東京から新幹線で3時間、太平洋に面した人口21万人の青森県八戸市。毎年100万人以上が訪れる「八戸三社大祭」は、かつて八戸藩の城下町だった中心街が一大「歴史絵巻」へと一変。厳かな神社行列にダイナミックな伝統芸能や27台の大型山車が連なります。
祭りの中日、その熱気あふれる中心街から少し離れた長者山新羅神社で行われるのが、198年の伝統を誇る馬術「加賀美流騎馬打毬」。現在の社殿と馬場が完成した1827年、8代藩主南部信真によって導入された伝統行事です。しかし近年、八戸騎馬打毬会や乗馬クラブによって受け継がれてきた伝統に「黄色信号」が灯っています。
危機感を募らせるのは、八戸藩南部家16代当主の南部光隆さん。かつて先祖が始めた伝統を絶やすまいと、住まいのある埼玉県から八戸に何度も足を運び、当事者の思いや現状に触れ、講演活動やチラシ配りを通して窮状を伝えてきました。
南部さんは「全員の話を聞かないと前には進めない」と話します。
騎馬打毬は果たして200周年を迎えることができるのでしょうか…。新幹線で「お国入り」を繰り返す令和の「八戸南部の殿」の活動を追いかけました。
目次
馬場が熱気に包まれる、江戸時代から続く「和製ポロ」
騎馬打毬は祭り中日の8月2日、新羅神社の「桜の馬場」を会場に行われます。古式ゆかしい装束に身を包んだ騎手が、馬上から赤と白の毬(まり)を巡ってぶつかり合い、毬杖(まりづえ)を駆使して見事毬門(まりもん、ゴール)に投げ入れた瞬間、馬場に集った観衆から一斉に歓声が沸きます。3回戦の中で自軍の毬を全て投げ入れた方が勝ち。
新羅神社で初めて騎馬打毬が開催されたのは1827年7月。藩は、財政の立て直しと共に武術を奨励し、三社堂(現・長者山新羅神社)の社殿と馬場を整備。当時の藩士によって、初めて騎馬打毬が奉納されました。これは、藩の総鎮守であった法霊社(現・法霊山おがみ神社)の祭礼の中日に合わせた出来事でした。その様子は、国元に戻っていた南部信真も見物したと伝えられています。

現在国内で騎馬打毬が残るのは、豊烈神社(山形県)と宮内庁、そして八戸だけ。中でも八戸は江戸時代の古いスタイルを踏襲。騎手と馬の動きがダイナミックで、スポーツ観戦のような盛り上がりを見せます。
南部さんは「騎馬打毬は(ファッションブランドの)ラルフローレンのロゴと同じ文化」と話します。曰く、その起源はなんと中東ペルシャ(現在のイラン)。ヨーロッパでは「ポロ」、日本では「打毬」になったのだとか。
課題は馬の確保と乗馬クラブの存続。限りなく赤に近い「黄色信号」
これほどに深く長い歴史を持つ八戸の騎馬打毬は現在、存続の危機に直面しています。
継承に取り組むのは主に2団体。騎手の育成や競技の奉納を担う八戸騎馬打毬会、馬の飼育や乗馬の練習の場を提供する乗馬クラブ「POLOライディングクラブ」です。このほかに、競技を「奉仕(奉納)」してもらう神社が、馬場を管理しています。
近年は市民有志による支援団体「南部打毬を支援する会」も立ち上がりました。主に騎馬打毬当日の会場での募金活動を行い、打毬会への資金援助に取り組んでいます。支援団体や神社も加えると、4者が騎馬打毬を支えています。

しかし、少子高齢化が進んだ近年は、この4者のバランスが崩れかけているようです。
その原因は…
・競技人口の減少
・乗馬クラブの後継者不在
・競技に使う馬「道産子(どさんこ)」の高齢化 など
コロナ後は競技の内容にも変更が。江戸時代は主に、12対12の総勢24人の騎手が出場していました。明治から昭和、平成と時代が流れ、新型コロナウイルス感染拡大前まで長らくの間は4対4、そしてコロナ後の現在は3対3と減少。
競技の運営資金、競技者の育成、馬の高齢化、乗馬クラブ経営者の高齢化、神社の参拝者の減少など、課題が山積。関係者は頭を悩ませる日々を送っていますが、根本的解決には至っていないのが現状です。
危機感を募らせる八戸藩南部家。当主自ら、窮状を訴える。
そもそも、八戸藩南部家のお殿様が導入したことに端を発する騎馬打毬。南部さんは「皆さんに騎馬打毬の現状を知ってもらった上で、皆さんが必要ないというのであれば、それはそれで仕方がない」と話します。

しかし江戸時代の「言い出しっぺ」でもある八戸藩南部家としても、この状況をなんとか打破したいというのが、本当の願いのようです。

南部さんは2025年2月、冬のお祭り「八戸えんぶり」に合わせて八戸を訪れ、自ら騎馬打毬への来場を訴えるチラシを配りました。その後も何度も八戸を訪れ、市内の喫茶店、私設美術館などで講演活動を繰り返しました。

6月には公共施設「八戸ポータルミュージアムはっち」の広場を貸し切って、南部家主催の「八戸騎馬打毬応援イベント」を実施。南部さんの呼びかけで窮状を知った約120人の市民が、南部さんや関係者の話に耳を傾けました。
勢いづいた2025年の騎馬打毬。しかし根本原因は未解決。
そうして迎えた2025年8月2日の騎馬打毬。土曜開催に加えて天候にも恵まれ、馬場には大勢の市民・観光客が詰め掛けました。年老いた馬たちの息も荒く、騎手は若手もベテランもキリッとした表情。馬の体力を考慮して2回戦で終了する可能性もありましたが、体力が持ち堪え、無事3回戦まで実施されました。

最後に得点を決めたのは、中学2年の板橋東義さん。馬と毬杖を巧みに操って見事に毬門に毬を投げ入れ、会場を沸かせました。父や兄の影響で昨年初めて出場したという東義さん。昨年は無得点を喫しましたが、人生初の得点に満面の笑みを浮かべました。

これまで境内で2人体制で行っていた「支援する会」の募金活動には、窮状を知った約10人ほどの市民が参加。オリジナルグッズの販売も行い、これまでで一番の金額が集まったといいます。

南部さんの呼びかけで、上杉謙信の末裔の一人で米沢新田藩9代当主の上杉孝久さんも来場。「こんなに素晴らしい文化があるとは。ぜひ守っていってほしい」と笑顔を見せました。

継承危機への取り組みはこれから。乗馬クラブの危機
10月、南部さんと一緒に真っ先に向かったのは、八戸市豊崎町にある乗馬クラブ「POLOライディングクラブ」。オーナーで獣医の平野直さんが経営する牧場には、5頭の可愛らしい道産子たちが草をはむ姿がありました。

「こんなに可愛いのに、騎馬打毬が近づくと目つきが変わる」と南部さん。馬たちにとっても、騎馬打毬は年に1回の楽しみなのかもしれません。
平野さん夫婦は約30年にわたり二人三脚で乗馬クラブを営み、人々が馬と触れ合う機会を提供。騎馬打毬に取り組む人々の練習の場としても機能してきました。
しかし人も馬も、歳を重ねます。平野さん夫婦は、後継者不在と言う厳しい状況の中、馬たちの世話を続けているのです。
そして馬も、一番若い2歳のシェリー以外は、30歳前後と高齢。道産子は長生きするとはいえ、現役は10歳位まで。馬の確保、飼育にも多くの資金が必要。この馬たちがいなくなれば、騎馬打毬の練習もできなくなるし、競技そのものが開催できなくなるのです。
この日、平野さんは馬小屋に敷くための稲わらを干す作業をしていました。「このような作業も平野さんがやっていらっしゃるのですね」と驚く南部さんに、「手伝ってくれる人は何人かいるが、それ以外は我々だけでやっている」と平野さん。馬の飼育には年間で1頭あたり120万円ほどかかるといい、新たな馬を迎えることはクラブの大きな負担に。競技を4対4に戻すことは容易ではありません。

平野さんは「若い人に現実を見てもらって、率先してやってもらわなければ、ギブアップするしかない」と話してくれました。
POLOライディングクラブはまさに、騎馬打毬を継承するための生命線の一つ。平野さん夫婦のたゆまない日々が途切れてしまえば、一瞬にして文化が途切れてしまうのです。
南部さんは行政のより一層のサポートや、新しい人材の確保が必要で、そのためには平野さん夫婦の経験、知識、知恵に加え、次の代を担う世代の介入が不可欠だと考えているようです。
たった1日の競技のための、364日
八戸東高校近くの食堂「南国」には、八戸騎馬打毬会で騎手として活動する皆さんが集いました。もちろん最年少の東義さんの姿も。
東義さんに「大人になっても騎馬打毬を続けたい?」と尋ねると笑顔を見せ、「馬に乗って点を入れることが楽しい」と話してくれました。
しかしベテラン達は表情を曇らせます。人馬一体で競技を行うには、後進の育成が不可欠。現在は20人弱の騎手が所属。騎馬打毬は間口が広く、40代、50代でも始められるそうですが、現状はそうではありません。

「新規で始めるにはどうしたら?」と尋ねると、「とても受け入れられる状況ではない」との返答。かつて機能していた、乗馬クラブに入会して馬の扱いに慣れてもらい、騎馬打毬に仲間入りするという構図が、今は崩壊していると言います。
騎馬打毬会幹事長の山内卓さんは「今年は皆さんのおかげで例年より多くの人が来場し、行政関係者は、存続に関してネックになっている部分や必要な人材について聞き取りに来てくれた。行政が多少なりとも危機感を持ってくれたのでは」と話します。
メンバーの一人は「やはり平野さん夫婦の負担が大きい。ただ手伝うだけでなく、少なくとも早朝から日没まで、365日続けてくれる人が必要。年間を通して関わりつつ、休暇も取れる仕組みも大切」と訴えます。南部さんは「新しい人が入ってボランティアで続けていくにも経済的な限界がある。生活が成り立つようにしなくては続かない」と応じました。
やはり、一にも二にも、年間を通して馬を飼育し続けるための経済的体力や人的リソースを確保することが急務。馬を育てるのも人、文化を継承するのも人なのです。メンバーからは「POLOライディングクラブと関係性を保ちながらも互いの関係に『境界線』を持ち、経済的にも支え合っていくことも必要では」という声もありました。

南部さんからは「三社大祭と同じ日に開催することで、祭り関係者は騎馬打毬を観戦することができない。最近は記録的な暑さもある。開催時期を変えることも一つの道では」というアイディアも。
側面から支える団体「支援する会」
市民有志による団体「南部打毬を支援する会」は約10年前、資金面での後方支援をしようと結成。競技当日に境内で募金活動を行っています。2018年、イギリスに遠征して騎馬打毬を披露した際には、9割以上の遠征資金を援助したことも。
競技当日に行う募金活動はこれまで、工藤義治さんを含め2人で活動してきました。南部さんが窮状を呼びかけた今年は、10人前後に。揃いのポロシャツを着て支援を呼びかけました。

例年4~5万円程度だった寄付金やグッズの売り上げは、今年は約50万円に急伸。
「今年はボランティアの人が多かった。今後は役割分担をしてやっていきたい」と工藤さん。「ポロと同じルーツを持つ、日本で3つしかない文化。その中でも八戸は毬杖を使う古いスタイルを守っていることを知ってもらえれば」と呼びかけています。

南部さんとの会話では、グッズを通年で販売する仕組みのアイディアも。支援の輪は着実に広がってきているようです。
8月2日は神聖な日。神社にとっても大切な騎馬打毬。
長者山新羅神社に向かうと、禰宜の柳川泰孝さん、権禰宜の直美さんが出迎えてくれました。2月の「八戸えんぶり」、8月の「八戸三社大祭」という、八戸を代表する二つの祭りの中心地の一つとなる、由緒ある神社です。

騎馬打毬は新羅神社の神様に奉仕(奉納)する「神事」の側面を持ちます。現在の社殿や馬場が落成した1827年から、守られ続けてきました。以前は試合直前に社殿を参拝していた頃もあったそうですが、何かをきっかけに、長年にわたり参拝が行われていなかったのだとか。この関係性の修復にも課題が残ります。
競技当日の8月2日、新羅神社では午前中に「八戸三社大祭」の儀式「献幣使(けんぺいし)参向」が行われます。この日は神職の皆さんにとっても重要な1日で、騎馬打毬はこの神聖な日に行われる行事なのです。
南部さんが「騎手の皆さんが競技の前の参拝を復活させたいと話している。特に若い騎手が神社の格式や伝統を守りたいと言っていることは素晴らしい」と伝えると、泰孝さんは「復活させたいと思っていた。皆さんに並んでもらって、正式参拝してもらえれば」と話し、直美さんも笑顔を見せました。

新羅神社では近年、騎馬打毬柄の御朱印を用意。通年で授与しています。今後に向けては騎馬打毬のお守りの授与も検討中。泰孝さんと南部さんは、来場者から入場料をもらったり、ハンカチやクリアファイルなどを作って物販を強化したりするなど、騎馬打毬やお宮の維持を継続的なものにしていくためのアイディアを共有しました。
新羅神社は八戸の文化を守るシンボリックな存在として地域を見守ってきました。しかし最近は参拝者が減少していると言います。泰孝さんは「昔は子どもたちがよく遊びに来ていた。神社を遊び場にしてもらって、祭りにも参加してもらえたら」と話してくれました。
今は「市民の世」。人的リソース、馬の確保の課題を解き、未来へ
全国各地に根付く伝統文化は、人と人とが世代を超えて支え合う「地域コミュニティー」の上で成り立ってきました。少子高齢化の現在、それまでみんなで分担していた責任や役割が特定の人に重くしかかり、「黄色信号」が点っている地域も少なくありません。そして、コミュニティーの中心地でもあった神社の存在感や大切さへの認識が薄れてしまっている地域もあるかもしれません。

騎馬打毬は、乗馬クラブの後継者の不在、打毬の後継者育成、神社との関係性、地域社会の支援の必要性など多くの課題が残ります。

南部さんと一緒に当事者の皆さんに会う中で、南部さんの「全員の話を聞かないと前には進めない」の思いは、先祖が始めた文化を守り繋ぎ続けてきた人への敬意なのだと感じました。事情を正確に理解しなければ、前に進むことはできないのです。
取材の中である人は「南部さんがいないと話が進まない」「八戸に中心的に動いてくれる人が必要」と話しました。世が世であれば「殿の命」で守られていくことになるのでしょうが、今は時代が違います。

文化は、人から人へと守られ、ある時、次の代へと手放す瞬間がやってきます。
騎馬打毬が2027年に無事200周年を迎え、その後も続いていくかどうかは、当事者と市民が自ら答えを見出さなければならないのです。