2022年10月。これまで受け継がれてきた文化と技術を途絶えさせないために、国重要無形民俗文化財に指定された「秩父吉田の龍勢(ちちぶよしだのりゅうせい)」が、規模を縮小して実施されます。
秩父吉田の龍勢は、埼玉県秩父市の下吉田地区で代々受け継がれてきました。毎年10月の第2日曜日におこなわれる「椋神社(むくじんじゃ)例大祭」において、耕地の人々が丹精込めて作り上げた「龍勢」と呼ばれるロケットを打ち上げる神事です。空高く昇る様子が龍のように見えることから、龍勢と呼ばれています。
龍勢は、耕地と呼ばれる集落に紐付いた「流派」ごとに秘伝の方法で作られており、同じ作り方をしても同じように飛ぶことがないという難しさが人々の心を捉えてきました。
しかし、作ることができるのは年に一度だけ。何度も練習ができないため、これまでも幾度となく存続の危機を迎えてきたといいます。
今回、3年ぶりの開催ということで、これまでの龍勢の歴史と継承活動について、吉田龍勢保存会名誉会長の新井徳弘さんにお話を伺いました。
新井徳弘さん
吉田龍勢保存会名誉会長
平成12年常任理事となり、会計6年(内2年は副会長兼務)副会長4年務める。
2010年(平成22年)より、吉田龍勢保存会の6代目会長を就任2019年より名誉会長に。
400年にわたる龍勢の歴史
——龍勢の始まりについて教えてください。
戦国元亀時代、小田原北条氏の領土だった秩父の地域に武田信玄が攻めてきたときに椋神社を焼いてしまったのですが、1575年に北条氏邦が本殿を再建し、大祭をおこないました。このときに焚き火を投げ上げてご神霊をお慰めしたことが龍勢の起源といわれています。それが、鉄砲伝来で火薬が入ってきたことでどんどん派手になっていったのではないかと。実は、鉄砲と龍勢の火薬成分は似ているんです。
秩父事件について綴られている『田中千弥日記』によると、1867年(慶應3年)に昼龍勢1本、夜小龍勢1本が打ち上げられたという記述があり、それが一番古い文字の記録です。大正11年の龍勢の記録を見ると1日で60本。サイズも8寸と、今では作れない大きなものもありました。
昭和12年から20年頃には戦争で中断しますが、昭和21年から軍司令部から鉄砲用の火薬を払い下げてもらい、ライアン中佐や県知事の視察下で再開されます。
その後、昭和39年から46年には龍勢が15本に満たなかったことで中止となったものの、昭和47年からは、昭和63年の昭和天皇ご病気のため自粛した年を除いて、毎年行われてきました。しかし、令和2年からは再び新型コロナウイルスの感染拡大により、2年間中止となってしまいました。
龍勢を作るのは、地域に紐付いた「流派」と「龍勢師」
——龍勢を作るのは、龍勢師が所属する流派というものがベースになっていると聞きました。
もともとは耕地という集落単位でおこなわれてきました。たとえば、今私が住んでいるのは上野原町会というのですが、ここは3つの耕地が集まってできています。昔は、その3つの耕地がそれぞれ龍勢を上げていました。
他にも企業が協賛してあげたり、職場単位で上げたりするケースや、周辺の村からも龍勢を上げていた時代もありましたね。
今は、吉田町内の耕地が流派の基本となっており、27の流派が保存会に登録、25流派が活躍しています。それぞれの流派に秘伝の作り方が伝承されているのです。
数年前その中から退会届を出されたのですが、一度流派をなくしてしまうと、新しい流派を作ることができません。子どもたちが大人になって、龍勢をやりたいと言ったときの場をなくしてしまうことになるため、今回は休会届という形で流派を存続することになりました。
——新しい流派を作れないのは、なぜでしょうか。
火薬を取り扱うという特性上、危険性が高いため、流派の仲間の中で秘伝だけでなく、安全性の面も伝えてもらうことを重要視しているためです。
将来の龍勢師を育てる学校での伝承教育
——同じ集落の人たちがベースとなって、秘伝を受け継いできたのですね。
そういう点においては、吉田という地域は若者との交流がしっかりできてると感じています。なぜなら、龍勢を作るには、何日もみんなで力を合わせることが必要。幸せな地域です。
私も家の前が耕地の集会場で、子どもの頃から龍勢作りを見てきたから、大きくなったら龍勢をやるんだと自然に思っていましたね。
——暮らしの中で自然と龍勢に親しみを持ってこられたのですね。今は伝承教育というものも、小学生、中学生におこなっていると聞きました。
地元の吉田小学校3年生と吉田中学校3年生への伝承授業への支援のために、伝承サポーターというものを立ち上げています。これは現役員のほか、流派の中から協力して良いというメンバーに登録いただいています。
中学校では6月〜10月、小学校が10月〜2月と長い期間にわたって、未来の龍勢師になってもらいたいと伝承授業をおこなっているのです。
——保存会活動の中では、こういった次世代の継承に活動の重きを置いているのでしょうか。
一番大切なのは、なにより安全です。製造においても、打ち上げにおいても、一番大切にしています。
その一方で、後継者育成についても力を入れています。どれだけ地方のお祭りが楽しくても移住までする人は滅多にいません。やはり小さな頃から培われる龍勢への気持ちというのは大切です。
たとえば、学校でおこなう伝承教育では、伝承サポーターのことを『先生』と呼んでいません。みんな下の名前で、伝承サポーターのことを『●●ちゃん』って呼ぶんです。それを子どもたちが家で話すと、親たちは伝承サポーターたちのことを知っているから『ああ、●●が学校に来たん?』となります。また発表のときには、下の学年の子どもたちにも披露するのですが、彼らも伝承サポーターのことを覚えていて、3年生になったときには最初から『●●ちゃん』と声を掛けるのです。
——龍勢そのものだけでなく、龍勢師である伝承サポーターへの親近感も、伝承教育を通じて育っているのですね。
自分にとって身近な人が龍勢を作っているというのが、龍勢を身近に感じたり誇らしく感じたりすることにもつながります。
地元から出たとしても、お祭りのポスターをどこかで見たときに『私たちも学校で龍勢を作ったんだよ。今年は龍勢祭に行ってみようか?』という気持ちになれば、もしかしたら、龍勢の魅力に再度ハマってもらって、この地域へ戻ってくるきっかけにつながるかもしれない。浅はかですが、そんな期待もしています。
遠方の人たちも参加。龍勢を盛り上げる仕組み作り
——龍勢サポーターズというのは、どのような存在なのでしょうか。
9年前から始めた、県内外の方々で龍勢を応援してくれる方々の集まりです。年によって構成は変わりますが、北は秋田、南は岡山と遠くの方にもご協力いただいています。
龍勢を知っている人には、より好きになってもらうために、知らない人には龍勢を好きになってもらえるように活動をしようと取り組んでいます。活動内容としては、紹介コーナー作りからブログ用の取材記事作成、物販品のデザインから発注までなど、多岐にわたっています。
——アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』で龍勢が取り上げられた影響も大きいのでしょうか。
そうですね。サポーターズに参加された方だけでなく、アニメがきっかけで聖地巡礼に来られた方との交流も活発に行われています。以前、痛車で吉田へ来た人に対して、吉田の人が「いいクルマだから、今日の運動会にこの車で来てよ!」と声を掛けたり、一緒に焼き肉をしたり。また、アニメをきっかけに龍勢ファンになって、兵庫から移住された方もいました。
どの地域でも、外部の人と地域のつながりを作っているとは思うのですが、移住するほどのめり込むほど、面白いお祭りや人たちが多いのかなと、サポーターズのみなさんを見て感じています。
今年の龍勢祭に向けて
——今年は3年ぶりの開催とのことで、継承についてはどのようなことが課題でしょうか。
今年もコロナ禍の最中ということで奉納者が減っていますが、来年も流派によっては作れないところが出てくるのではないかと危惧しています。
2年休んだことで、新たに若い人が入ってくれないかも知れないのではないかと思っているのです。今後は人員をどう確保していくか、ということが大きな問題になってくると思います。その点については、今の会長さんがしっかりやってくれると思います。
——今年の開催については、どのようなお気持ちですか?
喜びよりも心配の方が多いですね。今回はオンラインで開催としていますが、人がきてしまうかもしれないと不安です。それに流派の人たちも元気な人が多い気がするので、盛り上がる気持ちを抑えて打ち上げに挑んで欲しいですね。とにかく安全安心が絶対ですから。
今回は会場の規模を縮小するほか、文化庁支援事業のライブ映像配信が行われます。ぜひ、お祭り当日はご自宅でゆっくりご堪能ください。
Photographer/高橋昂希