2021年8月、鬼剣舞と鹿踊の取材のため、岩手県南部地域を訪れた。そして、民俗芸能とそれに伴うお祭りの豊富さに驚き、なぜこれほどまでに多く伝承されているのか?に関心を持った。文献を調べるうちに、江戸時代の伊達藩と南部藩の交流に要因があることを知った。ここでは、鬼剣舞や鹿踊などの民俗芸能が、宮城県境に近い岩手県南部でなぜ多く伝承されているのか?に迫る。
岩手県北上市に注目!伊達藩と南部藩の境目
岩手県南部に位置する北上市は、江戸時代においては伊達藩と南部藩の藩境だった。経済的にも文化的にも全く異なる、両藩の要素を統合する形で作られたのが北上市なのだ。昭和29年に黒沢尻町、和賀郡飯豊村、二子村、更木村、鬼柳村、胆沢郡相去村、江刺郡福岡村の一町六ヶ村が統合されて成立した。脆弱な経済基盤からの脱却や町村合併促進法の成立などが背景にあったようだ。このような合併が成立した背景には、江戸時代以来、地形的な要因から藩境がはっきりせず、それに加えて両藩の交流が活発だったということがある。
※江戸時代における伊達藩と南部藩は、少なからず現在の宮城県と岩手県の元になったが、これらの藩境は現在の県境と異なる。
北上川を通じて伝わった?民俗芸能の数々
ところで江戸時代、北上川を通じて、南部藩と伊達藩の船頭は繋がっていたと言われる。北上川といえば岩手県北部から宮城県石巻市まで、南北を繋ぐように流れているので、船での往来も昔からあったというわけだ。船頭が相手方の領内で亡くなると、墓もそちら側で作られるという事さえあった。このような信頼関係の中で、船頭を通じて民俗芸能が伊達藩から南部藩側に多数伝えられたと言われている。また、農民の共同草刈り場の作業や、山のお堂の補修、境塚の管理などにおいても民俗芸能が伝えられた可能性はある。
民俗芸能が藩境に集中した理由
藩境で交流が活発だっただけでは、なぜ民俗芸能が発達したのか?について答えたことにはならない。そこで、民俗芸能が藩境に集中する理由についても触れておきたい。まず、藩境には交易が活発になると同時に紛争も起こりやすいという特徴がある。それゆえ、当然武士団が藩境を守るというのが常だったのだ。その境を守る武士団が紛争の平和的な解決手段として、民俗芸能を伝承して競わせたということがまず考えられる。また、領主からすれば、民俗芸能を農民たちに習わせることで、民心安定に繋げるという考え方もあっただろう。もしくは、藩境に来る災厄を防ぐための祈りや信仰も生じやすかったとも言える。これらの理由が複雑に絡み合い、北上市をはじめとする南部藩と伊達藩の藩境付近に数多くの民俗芸能が定着したようだ。
岩手県南部の民俗芸能を紹介!
それでは最後に、宮城県境にも近い岩手県南部地域で見られる「鹿踊」や「鬼剣舞」についてご紹介したい。こちらは2021年8月に奥州市のえさし藤原の郷という歴史公園で拝見した鹿踊の様子である。この鹿踊は岩手県南部に伝わる太鼓系の鹿踊で、これも宮城県方面の芸能の影響を色濃く受けた民俗芸能の1つだ。太鼓を叩き、白い大きなザイを揺らす姿はとても迫力がある。
また、こちらは2021年8月に、北上市岩崎で取材させていただいた鬼剣舞の様子だ。仏教と鬼が結びついた民俗芸能で、角のないカラフルな鬼面を身につけて刀や扇を持ち演舞を行う。髪を振り乱し舞う姿がとても印象的だった。
県境から民俗芸能やお祭りを考える
これらの鹿踊や鬼剣舞などの民俗芸能は、江戸時代の伊達藩領から南部藩領に伝わったという場合も多く、歴史をたどってみると、藩境での交流が民俗芸能とそれに伴うお祭りの発達に、どれだけ影響を及ぼしてきたのかがよくわかる。このように、歴史的な観点で領土の境界線に着目してみると、民俗芸能やお祭りに対する理解もより深まるだろう。
※アイキャッチ画像:岩手県北上市の川沿いに建てられた鬼剣舞の像
参考文献:北上市教育委員会『北上民俗芸能総覧』(1998年)p20-40「北上市の民俗芸能 分布と概説」