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情緒あふれる艶やかな舞は花街で生まれた?「おわら風の盆」人々の歩みが築いた唯一無二の魅力

2023/8/23
2023/8/23
情緒あふれる艶やかな舞は花街で生まれた?「おわら風の盆」人々の歩みが築いた唯一無二の魅力

顔が隠れるほどの大きな編笠を被る女性たちは、しなやかに、舞う。「見惚れる」とはまさにこのこと。富山県富山市八尾町で続く「おわら風の盆」では、女性たちが披露する「女踊り」、力強い振り付けの「男踊り」、そして古くから伝わる「豊年踊り」の3つを中心に踊り継がれる秋の豊作を祈る行事だ。とりわけ見事な舞として評価が高い女踊りと男踊りを鑑賞するために、多くの人が八尾町に足を運ぶ。

今回は、2023年9月1日(金)~3日(日)に開催を控える「おわら風の盆」と八尾町の人々との関係を紐解くために、越中八尾観光協会の谷井里美さんにお話を伺った。

画像提供:富山市観光協会

11の町で育まれる11の特色

――「おわら風の盆」は、いわゆる盆踊りでイメージする踊りや音楽と比べると、全然違う雰囲気だったので驚きました。

谷井さん:そうですね。お祭りの名前に「盆」とあるので、盆踊りだと思われる方も多いのですが、実際は八尾に伝わる伝統芸能のようなものです。盆踊りのように、輪になってみんなで踊る「豊年踊り」と、振付師さんが振り付けたグレードの高い「女踊り」と「男踊り」の合計3つの踊りが「おわら風の盆」を代表するものです。

おわら風の盆、女踊り

――3つの踊りは、踊り手や振り付けが違うだけでなく、グレードも分かれているのですね。

谷井さん:誰でも参加できる「豊年踊り」と違い「女踊り」と「男踊り」は、すぐに踊れるような単純な振り付けではないんです。長年練習に励んでやっとお披露目できるものなので、地元の方たちが大事に培ってきた踊りといえるものですね。

おわら風の盆、豊年踊り

――八尾には11の町がありますが、町ごとに踊りも異なるのでしょうか?

谷井さん:基本は全部一緒なんですよ。指導していく長い年月の間に生じた町ごとの癖みたいなものが、それぞれの町の特徴になっているんだと思います。この町ではこの部分が他の町と違うなど、挙げたらキリがないほどです。
でも、こういう細かな違いを楽しんでいる方も多くて、例えば、この町の男踊りしか観ない、というようなコアなファンもいるくらいです。

――踊りが違うように、衣装も町ごとにデザインが違いますね。どの町のものも本当に美しいですが、衣装についても詳しく教えていただけますか?

谷井さん:小学生や中学生の衣装を持っている町があったり。例えば、東新町の小学校の女の子は、早乙女姿の衣装で踊ります。この姿が独特で、とても可愛いので見てもらいたいですね。

早乙女、小学生の踊り手早乙女の衣装を纏う小学生の踊り手たち

そして女踊りや男踊りの踊り手さんたちが着ている衣装は、基本的に成人の踊り手さんたちのものです。顔が隠れるほどの大きな笠が共通しています。この方たちは青年団に所属する若い世代で、町を代表する踊り手さんたちでもありますね。

――「おわら風の盆」のポスターを飾る踊り手さんたちは、この若い世代の方々ですか?

谷井さん:そうですね。20代半ばの若い方々が中心です。その下に、高校生や中学生、小学生が続きます。一番小さな子だと3つ4つの幼稚園・保育園児くらいから、町流しに参加するので、浴衣を着てトコトコ歩いている子たちもいますよ。

「おわら」の晴れ舞台を夢見る八尾の人々

――おわら風の盆に参加する人たちはまず、豊年踊りの町流しでデビューされているのですね。

谷井さん:そうですね。この町に生まれたお子さんたちは、最初、やっぱり踊れないんですよ。だから、今年はまず手の振り付けを覚えて、来年は足を覚えるというように、ちょっとずつ習得していきます。そうして年々上達していく姿を見られるのもうれしいものですね。

おわら風の盆

――豊年踊りを踊りながら、年上のお姉さん、お兄さんたちの見事な女踊りや男踊りを間近で見ていたら、早く女踊りや男踊りも踊れるようになりたいな、という気持ちがより強く芽生えそうですね。

谷井さん:そうだと思います。ともすると、小学生でも先輩方の踊りを見よう見まねで踊り出すくらいです。大人の踊りとはまた違って、これもなかなか可愛いんですけどね。

――地元に目指すべきものがあるというのは、お祭り自体の繁栄だけでなく、町そのものの発展にも重要なことのように感じます。

谷井さん:実際、高校の卒業や就職のタイミングで、県外に出て行っちゃう子たちも中にはいます。そのような子たちにとって、踊りの練習やお祭りの参加のために、仕事の休暇を取るのは大変なことだと思います。
いっぽうで、長い夏休みの間に帰省して、練習に励んでいる熱心な大学生もいますよ。そういう姿を見ていると、「おわら風の盆」で美しい衣装を着て踊るという体験は、意味のあるものになっていることを改めて感じますね。

「おわら」は花街で誕生し、芸術家たちが昇華させた

――八尾の町で大切に踊り継がれているこの踊りは、どのような背景で誕生したのでしょうか?

谷井さん:300年以上もの歴史がある「おわら」は当初、唄だけが伝承されていました。転換期となったのは、江戸時代後期、八尾町の鏡町という地区が、花街で栄えていた時代です。町全体がひとつの繁華街のようになっていて、ここには常に60人の芸者さんがいたと言われています。

その当時、芸者さんたちとこの花街に遊びに来る人たちが、面白おかしく歌って踊ったりしたのが、八尾の唄と踊りの始まりと言われています。こういう背景なので、実際は誰かの悪口を唄にしていたり、社会を風刺したものだったり、かなり下品な雰囲気だったそうです。

――「面白おかしく」とは、具体的にどのような場面で楽しまれていたのでしょうか?

谷井さん:即興で歌をうたって、その歌にまた即興で返す、というような歌の掛け合いをしていたようです。当時、このような遊びが流行っていたと言われています。

鏡町、花街、芸者鏡町で栄えた花街と芸者さんや仲居さんたち

――今でいうと、ラップバトルのようなストリートカルチャーと似ていますね。

谷井さん:まさにそうだと思いますね。ただ、やはり風紀を乱す唄や踊りだったので、ごく一部の人たちの間だけで楽しまれている状況だったようです。
こういう風潮を変えていった中心人物が、お医者さんであり「越中八尾民謡おわら保存会(現・富山県民謡越中八尾おわら保存会)」の初代会長の川崎順二先生という方です。そして現在の「おわら風の盆」は、川崎先生の努力によるものが非常に大きいといえます。

――具体的にはどのような取り組みをされたのでしょうか。

谷井さん:例えば、女踊りの歌詞は、歌人・小杉放庵先生を八尾の町に招待し、特別に詠んでもらったものです。また、女踊りと男踊りは、日本舞踊の若柳吉三郎先生による振り付けです。川崎先生は、私財をはたいて芸術家へ依頼し、八尾の町に古くから残る唄や踊りを、より多くの人が楽しめるような作品として蘇らせたというわけです。

――川崎先生が「おわら」を修正することになったきっかけは、この唄のネガティブな側面だと思うのですが、まったく新しい唄を作るのではなく、あくまでも当初の唄を尊重したのはなぜなのでしょうか?

谷井さん:連綿と続いてきた唄や踊りの貴重な文化のごく一部分だけが、一人歩きしてしまったわけなので。地元の人たちが長い間受け継いできたものを、すべて変えてしまうのではなくて、また次の世代に引き継いでいくことを大切にされたのだと思います。

でも当時、特に女性は、今とは比べ物にならないくらい制約があった時代でもあります。ましてや人前で歌ったり踊ったりするなんていうことは、一般家庭の娘さんたちにとってあり得ない行為でした。そこで川崎先生は、まず自分の3人の娘さんたちから率先して踊らせたそうです。

女踊り

――おお。川崎先生の八尾の町に対する並々ならぬ思いが伝わります。

谷井さん:歌詞や踊りも改良された「おわら」は、より親しみやすくなり、一般の人たちが参加する大きなきっかけになったと思います。ただ、やっぱり川崎先生が町の人たちから厚く信頼されていたということは大きいのではないでしょうか。
「あそこのお嬢さんが出るんだったら、私も踊ってみようかしら?」というふうにして、徐々に町の人たちも参加するようになったようです。

現在「おわら資料館」がある場所には、もともと川崎先生の病院がありました。当時、この場所には若者たちが集って芸能談義に花を咲かせていたようです。毎晩、川崎先生のもとで、当時の人たちは情熱をぶつけ合っていたのではないでしょうか。

おわら資料館、川崎順二かつて川崎順二先生の病院だった「おわら資料館」

――川崎先生のような「おわら」繁栄のカギとなる人物は他にもいたのでしょうか?

谷井さん:先ほど紹介した小杉放庵という方ですね。栃木県日光の出身の小杉先生は、旧日光町の二代目町長の息子さんであり、画家でもありました。東京大学の安田講堂の壁画を描かれるなど、有名な方だったそうです。
1928年(昭和3年)、このような著名な方に、八尾の町の春夏秋冬を詠んだ『四季』を作成してもらいました。この唄があったからこそ、八尾の情緒が滲む振り付けが生まれ、現在の「女踊り」が形作られたといえますね。

こうして新たに生まれ変わった「女踊り」は、1929年(昭和4年)、銀座の三越で初披露されました。三越で行われた富山県の物産展に八尾の芸者さんたちが招かれ、見事な踊りを披露したそうですよ。

唄、踊り、そして音楽は「おわら」の軌跡そのもの

――ごく最近の昭和時代にも、さまざまな取り組みがなされている「おわら風の盆」は、今もなお生き続ける伝統であることがわかります。

谷井さん:他にも、民謡ではあまり使われることのない「胡弓(こきゅう)」という三味線を小さくしたような弦楽器を用いています。踊りや唄のうしろにさりげなく響くこの音色もまた、多くのお客さんを魅了している「おわら」の魅力となっています。

川崎先生や小杉先生のご尽力を中心に、地元の人たちは「どうすればおわらはもっと良いものになるか」ということを常に考えていらっしゃったのだと思います。唄や踊り、そして音楽それぞれから、試行錯誤の末に現在の形に築き上げられたということが強く伝わります。そしてなにより、そういう議論ができることそのものが、羨ましいとさえ感じますね。

――「羨ましい」というのは、現在は何か課題に感じていることがあるのでしょうか?

谷井さん:一番はやっぱり人が少なくなってきたということですね。特にこの踊りには、若手が踊るという八尾の伝統的な決まりがあります。青年団は原則25歳までなので、町によってはなかなか厳しいのではないかと思います。
それこそ私が中学生くらいの時は、学校のクラスの人数も今よりずいぶん多かったです。当時と比べると今は半分以下になってしまっているというのが現状です。「おわら風の盆」を先導していく次の担い手を育てていくことが、最大の課題ですね。

――反対に、当時と変わらず今もなお「おわら風の盆」の魅力となっているのはどのような部分ですか?

谷井さん:とりわけ「ここ!」みたいなところはこの町にはない…なんて、観光協会の私が言ったら怒られちゃうかもしれないですね。でも八尾の魅力は、例えば、一般のお家の玄関先が毎朝きれいにお掃除されていたり、花が飾ってあったり。そういうささやかなおもてなしの心だと思うんです。こういう心配りが、しずかに時間が流れる町全体の雰囲気を作っているのかな、とこの町に住みながら感じています。

八尾町

このような八尾の風景を気に入ってくださる人が増えているのか、町中にも観光客の方を見る機会が徐々に増えています。それだけでなく、私たちがまだ知らないような町の小さな魅力を発見してくださる方たちもいて。それがまた私たちには新鮮で、とてもうれしいですね。

――最後に、「おわら風の盆」を訪れる方に向けてのメッセージと意気込みを教えてください。

谷井さん:開催日が目前に迫っています。楽しみにしてくださっている方もたくさんいらっしゃるのですが、八尾の町は、まだまだ厳しい暑さです。11の町からなる「おわら風の盆」は、広範囲での開催となるので無理はせず、休み休み楽しんで頂きたいです。今年はおわらに来てよかったな、と思ってもらえるのが、やっぱり一番嬉しいですので。そのために、我々も当日まで準備を頑張って進めてまいります。

 

稀有な物語を持つ富山市八尾町の伝統芸能「おわら」。しかし、その過去と向き合ってきた八尾の人々がいたからこそ、多くの人々を魅了する行事に昇華したことは明らかだ。

唄と踊りと旋律が吸い込まれてゆく先の八尾の幻想的な町並みを訪れれば、そんな「おわら」を紡いできた人々に思いを馳せるひと時になるだろう。

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