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過疎の街に受け継がれる民俗芸能「花祭り」、東京の子供たちと歩んで

更新日:2024/3/5 Rie Wakabayashi
過疎の街に受け継がれる民俗芸能「花祭り」、東京の子供たちと歩んで

愛知県奥三河地方の“花祭り”

天竜川沿いに多くの民俗芸能が残るこの地域は、民俗芸能の宝庫。

だが、奥深い山奥である為、この地方では30年以上前から人がいなくなり、芸能の継承が危ぶまれてきた。だが、そんな山奥から今もなお、鬼と共に舞う人々の「テホへ」の掛け声が聴こえてくる。

“花祭り”は、どの様に受け継がれてきたのだろうか?

〜民俗学者の愛した祭〜

花祭りは、かつて、民俗学者の柳田國男、折口信夫らも深い関心を寄せ、”花(花祭)に入らずば、日本の伝統芸能は語れない”とまでいわれた芸能である。
『霜月神楽』の一種で、人の魂がもっとも衰える霜月の時期に、神仏をお招きし村人が神と舞を舞う事で交遊、新しい自己の再生・生まれ清まり・所願成就を祈るお祭りだ。

起源は700年以上前に修験者によって教義を伝える為に広まったと言われている。
花祭りの式時は、祭場の清めの神事からはじまり、神迎え、湯立て、宮人の舞、青年の舞、稚児の舞、鬼の舞、禰宜や巫女・翁などの神々の祝福、少年の舞、湯で清める湯ばやし、清めの獅子舞、そして神送りまで、数々の次第を休む暇なく、ほぼ一昼夜をかけて行われ、現在は、14地区で毎年11月から翌3月まで開催されている。

奥三河の花まつり

奥三河の花まつり

奥三河の花まつり

奥三河の花まつり

 

〜花祭りが抱える課題とそこから生まれた交流とは?〜

この14地区中の一つ御園地区(北設楽郡東栄町大字御園)は、30年以上前、後継者不足を抱え悩んでいた。子供たちも減り、このままでは祭りを継承出来なくなるというところまできていたのだ。
そんな中1985年に、東京の民俗芸能を愛する【東京民族舞踊研究会とダガスコ北多摩民舞教育研究会】との交流が始まり、そのメンバーのお子さんの1人が、祭りの太鼓や笛の音に合わせて楽しそうに踊っていたのを現地の方に気に入られ、本番前の「舞習い」という練習に参加させてもらった。さらに、翌年の花祭り本番では、現地の子どもと共に舞を踊ったのだ。
その後、過疎化による子どもの減少が進み、御園小学校が閉校になることを受け、「閉校までの1年を御園で過ごしてみないか」と誘われ、一年間の山村留学を経験。そのことをきっかけに御園の方たちと東京(東久留米滝山団地)の子供たちとの交流が始まり、今では東京の多くの子供たちが現地の花祭りに参加している。

毎年、御園花祭り保存会の方たちは東京に来て子供達に舞を教え、お盆の時期になると今度は東京から御園へ子供たちが舞を教わりに行く。そうした交流を重ねて今年で26年目だ。かつて山村留学をした小学三年生の少年は30歳を過ぎ、今ではこの会[東京花祭り]の代表を務めている。

会を発足した当時からの参加者も多数おり、26年前は子どもだった方たちも成長していく過程で教わる側から、新しく参加した子どもたちに舞を教える側へと立場を変化させながら活動を続けてきた。

奥三河の花まつり

奥三河の花まつり

奥三河の花まつり

奥三河の花まつり

東京花祭り映像

 〜日本の原風景   山村留学の魅力〜

筆者も、東京花祭りとは別に、この御園地区の花祭りの舞を1週間の合宿を通して地元の方から教わったという、今思うと本当に貴重な体験をさせて頂いたことがある。

奥三河地方は、今でこそ「なんでこんな所に人が住み着いたのか?」と疑問が湧くほどの辺鄙な所だ。だが、昔はこの近くに流れる天竜川沿いに長野まで繋がる街道があった為、人の行き来が盛んなところだった。
埼玉県で生まれ育ち、神奈川と東京の県境の大学に通っていた私にとって、それほどシティガールではないという自負はあったものの、東栄町ほどの見渡す限り山、川、そして、夜に電気を点けておけば、窓から入ってきた何百種類という虫の大群がまるで博物館の標本の様に壁に並ぶ地域に訪れたことはなかった。また、そんな山奥であるため星空も綺麗なことで有名である。
朝方には山のてっぺんから雲海が見渡せ、雲の切れ間から見える神社や畑、人は、まさに日本昔話の世界そのものであった。

東京花祭りのメンバーの皆さんも私と同様、東久留米団地というマンモス団地に住んでいた為、田舎らしい田舎がなかったという。だから、彼らはお盆の御園での合宿が楽しみで、舞を教わるためというよりも御園の子どもたちとこの山の中、自由に遊びまわる為に毎年通っていた。

奥三河の花まつり

奥三河の花まつり

奥三河の花まつり

〜花祭りの魅力〜

奥三河の花まつり

私たちの練習はというと、一週間毎日朝、昼、晩と1日3回2時間ずつの練習で、順の舞という演目を覚えたのだが、その時に地元の方から何度も聞かされたことは、「花祭りは、囃子が入って初めて完成する。だから、これは花ではない。ただの練習だ」ということだった。
花祭りの1番の魅力は、この舞手の周りで囃子を入れる囃子手の「テホへーテホへ」の掛け声だ。これは40分から2時間近く舞い続ける舞手たちを元気付ける意味だそうだが、昔は、踊り手同士が「おい、足が上がってねぇぞー!」などとヤジを飛ばし合いながら舞っていたそうだ。今は舞手同士でヤジを飛ばすことはなく、囃子手が舞手に掛けることが殆どになっている。
だが、昔も今も変わりなく舞手も囃子手も一緒になって「テホへ」と舞続けるその迫力には、誰もが感動するであろう。

私たちは、最終日の夜に、「今日が最後だから本当の花を舞わせてあげよう」と、村の方たちの囃子を入れて舞わせてもらった。
村の方の太鼓と笛で舞が始まると、私たちの様子を見ながら1人のおじさんから「おい、元気がねぇぞ オラ!」と掛け声が入る。私たちは、その言葉の乱暴さよりも励まそうとして下さる温かさに心が触れ、「よし舞うぞ!」というスイッチが入る。
そして、「テホへーテホへ」の掛け声が始まり、グルグルと円を描きながらジャンプして飛び跳ねると、何百人という人が一緒に舞っているような錯覚をおこした。そして、舞が終わりふと辺りを見渡すと5,6人しかそこにはいなかった。そのあまりの少なさに驚いてしまったのだ。
そして、翌朝の旅立つ直前に「これが最後の花だ」と言われ舞った順の舞では、涙が止まらず泣きながら舞った。

御園花祭り映像

〜奥三河のおおらかさ〜

御園の方たちは、どこの誰とも分からない新参者の勝手な申し出に、不審な顔をしながらも、夏休みの暑い時期に毎日欠かすことなく練習に付き合ってくれた。

そして、初めてだからといった甘えは一切なく、早口な方言のダメ出しが飛び交い、言葉を理解するのも大変であったが、それ以上によそ者であろうとなかろうと、舞を舞う者は同じというスタンスで厳しくも温く指導してくれたのだ。

その姿から練習にも自然と熱が入り、また、都会ではあまりない人や自然、先祖との強い結び付きを感じる御園での生活は、当時の私たちにとってカルチャーショックでもあった。

皆さんのこうした人柄は、花まつりのヤジや「テホヘ」の掛け声、そして舞手も囃子手も関係なく一緒に舞うという花祭りのスタイルにそのまま反映されている。この奥三河の大らかで豪快な人柄は、どこか懐かしく、私たちの忘れかけていた記憶を呼び覚ます。だから、今も東京の子供たちを惹きつけてやまないし、毎年多くの人が遠くからこの辺鄙な山奥へと訪れるのだろう。

花祭りは、神に感謝し神と共に舞うだけでなく、子どもからお年寄りまでもが一緒に場を共有出来る空間だ。その縦の線と横の線が交じり合う祭場の本質を、形を変えながらも柔軟に維持させてきた御園や奥三河の皆さんの取り組みにはいつも驚かされる。
地方のこうした民俗芸能が過渡期にある今、そうした彼らの姿勢からも学ぶものは多い。

そして、その場にいるもの全員で「テホへテホへ」と舞う空間は、何よりも楽しいはずだ。
ぜひ一度奥三河花祭りに足をお運び頂きたい。

奥三河の花まつり

奥三河の花まつり

奥三河の花まつり

奥三河の花まつり

御園地区 花祭り
〈開催日〉
2019年11月第2土曜〜日曜

午後2時〜翌正午

御園集会所

愛知県北設楽郡東栄町 大字御園字坂場124-3

奥三河花祭りホームページ

 

東京花祭り
<開催日>
2019年12月第2土曜
11:00〜19:00
東久留米市西部地域センター前広場(東久留米市滝山4-1-10)

東京花祭りホームページ

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オマツリジャパン オフィシャルライター

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