には蜘蛛の巣のように電線が張り巡らされ、それよりも高い巨大化した山車はもう曳くことができなくなっていたのです。

山車の曳行をとりやめた氏子町では、山車に乗せていた人形だけを飾り置くようになりました。そして、引けなくなった山車の代わりに祭りの華となったのが、神輿です。現在、東京都市部の祭礼において神輿渡御が中心になっているのは、このためだといえるでしょう。

神田祭神輿渡御オマツリ大小200の神輿が担がれる神田祭の神輿宮入の盛り上がり。

さらに追い打ちをかけるように関東大震災、東京大空襲が都心部を襲い、山車の多くが焼失。200年もの間江戸市中を曳き回され江戸市民を熱狂させた山車は、その姿を消していったのです。

とはいえ、そこには都市の人々の心の変化も関係していたのではないでしょうか。“近代化”という波に飲み込まれた都市の人々にとって、江戸時代の文化の復興には関心が向かなくなっていたのかもしれません。一部を除き、都市では消失した山車を復活させることはありませんでした。

“山車”はどこへ?−地方へ払い下げられた江戸型山車−

都市で姿を消していった江戸型山車のいくつかが現存し、祭礼で曳かれているのをご存じでしょうか。

都市のインフラ整備といった近代化や、それぞれの町の財政難により維持が難しくなった東京の江戸型山車の多くは、実は主に関東地方に払い下げ、または譲渡されていきました。天下の江戸城下町で曳き回された粋で豪華な巨大山車は、有名な職人が制作を手がけているなど、近隣の地方都市にとっては憧れの逸品だったと言えるでしょう。

江戸の町から払い下げられた記録が残る江戸型山車が、現在も現役で曳かれる祭礼で代表的なものは以下になります。

「諏訪講」の山車(千葉県鴨川市)

諏訪神社、諏訪講が所有する山車は神田祭りで曳き回されていた江戸型山車。明治43年(1910年)に購入したもので、もともとは神田鍋町が所有していたものだそうです。

江戸後期に作られた山車は木製、二重鉾、三つ車の構成。江戸城門をくぐるための昇降からくりを備えています。人形のからくりと昇降からくりは別々で二系統になっているそう。

神功皇后と源頼義がモデルの人形は、鴨川市郷土資料館で常設展示されていますが、「鴨川合同祭」の際に市内を曳き回されます。

諏訪講の山車神功皇后江戸型山車神功皇后の人形を乗せた山車。左が伸長時、右が収納時の状態。写真提供:鴨川市郷土資料館

「とちぎ秋祭り」の静御前の山車(栃木県栃木市)

二年に一度のとちぎ秋祭りでは、明治7年に日本橋の3町から購入した「静御前山車人形」が曳き回されます。

この人形は名工として知られる日本橋十軒店の松雲斉徳山の作とされており、山王権現の祭礼で江戸の町を曳き回される姿は当時の錦絵にも描かれているそうです。車輪の一部を改良するなどの補修が行われているものの、からくりも含めほぼ当時のままの姿を現在に伝えています。

赤坂氷川祭(東京都千代田区)

赤坂氷川神社の祭礼「赤坂氷川祭」は、神田祭、山王祭の天下祭に次ぐ都内屈指のお祭。明治の都市化や震災、戦争により同じく江戸型山車がいったんは消滅しましたが、奇跡的に9体の山車人形と山車本体の一部が残存していたことがわかり、復元されました。

当時の山車そのものではありませんが、現在の東京で、赤坂氷川祭という祭礼の場でこの山車の曳き回しが見られるのは大変貴重といえます。そのほか、地域内の展示場でも見学できる機会を増やしているそうです。

 

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江戸市民を熱狂させた天下祭。
“本祭りは交互に1年おき”という慣習は現在も続いており、本年(令和5年)は神田明神の本祭りが執り行われる年(5月11〜17日開催)です。

伝統を引き継ぎつつも新しいスタイルを取り入れ進化する、江戸っ子の変わらぬ心意気をぜひ肌で感じてみてください!

 参考サイト
文化遺産オンライン
赤坂氷川山車保存会

参考書籍
・「山・鉾・屋台の祭り研究事典」(植木行宣監修/思文閣出版)

この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター
東京生まれの東京育ち。卒論テーマは「吉原遊郭」。のち、出版社&WEBメディアの編集者/デジモノライターとして20余年。そして今、日本文化の原点を探るべくキャンピングカーでの“祭追っかけ”がライフワークに。“お香”の愉しみを伝える香司、和精油セラピストとしても活動中。推し社は「愛宕神社」。

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