2023年2月14日、御日待祭が完全復活。
御日待祭は島根県大田市温泉津町の小浜厳島神社で、毎年2月14日に火祭りという鎮火祭が開催されていましたが、2020年~2022年は新型コロナウイルス感染症の蔓延で規模を縮小して行われていた。
祭りの由来は小浜で大火事があり、村人達が懸命に消そうとしても消えず、もう神様にすがるよりないとお祈りをしたところ、1羽の白鷺が飛んで来た。荒れ狂う火の上をぐるぐる白鷺が回ると不思議に火はぴたりと消えたと伝えられている。
その霊験に驚いた人々は、昔小浜の神様に5人の御子があり、末の弟の五郎は荒々しい子だったため、領地をえられなかったのでこれを怒り、家々の戸をたたき、大声をはりあげて夜も寝ずに飛び回ったという話と結びつけ、この五郎を火の神として荒神様にした。
それ以来、小浜地区では各家から薪を持ちより、氏神に集まって、夜どおし火をたき「寝たら起こせ、王子や王子、五郎の王子」と叫びながら、町をねり歩く火祭りの行事をするようになった。
地域の文化行事を守るために活動を続ける「御日待祭」の思いを御日待祭保存会 代表/小浜厳島神社 総代長の小林博通さんに聞きました。
小林博通(こばやし ひろみち)さん
御日待祭保存会 代表/小浜厳島神社 総代
1944年生まれ。島根県大田市温泉津町出身、幼少期から地元の催事に参加。
会社経営を引退し、現在は温泉津のために活動中。
――御日待祭保存会に20代の頃から関わっているとお伺いしたのですが、どのようなきっかけだったのでしょうか。
幼少期の頃からお祭りには参加していました。元々、温泉津の小浜地区では、御日待祭は細かい地区の当番制なので、当番が来たらお祭りの運営に携わります。私の場合は20代後半から役員になり、約50年にわたり御日待祭保存会役員として関わってきました。さらに、3年前からは、小浜厳島神社の総代も兼任しています。
――コロナ禍での御日待祭はどのような感じでしたか。
神事は行っていましたが、子供達が町をねり歩くことができなかったですね。やはり従来の活気はなかったのが寂しさを感じました。境内で火を焚くのですが古くなったお札などを焼くことはしていましたが、人と人とが関わる催事はできなかったですね。今年は従来のコロナ禍前に戻るのでうれしく思います。
――御日待祭の歴史など内容について教えてください。
いつから始まったのかは文献が残っていませんが、地域の火災が成り立ちですね。
1801年(寛政13年)にはもう御日待祭は開催されていたと資料がありますが、もっと前から行われていたと言い伝えられています。1800年代は薪を一束と米を二合、お金を16文を背負子に背負って神事に参加していました。地元の人間は「寝〜たら起こせ」や「寝〜たろ起こせ」で親しまれています。
当番氏子と地域の子供達が「寝〜たら起こせ、起こせ、起こせ」と叫び、太鼓を鳴らしながら小浜地内を巡行します。その後、厳島神社へ帰り、拝殿の畳をあげて板の間の上で「五郎さんの王子、王子や王子」と子供達だけで叫びながら跳ねます。板の間が割れたらその年は豊作という言い伝えがあります。
その後「物相」という赤飯を円柱状に成型した物をいただいて子供達は解散。当番氏子は境内で火を焚いて地域の人が持ち寄った前年の神棚お供えの品などを燃やし、夜通し火を焚き、そして太鼓をたたき地区内を3回巡行するのが催事の流れと内容になります。
――御日待祭は地域にとってどのようなものでどのように継承されていますか。
地域にとっては当たり前の存在で自然に関わって覚えていくもので、私もそうでした。今の子供達にとっても、身近な文化行事として受け入れられていると思います。しかし今後は、子供の数が減っていく中で地域以外の方に御日待祭を知っていただき、繋いでいきたいと思っています。
――これからの御日待祭はどうなってほしいですか。
まずは現状維持が課題になっています。そのうえで次世代を担う若者たちにいい形で発展させてもらうことが、私個人では望んでいることですね。
もちろん地元地域の人たちを大事にしながら、新しい風を入れていくことや県外の方、国外の方に御日待祭を知っていただきたいですし、地域の人たちにも新しいアイデアを出してほしいですね。
――お祭りに向けての意気込みをお願いいたします。
伝統文化のある御日待祭を従来の形で行います。コロナ禍で行えなかった子供達の歩き回りも行い、これまでの御日待祭を守りながら発展していき、お祭りが良い方向に変化することも大事だと思います。若い人達にも来ていただきもっとより良いものにしていきますので、ぜひたくさんの参加をお待ちしております。
――本日は長い時間ありがとうございました
(取材2023年2月8日)