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神と人、人と人とを一つに“まつる” 下谷神社宮司の“お祭り”への想いとは!?

神と人、人と人とを一つに“まつる” 下谷神社宮司の“お祭り”への想いとは!?

JR上野駅から浅草通り沿いを歩いて10分ほど。通りに面した大きな赤鳥居をくぐり、真っすぐ進むと、開けた敷地に石造り鳥居が目に入ってきます。その奥にあるのは“下谷神社”。奈良時代に創建され、東京都で最も古い稲荷神社です。

お話を伺うのは現在、下谷神社の宮司を務めている阿部明徳宮司。積み重ねられている膨大な歴史の下、阿部宮司は、いったいどのような想いで神社を運営されているのでしょうか?

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(※以下、文中の「」は全て阿部宮司のコメント)

 

寄席発祥の地、下谷神社 子規の句碑も

下谷神社のはじまりは奈良時代。現在、上野不忍池の周辺にあった村の長が、五穀豊穣を司りお稲荷様として祀られる大年神(オオトシノカミ)・繁栄を司る日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀ったのが由来とされています。

「昔は神主や職員といった制度などはないので、村の長が村の平穏や繁栄を願って何かに向かい祈っていたんです。それは最初は岩だったのかもしれないし、木だったかもしれません。そうやって民衆の内から自然に起こったのが、神道という宗教なんです。」

やがて時は流れ、平安時代。藤原秀郷が平将門追討の際に行った祈願が無事叶ったことから、社殿が建築されたといいます。

当時は“正一位下谷稲荷神社”と呼ばれており、歴史を重ねつつ移動を繰り返し、現在の地へ。神社の名前も明治5年の太陰暦から太陽暦への変更にあわせ“下谷神社”へと改名します。

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下谷神社の境内には、江戸時代に寄席が発祥した地として石碑が建てられています。江戸時代、当時の落語といえば、お城や武家屋敷に呼ばれた落語家が主人と一対一で話を披露する、という上流階級の娯楽。その状況のなか、のちに山生亭花楽(のちの初代・三笑亭可楽)と名乗る馬喰町の櫛職人が下谷神社の縁日に合わせ、一般庶民に向けて木戸銭を取って落語を披露したことで、寄席は庶民の娯楽として急速に広まっていきました。

寄席発祥の地の石碑の近くに建てられているのは、正岡子規の句碑、刻まれている句は〈寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉〉

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「彼は明治27年から、35歳で亡くなる明治35年までの約8年間、台東区根岸に住んでいました。しかし句碑が建つ以前、台東区には子規の痕跡がほとんどなかったんです。子規の痕跡があるのは、彼が俳句の旅で訪れた東北地方がほとんど。そこで当時の台東区俳句人連盟の会長さんが、子規没後100年の記念に『居住していた台東区に句碑を建てよう!』と決意されました。句碑を建てる場所は、神社やお寺など長くにわたって残る場所がいいとのことでしたので、当社に設置されることとなったのです。」

後世に誇れる勇ましい絵を 拝殿天井絵“龍”

現在の下谷神社の社殿は大正12年に起こった関東大震災後の区画整理にともない、昭和3年に現在の地に移り、昭和9年に完成したもの。

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社殿内部の天井には威風堂々とした龍の絵が掲げられています。この天井絵は、近代日本画の巨匠で“朦朧体”という独特の没線描法を確立した横山大観画伯の作品。

関東大震災後、仮社殿を経て社殿新築の際、氏子一同の『後世長く誇り得る如き立派な絵を天井に掲げたい』という願いの下、氏子さんを通して依頼、制作が開始されました。

「拝殿絵に何を描くかは特にお願いせず、先生にお任せしたと聞いています。先生は『この神社は、大年神・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀っているのだから、勇ましい絵がいいだろう』と考えられて、この天井絵“龍”を描かれたそうです。先生が描かれた“龍”は髭が前を向ていて、すごく勢いが感じられるんですよ。」

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大観画伯は下から見上げる絵と横から見る絵は構図が違うといって、当時の書生に何度も脚立へのぼらせて、下絵を天井に貼らせたそうです。

“龍”完成後、画伯へは当時の宮司よりお礼が贈呈されました。しかし、大の酒好きだった画伯は『立派な社殿を造るのにさぞやお金が掛かっただろう。神様のことだからこれはそっくり奉納する。こんなお金持ってこなくていいから、もっと大勢で両手に酒ぶら下げてこい』とおっしゃったそう。その後、宮司をはじめ氏子一同がお酒を手に、画伯の家を訪問し、大勢で大宴会が行われ、これがお礼の代わりになったというありがたい話が伝わっています。

天井絵“龍”は現在、神社の絵馬や、オリジナルの御朱印帳、御守りに用いられています。

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浅草通りに面した大きな赤鳥居も下谷神社の特徴の一つ。現在の地に移動した際に建てられたものだそうで、鳥居の社号額“下谷神社”の文字は、なんと明治時代に活躍した東郷平八郎の書。氏子さんがお知り合いで書いてもらったのだと伝わっているそうです。

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『氏子復興の先駆けとして、まず祭りを復興す』 関東大震災の記録から生まれた想い

大正12年に起こった関東大震災で失われたのは社殿だけではありません。お神輿も震災の被害を受け、お祭りも途絶えてしまいました。

「しかし記録によると、大正15年にはお祭りが行われ、お神輿を担いだといわれています。震災後、間もない時期です。神社は仮社殿、氏子さんたちはバラック小屋暮らし、祭りの復興にもお神輿の再建にも補助金は全くない。そんな状況でも、氏子さんたちが会議を行い『氏子復興の先駆けとして、まず祭りを復興す』と決議され、大正15年にはみんなが一緒になり神輿を担いだといわれています。記録によると家が1軒たつほどの資金が集まり、それを用いて建造されたそうです。」

関東大震災の一連の記録はとても私の心の奥に残っているんです、と阿部宮司。

「“祭り”という言葉にはいくつかの語源があります。そのなかでも、いくつかの物を束ねる“まつる”という意味からきたというものが、私には非常にしっくりと来ているんです。きっと関東大震災直後の氏子さんたちは、力を合わせて復興していくために、まず祭りを再開させたんでしょう。」

大きな災害により分断され、途絶えざるを得なくなった人々の交流。しかし下谷神社の氏子さんたちは屈することなく祭りを再開させ、復興へ力強く歩んでいったのです。

心の奥にある想いの下、阿部宮司は2011年の東日本大震災の際にも復興支援に動きます。

「東日本大震災の際は、支援物資をトラックに積み何度も被災地に向かいました。漁師さんたちに向けて漁船も届け、お社や鳥居も60基近く建てたと思います。」

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「また震災の3年後には東京都神社界に呼びかけ、縁日を持っていました。まだ電気も水も通っていなかったので発電機2代と水1トンを持っていき、東京都の神社職員60名が縁日の売り子となり、現地の宮司さんや総代さんたちと協力して、4つの仮設住宅の人々が一つになれる機会を設けたんです。震災後はじめて再会する人なんかもいらっしゃって……。やって良かったと思っていますね。」

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コロナウイルスの影響で人々が分断されている現在も、阿部宮司の想いの下、下谷神社はさまざまな取り組みを行ってきました。

2021年5月には、感染対策を行ったうえで、本来2020年に行われる予定だった“祭”を開催。“本祭”はこれまでなら、決められた色別の鉢巻を締めた人々が町会ごとに代わるがわる、約8000人が担ぎ、見物人が上野駅までいっぱいになる行事でした。しかし今年は限られた人たちのみが山車の曳き手となり、氏子内を巡行。遠くから見ている人の中には、涙を流して手を合わせるお年寄りの姿もあったそうです。

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コロナウイルスへの対応は境内でも。拝殿に設置されている鈴の緒は、手が触れてしまうことから、センサーのスピーカーに置き換えられています。また手水鉢は、感染対策のため柄杓が撤去され、今では毎月1日に合わせ季節を彩る花々が浮かぶ“花手水”が行われるようになりました。

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「コロナ禍に入ったばかりの2020年4月ごろ、静岡にいる娘の友人の花屋さんがお花が売れないと困っていたんです。そこでそのお花屋さんから大量のバラを仕入れ、手水鉢に浮かべました。とても好評でそれ以来、出入りの花屋さんに頼んで花手水を行っているんです。」

また毎月1日に配布していた月替わりの御朱印も、密を避ける観点からその月を通していつでも受け取れるように変更したといいます。

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「コロナ禍の厳しい状況はまだまだ続いていますが、人々で力をあわせ、乗り越えていければと思っています。」

おわりに

これまで何度もあった分断の危機。下谷神社は“祭り”の想いのもと先陣を切り、交流の絶えない元の日常へと歩んできました。

コロナウイルスの影響で交流の機会が減ってしまった現在も下谷神社は、人々がまた一つになって楽しめる社会を、と様々な取り組みをしています。上野に行った際は、ぜひ下谷神社を訪ねてみてはいかがでしょうか?

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この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター
地域のお祭りやインタビュー、由来を調べるのが好き。いろんなお祭りを知りたいと思っています。

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