日本では古くから各地で祭りが行われてきた。
祭りごとに目的は様々あるが、いずれも地域内の交流を促しコミュニティの帰属意識、連帯感を高めるものとして機能してきたことは言うまでもない。
しかし、現代において、少子高齢化による祭りの担い手不足、産業衰退や人間関係の希薄化による協賛金不足などを理由に、受継がれてきた祭りを維持できず途絶えてしまった祭りやそのような危機に瀕している祭りも少なくない。
祭りの国、日本が直面する大きな課題。
僕たちは今まさにこれからの祭りのあり方について考えるべきときなのだろう。
ヒントを与えてくれるのは被災地・宮城県女川町
今回は、その課題に立ち向かう上で大きなヒントになりうる祭りの事例を紹介しよう。
その祭りは、宮城県女川町で古くより執り行われてきた鷲神熊野神社例大祭だ。
観測史上最大の被害をもたらした東日本大震災。
三陸海岸に面する女川町も、その甚大な被害を受けた町のひとつである。
地方が抱える課題が被災地域では10年早く顕在化していると言われる。
震災による壊滅的ダメージ。そして、安定した仕事を求め若い世代が都市部へと流出。過疎化はより一層進んでいく。
女川町とてその例外ではない。
人口減少率は2010年に比して37%(2015年国勢調査)と、被災沿岸地域でも非常に高水準だ。
しかし、鷲神地区にある熊野神社では不思議なことが起こっている。
震災により祭りは途絶えかけたが、震災翌年から祭りが復活。
以降、祭りの人出は減ることなく、震災以前と同規模以上で毎年執り行われている。
特に驚くべきは、毎年地域外から来るボランティアが祭り運営参加者(神輿の担ぎ手、誘導、炊出し・配膳など)の7割を占めている。
なぜ他の地方よりも課題が先行する被災地で、この祭りは毎年持続発展的に開催できているのか?
その理由を紐解くため、地域内外におけるキーパーソンのストーリーに迫った。
祭りは町の魂。一緒に盛り上げてくれる人たちは皆仲間
まず地域内において鍵を握る人物、鷲神熊野神社氏子総代会祭部会長の岡裕彦さんだ。
東日本大震災で自身も被災し経営していたライブハウスや自宅を失いながらも、地域の人々が気軽に集まって会話できるコミュニティカフェ運営や存続の危ぶまれた女川の伝統芸能「獅子振り」演舞団体「女川港大漁獅子舞まむし」をリーダーとして活動再開させてきた。
女川復興の中心を担ってきた人物だ。
元々彼も子供の頃より女川の地で神輿を上げて育った。
一旦地元を離れた後、2006年に女川へ帰郷してから、祭りの中心メンバーとして運営に携わる。
当時の祭りの規模は全体で70名程。全員地元の人間で運営していたという。
そんな折、状況を一変させた東日本大震災。
岡さんは震災の年をこう振り返る。
「震災の年、神輿はあげず宮司による祝詞だけ行なったんです。もはや祭りの体をなしていなかったが、神にすがりたい思いでした。」
祭りの継続自体ができるかわからない状況。
しかし、翌年から再び神輿は上がることになる。
泥かきなど災害復興ボランティアで訪れていたボランティアに声をかけ祭りに参加してもらい始めたのだ。
「心の復興の一環として祭りをどうしても再開させたかった。」と岡さんは語る。
以降ボランティアの祭り参加者数も徐々に増え、震災前と同規模以上で開催できるまでに至っている。
しかし、神事である例大祭を地域外のボランティアと一緒に運営していくことに対して様々なハードルがあったという。
「最初はよそ者に神輿を担がせおって、と批判がありました。しかし、来てくださる方に復興を支援してもらう中で、ボランティアはよそ者じゃないと地元の人間の気持ちが変化していった。今では地域内外なんて関係ない。みんな女川の仲間なんです。」
また、ボランティアとの関係性を持続発展的なものにするため、岡さんが心がけていることがあるという。
「普段女川に来られない方との心の距離が離れないように情報発信は常に行なっています。そして来てくれた時には魅力あるおもてなしをするんです。これまでは自分たちが支援を受けてきた。今度は自分たちがおもてなしする番だと思っています。関わってくれた人にとって女川を第二の故郷だと思ってもらいたいし、鷲神熊野神社をみんなの神社にしたいんです」
そんな岡さんの話を聞くうち、私は岡さんにとっての祭りとは何か知りたくなった。
岡さんはこう語ってくれた。
「祭りは女川の魂。町は津波に流されたかもしれない。けれど、魂は流されなかった。そして今、たくさんの人達が魂に共鳴して一緒に盛り上げてくれている。僕はそれが嬉しいし、一層自分たちの故郷に誇りを持てるんです。」
仲間として必要としてくれる。だから出来ることを僕はやる
次に女川町の外から祭りに関わり続けるキーパーソン、それがボランティア団体Get Livelyの代表浅野勲さんだ。
Get Lively創設は2011年5月。
東日本大震災後、自分が出来ることから始めようと観光バス会社で勤務する浅野さんは同僚の添乗員らと共にバスを使った物資輸送やボランティア派遣を始めた。
以降、東北の被災地域へ物資やボランティアを運び、自らも足を運んでは出来ることに取り組んできた。
そんな彼が岡さんと出会い女川町へ祭りのボランティアツアーを開始したのは2014年のことだ。
震災前ライブハウスを経営していた岡さんが関わる女川町の子供達へ楽器の寄付を募るチャリティイベントが同年2月に東京で行われた。
結果たくさんの楽器が寄付されたのだが、想像以上の多さに女川町まで輸送できずにいた。
その矢先、手を挙げたのが浅野さんだった。
そして5月、楽器の輸送と同時期に開催される鷲神熊野神社例大祭へのボランティアツアーが行われ、以降毎年例大祭へのツアーが行われている。
現在ではボランティア参加者の半数がGet Livelyのツアーで参加している。
ツアーでは初参加のメンバも見かけられるが、参加者の多くが毎年参加している常連だ。
何が彼らを惹きつけてやまないのだろう?
浅野さんはこう考えている。
「通常、町の外から来た人間に重要な仕事を任せてもらえることは多くありません。特に祭りのような神事に関わるボランティアならなおさらです。ただ、ここ女川町では岡さんをはじめとして皆さんが僕たちを信頼して仲間として様々なことを任せてくれている。その分け隔ての無さがやりがいに繋がるんだと思う。」
実際今年のボランティア参加者もこのように語ってくれた。
「神輿をともに担ぎ、直会も参加する。この深くまで重要な行事に入り込むことで女川の人達を仲間として強く意識した。また会いたくなる」
最後に
儀式的に行われる地域の祭り。祭礼として地域の中で子々孫々に受け継がれていくことが「あるべき」カタチと思われてきた。
しかし、日本の各所で少子高齢化、人口減少が深刻化する中で「べき」論はもはや通用せず、自分たちで新しい祭りの在り方を模索していかなくてはいけない。
女川町鷲神熊野神社の例大祭の在り方は、そんな我々に重要なヒントを与えてくれている。
故郷の魂である祭りを解放し、共感して集ってくれる人間は地域の中だろうが外だろうが同じ仲間として祭りを享受する。
当然、地域外から受け入れる側、地域内へ入り込む側それぞれに相応の覚悟と努力が必要である。
しかしそれが結実した時、祭りは持続発展的なものになっていくのだろう。