Now Loading...

浅草寺、歳の市(羽子板市)で縁起物を見つけましょ。伝統技術が詰まった羽子板は贈答用にもぴったり。

2020/11/30
2020/11/30
浅草寺、歳の市(羽子板市)で縁起物を見つけましょ。伝統技術が詰まった羽子板は贈答用にもぴったり。

年の瀬の風物詩の浅草寺歳の市(羽子板市)は、四季を大切にする日本人にとって、その年の締めの行事の一つになります。

お気に入りのものを見つけるのも良いですが、記念になる手形羽子板やその年の世相に関連するものなどは贈呈用にもいいですね。

 

(この記事は2018年に公開されたものを再編集しています。 2020年11月30日 編集部更新)

 

Horizonman / Shutterstock.com

浅草寺歳の市

毎年、12月の17日、18日、19日の3日間、台東区の浅草寺(観音様)の境内で羽子板市が開かれます。
「市」とは、神社仏閣の縁の日、参詣人の集まる日に、近郷在住の人々が日常生活用品を商うために「市」が立ち、「歳の市」とはその歳の最後の市です。
江戸の歳の市は浅草が最も古く、万治元年(1659年)両国橋が架けられた頃と言われています。

浅草の歳の市は、日常生活用品の他に新年を迎える正月用品が主になり、それに羽子板が加わり華やかさが人目をひくようになりました。その華やかさから押し絵羽子板が「市」の主要な商品となり、いつしか市が「羽子板市」といわれるようになり「人より始まり人に終わる」と言われるほどの賑わいとなりました。

暮れの17、18、19日、浅草観音様の境内に江戸時代のままの情景が展開します。
通りから一段高く床を張ったにわか座敷店。飾り立てた羽子板は舞台より、一段といい男振りの役者の顔、顔、顔。仲見世から宝蔵門(仁王門)、観音堂まで境内いっぱいの人の波でこのときばかりは師走の寒さも和らぐようです。

江戸時代中頃には、当為全盛を極めた歌舞伎の人気役者の舞台姿を写した羽子板が市に並べられ、人々は自分の贔屓役者の羽子板を競って買い求め大変な人気でした。その年の人気役者の当り狂言や舞台姿を、競って求めるようになり、羽子板の売れ行きが人気のバロメーターともなりました。

羽子板が今日のように一般に売られるようになるまでは、「市」が唯一の商いの場でした。昔は師走の東京の各所に羽子板市が立ち、女性たちはひいき役者の当り狂言の羽子板を求め、ふところに抱いて帰りを急いだとのことです。

引用:浅草寺歳の市

日程

12月17日(木)~19日(土) 9時~21時半まで開催(最終日は20時半まで)

※内容や時間等は変更になる場合がありますのでご了承ください。
詳しくはHPをご確認ください。

アクセス

東武スカイツリーライン:浅草駅 徒歩5分
東京メトロ銀座線:浅草駅 徒歩5分
つくばエクスプレス:浅草駅 徒歩5分
都営地下鉄浅草線:浅草駅A4出口 徒歩5分

yukihipo / Shutterstock.com

羽子板と破魔弓の意味

お正月の羽根つきは、江戸の昔から女の子の遊びです。そして羽子板は、女の赤ちゃんの無病息災のお守りの意味も持っています。羽子板でつく羽の玉、あの黒くて堅い玉は“むくろじ”という大木の種ですが、これは漢字で「無患子」と書きます。「子供が患わない」という意味が込められています。
破魔弓は読んで字のごとく、魔よけ、厄払いのお守りです。男の子の元気な成長を願いお正月の縁起の祝い物となっています。また神社の破魔弓や、棟上げの際屋根に立てる破魔弓も弓矢のもつ魔除けの力を信じることから生まれた習慣です。
羽子板も破魔弓も、ともに古来からの行事であった新春の年占いや厄払いがその始まりです。男の子が弓矢で的を射て年占いをしたのがのちに破魔弓になり、女の子がお正月に羽をついて、その年の厄払いをしたのがのちに美しい羽子板を生み出したのです。

 

飾る時期

羽子板や破魔弓は、12月の中旬以降に飾り付けたらよいでしょう。お正月には贈って頂いた方々を招いてご家庭でおもてなしするのもよい方法です。

しまうのは、1月15日頃がよいでしょう。それはちょうどこの頃、お正月飾りを焼く左義長(さぎちょう・どんど焼きのこと)の行事が行われるからです。江戸時代には、宮中の左義長風景を描いた極彩色の左義長羽子板というものがありました。これは、このお正月行事と羽子板との密接な関係を物語っているものといえるでしょう。

引用:一般社団法人 日本人形協会

羽子板が出来るまで

押絵羽子板

浮世絵、奥村政信が描いた宝暦の女形、嵐喜代三郎の八百屋お七が恋人吉三郎の立ち姿の羽子板を手にしています。当時既にそのような工夫があったようです。羽根突きの道具を一枚のキャンバスに仕立て、人気スターを描くという奇抜な発想によって羽子板は、新春の縁起物に留まらず、江戸歌舞伎の人気とともに押し絵羽子板の基礎となりました。

押絵羽子板の作り手も下絵師、面相師、押し絵師と次第に専門家し、浮世絵の爛熟期には下絵には「国貞・国芳」の墨の線による作品も残っています。押絵羽子板は歌舞伎があってこそ成立する世界です。

この押し絵羽子板が完成の域に達するのは明治の中期頃になります。それは団菊左-九代目市川団十郎・五代目尾上菊五郎・初代市川左団次を軸とする歌舞伎全盛期の恩恵であり、名優が次々と演ずる新旧の狂言の型を、羽子板職人たちは熱心に研究し、役者衆も自らの羽子板の売れ行きによって人気を探ったといわれています。

押絵師たちはおつかいものをしてでも楽屋から入るのを身上としていました。木戸銭を払って入るなとはもっての他。職人たちは楽屋への出入りを一種の見栄にしつつ技を磨いていたのです。

絵師と押絵・面相師

押絵及び押絵羽子板は、絵師と押絵面相師との連携のもとでつくられて行きます。絵師は下絵、面相、模様、小道具、向こう張り、裏絵などを押し絵作りの進行にあわせて描いていきます。

羽子板の良し悪しは面相で決まります。面相は押し絵及び押絵羽子板の「顔」です。歌舞伎のレパートリーから構想を得て、羽子板の限られたスペースに人物を表現します。そのためには芝居の筋と役柄を良くのみこんで、細部にわたつて重みと美しさを与えなくてはいけません。面相師は狂言物歌舞伎の役者の似顔絵を巧の技として高めて今日に到りました。

時代を遡ると豊国・栄泉・国芳・国貞などの名代の浮世絵師か羽子板の構図や面相を手がけたと言われています。現在でも浮世絵のように面相を描きます。その書き方が羽子板にとって最もふさわしい面相です。

顔には陰影を付けずに隈取り、目の縁など濃淡を表す「うんげん法」という手法を取り入れ平面的な面相に深みを表しています。

羽子板制作手順

全体構想工程 構想 ⇒ 下絵

押絵づくり工程 型取り ⇒ きれ取り

面相描き工程 ドウサ引 ⇒ 下塗り ⇒ ぼかし ⇒ 上塗り ⇒ 目鼻描き

組上げ工程 組上げ

板づくり工程 木取り ⇒ はぎ合せ ⇒ 型取り ⇒ 仕上げ ⇒ 裏絵かき

取り付け工程 柄巻き ⇒ 向張り ⇒ 板付け

引用:浅草寺歳の市

 

今年生まれたお子様への記念品にもいいですね。

手相羽子板は、お子様の成長の思い出になります。

羽子板が出来るまでの工程を見ていると職人さんの伝統技術を感じます。

最近、髪飾りのつまみ細工体験をしましたが、つまみ細工だけでも技術のいるもので、小さいものでも時間のかかる工程になります。

作っている方の気持ちを理解するのも、その物の価値を改めて認識して、感謝の気持ちが深くなりそうですね。

トップ画像:yukihipo / Shutterstock.com

タグ一覧