© 1995 柊あおい/集英社・Studio Ghibli・NH
90年代の東京郊外を舞台に、将来の進路や、淡い恋心などに揺れ動く中学生たちの姿をみずみずしく描いた、スタジオジブリ不朽の青春映画『耳をすませば』。実は本作、監督しているのは宮崎駿ではなく、ジブリ設立以前からアニメーターとして宮崎駿・高畑勲作品に関わってきた近藤喜文であることは、あまり知られていないかもしれません。
1998年に急逝してしまった近藤喜文ですが、その仕事ぶりは宮崎・高畑両氏から高く評価されていたようで、『耳をすませば』は彼にとって初の劇場用長編アニメーションの監督作品となりました。
宮崎駿は本作にはプロデューサーとして関わることになりましたが、ついつい監督の作品演出にも口を出してしまいます。その結果、監督の近藤喜文とちょっとした対立があったという裏話を、スタジオジブリプロデューサーの鈴木敏夫が『ジブリの教科書9 耳をすませば』(文春文庫)で明かしています。
『カントリー・ロード』の訳詞で対立
そのケンカの原因とは、劇中で効果的に使われている歌『カントリー・ロード』の訳詞に関して。原曲では「ウェストバージニア」という地名が出てくるように、アメリカを舞台とした歌なのですが、それをどのように訳するのか。宮崎駿は鈴木敏夫の娘さん(当時10代)に訳詞を託すことにします。そして出来上がった日本語詞は「家出した故郷には、帰りたくても帰れない」という、原詞のニュアンス(故郷に帰ろう)とは真逆の秀逸なものとなっていました。
宮崎駿はその訳詞を気に入って、自分で少し手を入れ上で完成版としますが、その手入れが意見の対立へとつながりました。元の詞では「ひとりで生きると/何も持たずに/まちを飛び出した」となっていたところを、「ひとりぼっち/おそれずに/生きようと/夢見てた」と、マイルドな表現に変えたのです。これに対して近藤喜文は「元の歌詞がいい」と主張し、議論はやがて怒鳴り合いのケンカへと発展。結局、宮崎案が採用されますが、その後も近藤は鈴木敏夫に「元の歌詞の方がよかった」と漏らしていたようです。
実は近藤喜文自身も、その歌詞のように若い頃、漫画家になるため故郷から家出同然で東京に飛び出してきた過去がありました。その後、必死にアニメーターとしてがんばって、監督になることができた、その身の上を歌詞に重ねていたのではないか、と鈴木敏夫は回想しています。
というわけで、『耳をすませば』を観るときも、『カントリー・ロード』の歌詞に注目してみると、もっと楽しめるかもしれませんね!
『耳すま』の街で開催される花火イベントとは?
『耳をすませば』は東京都多摩市の聖蹟桜ヶ丘駅周辺を舞台にしていると言われています。そんな聖蹟桜ヶ丘で行われているおすすめのお祭りが「せいせきみらいフェスティバル」です。
このお祭りの目的は「これからの多摩市を築き担っていく人々の交流やコミュニティを繋くことや、“みらい”を担う子どもたちが主体となって、積極的に運営、参加してフェスティバルをつくり上げていく」こと。子どもから高齢者まで誰もが楽しめ、花火の上がるイベントとして2015年から続いています。
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2022年はコロナ禍ということもあり、規模を縮小しての開催(9/18)。子どもたちが手持ち花火で楽しむイベントとなりました。手持ち花火への参加は申し込みフォームからの応募が必要ということですので(ナイアガラ滝花火は誰でも見ることができるようです)、下のリンクからチェックしてみてください。
『耳をすませば』の聖地巡りをしてから、花火を楽しむのもいいかもしれませんね。