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<インタビュー>「吉田の火祭り」松明職人:和光信雄さん|松明造りの昔と、今。持続可能な松明造りとは?

更新日:2024/3/7 りかちゃん
<インタビュー>「吉田の火祭り」松明職人:和光信雄さん|松明造りの昔と、今。持続可能な松明造りとは?

富士山の麓の街、山梨県富士吉田市。この地で毎年8月に開催される吉田の火祭りは、町中で巨大な松明を燃やし、富士山の鎮火を祈るという日本三大奇祭の一つ。今回は、吉田の火祭りに欠かせない「巨大な松明」を作る職人、和光信雄さんに話を伺った。70年以上松明を作り続けて来た和光さんから見た、吉田の火祭りの今、そしてこれからとは?

和光信雄さんプロフィール

吉田の火祭りで70年以上松明を作り続けている、和光信雄さん

和光信雄(わこう のぶお)さんは、生まれも育ちも山梨県富士吉田市の松山地区。戦前、昭和ひと桁生まれ。代々、吉田の火祭りで使われる松明を作ってきた家に生まれ育ち、和光さん自身も松明を作るということは自然の流れだったらしい。
「祖父の代から、松明造りを行ってきて、私で3代目」とのことだ。

どうして松明を作る様になったのか?

松明を作る和光さん。弟さんと息の合ったコンビネーションで製作を進める

和光さんに「どうして、松明を作る様になったのですか?」と質問すると、「分からない」との返答(笑)和光さんにしてみれば、「親父が作っていたから、自分も作る様になった、ただそれだけ。」であって、それ以上でもそれ以下でもない。

昔は出勤時、朝お弁当を持って出かける習慣が無かったらしい。とは言え、現代のようにコンビニも飲食店も揃っていない時代には、家族が昼ご飯の弁当を届けてくれることが多かったそうだ。‟親父さんの弁当を、その家の子供が届ける”ということは良くあったそう。
弁当を届けに仕事場にやって来た子供に、父親が「お前もちょっと手伝え!」「お前もやってみるか?」…と、このようにして、自分の仕事を子供に教えることもあったそうだ。
松明造りもそれと同じように、教えるとも教わるともなく、祖父から父へ、父から息子へと受け継がれてきたのだと言う。
「一休さんと同じだよ。‟門前の小僧、習わぬ経を読む”の通り。」と和光さん。

もっともこの時代に「仕事を選ぶ」という選択肢はなかった。現代でこそ自分の生業は自分で選択することが出来る。でも昔は<家業を継ぐ>以外の選択肢はなかったのだそう。その仕事が好きとか嫌いとか、そういう次元の話ではなかったようだ。

松明造りが富士吉田市「松山」地区で行われてきた理由

ここで一つの疑問が。

「吉田の火祭り」を行う冨士北口浅間神社の氏子となる地域は「上吉田」と呼ばれる地域で、富士吉田市の中でも地域が限定されている。上吉田以外の地域に住む人は、当然ながら「吉田の火祭り」には主催者側としては関わることはない。


地図で確認すると、松山地区は上吉田地域に接しているが、西に外れている。

先ほど、和光さんは“富士吉田市の松山地区出身”と紹介したが、この地域は実は上吉田地域に含まれていないのだ。氏子地域に居を構えていない和光さんが、どうして松明を作る様になったのだろうか…??

この疑問に対して、北口本宮冨士浅間神社の禰宜:田邉將之さんが答えてくれた。

昔から吉田の火祭りの松明造りは、伝統的に「松山地区」の方が行ってきたそうだ。これは、氏子地域である上吉田地区が、吉田の火祭りが行われる夏季期間中は忙しいために、松明造りを地域外の人にやってもらったことによるとのこと。

北口本宮冨士浅間神社:田邉さんのインタビュー記事はコチラ

また、冨士北口浅間神社の氏子が住む上吉田地区は、「御師(おし)の住む街」とも言われている。

現存する御師住宅

上吉田地区に居を構えた御師たちは、富士登山を行う富士講への宿を提供したり、富士山信仰に関して教え導く役割を担っていた。特に、富士山の登山シーズンである夏季期間中はとても忙しく賑わっていたらしい。
一年で最も忙しく、かつ一年分の稼ぎを生み出す夏に、松明を制作する時間も手間も掛けられなかったことは容易に想像できる。

ベテランから若手へ。受け継いで行く上での課題

松明を制作する櫻井さん

現在、富士吉田木材流通センターに勤務する櫻井雄太さんは30代と若手だ。その他にも期間限定で自身の仕事の調整が利く方が、松明造りを手伝いに来ている。こうした若い人材が、松明造りを受け継いで行く…という流れが作られている様にも見えるが、実際はなかなか簡単ではないとのこと。

受け継いで行く難しさの一つは、松明造りが「夏季限定」であること。
もちろん松明造りには相応の制作費が支給されている。作り手たちは決してボランティアで松明を制作しているわけではないが、この夏季限定という縛りが、作り手を増やせない足かせとなっているようだ。

出来上がった松明をフォークリフトで運搬する櫻井さん

現在、松明造りを担っているのは、和光信雄さんご兄弟と、堀内正勝さん、小山田実さんの4名が主力。それをサポートするのが、富士吉田木材流通センターの3名。小山田さんは堀内さんにスカウトされて、松明造りを手伝う様になったのだと言う。

もちろん、祭典世話人と呼ばれる吉田の火祭りの運営全般を取り仕切る方も、時折、松明造りの手伝いに来ているそうだが、仕事の合間を縫って手伝いに来るため、主力となって松明製作…という訳にはいかない。

和光さん曰く「世話人のOBや、若い頃松明造りを何らかの形で手伝った方が、定年退職後に手伝ってくれればと思う」とのこと。手伝う人が増えて行けば、主力となって松明を制作する人も増えて行くかもしれない。

持続可能な松明造りを目指して

手作業がメインの松明造りだが、時代の変化に則し、よりよい方法に変わりつつある。

一つは、富士吉田木材流通センターの支援だ。

富士吉田木材流通センター内の様子。毎年7月にここで「松明結初式」を行い、お祓いをしてから松明造りを開始する。

富士吉田木材流通センターは10年ほど前から、松明造りに全面協力をし、作業場所の提供や木材などの松明の材料を調達・保管する倉庫の役割も担っている。こちらに勤務する職員たちも、吉田の火祭りシーズンには松明造りを手伝っている。

富士吉田木材流通センターの皆さん

この富士吉田木材流通センターとの協力体制が構築が出来る前は、松山地区の方々がそれぞれの家で松明を作っていた…というから、今の状況からは想像がつかない。もっとも、昔は今よりも松明の数が少なかったために、「皆で一斉に作業をすれば2~3日で作り終わった」そうだ。
制作する松明の本数は今の半分以下。作り手の人数は今の倍以上。人数が減った分、松明を制作する人が専属となり「職人化」していき、代わりに手伝う人が減ったのだという。現在は主力の7名で制作を進め、80本の松明を1.5ヵ月~2ヵ月で作り終える。

もう一つは、松明を作る道具の進化だ。

薪割り機を使って、薪を割る様子

これは現代人にとっては当たり前かもしれないが、松明造りに使用する工具は、時代の流れと共に電動化・自動化されてきている。のこぎりは電気のこぎりへと進化を遂げ、薪割り機も機械化されており、ナタやオノを使って手作業で割る必要はない。

このように、ソフト面、ハード面ともに、時代の流れを受けてより効率よく松明が作れるようにアップデートされてきている。

・・・

 

時代の変化を受け入れながら70年以上も松明を作り続けてきた和光さん。主力で松明を制作する人材の確保には課題があるものの、若手の人材を少しづつ取り込みながら松明製作を続けている。歴史と伝統と、富士山に対する信仰心に基づく「吉田の火祭り」。お祭りに足を運んだ際には、松明造りにかかわる職人たちにも思いを巡らせてみて欲しい。

この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター
面白い祭りは山奥にあり。出身地の長野県愛強め。祭りと温泉とお酒が好き。

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