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徳川家康と「家康公生誕祭」~なぜ違う?今と昔の徳川家康像~

更新日:2023/1/6 乃至 政彦
徳川家康と「家康公生誕祭」~なぜ違う?今と昔の徳川家康像~

岡崎で生まれた徳川家康を祝う「家康公生誕祭」。家康の両親である広忠と於大の方が練り歩きながら「竹千代縁起米」を配る「家康公生誕祝道中」を中心に12月17~18日と24日に開催されます。

2023年の大河ドラマ『どうする家康』を目前に盛り上がること確実。今回はそんな家康の今と昔の違いを歴史家の乃至政彦さんが解説します(全2回)。

光圀のものだった遺訓

水戸光圀像

徳川家康の遺訓のひとつとされる有名な言葉に「人の一生は重荷(おもに)を負ひて遠き道を越行(こえゆく)がごとし」というものがある。

一度聞くと、もう耳から離れない格言であろう。

ここには人は周囲から責任や期待を寄せられて、これを全うするものという人生観が感じ取れる。家康といえば、忍従の人という印象が強く、それでいて最終的には日本一の成功者となるイメージが強いため、大きな説得力があり、「この人が言うのなら納得できる」と胸に響いてしまう。

だがこれは家康ではなく、水戸光圀の遺訓であることがほぼ明らかになってきた。

もともとこの遺訓は、江戸時代の水戸光圀語録である『人のいましめ』(天保元年[1830])という書籍が初出で、光圀の教えとして紹介された。この遺訓は、これ以前の史料に検出されていないのである。

もし本当に家康の言葉であったなら、光圀の言葉と勘違いされて伝承されたりはしないだろう。

その後、幕末期に池田松之介という旧幕臣が『東照宮御遺訓』という書籍を作った時に、家康の教訓としてこれを書き記し、各地の東照宮に奉納したことで、世間一般に広まったという。

事実と異なる伝説がここに生み出されてしまったわけである。

しかみ像は三方ヶ原と無関係

徳川家康三方ヶ原戦役画像

もうひとつ。徳川家康の「しかみ像」もよく知られている。

元亀3年(1572)12月、家康31歳のとき、三方ヶ原で武田信玄との合戦に敗れた家康は、決戦に挑んだ短慮を反省して自身の姿を描かせたと言われている。

だが、この肖像画がそのように説明されるようになったのは明治時代からのことで、それまでは武神像のポーズをとった厳しい徳川家康の姿を描いたものとして礼拝用に用いられてきたらしい。

武士の世が終わり、そうした扱いがなされなくなると、どうしてこのような複雑な顔と姿勢をしているのかわかりにくくなり、かつまた画像に由緒をつけて保存する気持ちもあったものか、「三方ヶ原で敗れた家康さまが描かせたのだ」ということになったのだ。

関ヶ原合戦前夜の徳川家康

ここで徳川家康の人生および日本の中近世移行期における最大の転機となった「関ヶ原合戦」のイメージが過去と今でどう変わっているか、徳川家康を主軸におくことで、これらを見直してみよう。

まず関ヶ原を起こしたのは家康ではない。

関ヶ原合戦の勝利が家康の運命を大きく変えたことは確かだが、これは家康自身が望んで招いたことではない。

旧説のイメージでは、徳川家康が天下取りの野望を抱き、豊臣家の忠臣たる石田三成がその企みを挫くため、味方を集めて挙兵してこれと戦ったとされている。また、家康は三成嫌いの武断派の支持を集めてこれと対峙したともされている。だが、ここ10年近くの間にこの説は見直され、今ではこの説を支持する歴史研究者はもうほとんど残っていないだろう。

まず最初に知っておくべきことは、五大老の筆頭である家康は、天下を狙わずともすでに天下人同然の地位にあったことである。

天下の「政権」を担っていた家康

豊臣秀頼像

豊臣秀吉は亡くなる前、まだ6歳の息子・豊臣秀頼について、次の遺言を残した。この遺言について『看羊録』(関ヶ原直前まで来日していた朝鮮文官・姜沆の記録)は、秀吉が「家康には、秀頼の母[淀殿]を室として政事を後見し、[秀頼の]成人を待ってのち、政権を返す」ことを命じ、「肥前守[前田利長]には、秀頼の乳人(仮の父)となって、備前中納言[宇喜多]秀家と共に、終始秀頼を奉じて大坂にいるように」と命じたと記している。

さらに宣教師の同時代史料は、秀吉がまだ幼い秀頼に「今後は予を父といわず、家康を父と呼ぶがよい」と遺言したことを記している(ルイス・フロイス『日本史』付録「フランシス・パシオ師の「太閤秀吉の臨終」についての報告」)。

両者の記録が一致していることは偶然ではない。なぜなら日本国内の一次史料『多聞院日記』も、「大閤(秀吉)の書置きがあるため、大坂で秀頼の母(淀殿)が、家康と祝言することになっていた」と書いているのである。

しかし、家康が秀吉から一時的に「政権」を預けられたことはともかく、家康と淀殿の婚姻も、日本の二次史料に書かれておらず、我々にとって馴染みのない出来事であるから、とても驚かされる。

ではなぜ、この婚姻が、二次史料に記されなかったのだろうか。それは、この縁談(淀殿と家康の祝言)が淀殿の拒絶によって破談となり、さらには関ヶ原から15年後、家康が豊臣秀頼を滅ぼして日本全土の支配を完了したからだろう。

当事者たちがこの話を残す理由は何もなく、自然に忘れられてしまう。日本史というのは、「これは後世に残すべきこと」と考える歴史の編纂者が政府内部に常勤して、情勢を観察しながら書き残されていたものではない。寺伝や藩史、家史、民間の歴史研究書(主として軍学者による)などの私的な共同体が、自らの歴史を書き記しただけのものを寄せ集めて、日本史らしき概念を構成してきただけのものである。

いずれも大元はそれぞれ個別の関心と都合で編纂されたものである。だから、(後世の我々から見て)重大な事件であっても、当事者たちが語り継ぐ必要がないと判断した事件は、忘れ去られてしまったのである。

話を戻すと、家康は自分から望まずとも、秀頼の後見人として、豊臣公儀の「政権」を託される立場にあった。

野心家大名の蠢動

毛利輝元

そこへ会津の上杉景勝や安芸の毛利輝元らが家康の政権を覆してやろうと、個別に動き始めていった。

この辺り諸説があるものの、大乱の黒幕は輝元ということで、研究者たちの見解がほぼ一致している。通説では、輝元はこの大乱にあまり乗り気ではなく、三成らに乗せられて傀儡同然の流れで総大将へと押し上げられたようにされているが、実際の輝元は、大坂の奉行衆が家康の弾劾状「内府ちかひの条々」を発すると、安芸の広島城から摂津の大坂城までたった2日で駆けつけている。あらかじめ準備していたとしか思えない迅速さで、秀吉の中国大返し(輝元より移動距離の短い備中から摂津まで7日ほどをかけた)も比較にならない移動速度である。

輝元は大坂を制圧して、西軍の主導権を握ると、豊臣秀頼・徳川家康の「政権」を破壊するべく積極的に動いていた。その狙いは自分が家康の地位に就くことにあっただろう。

家康は、野心満々に天下を取るため、関ヶ原を起こしたのではない。むしろ起こされた側なのである。

関ヶ原以後

関ヶ原古戦場跡の風景 写真/フォトライブラリー

関ヶ原合戦は、徳川家康率いる東軍が勝利した。

だが、「政権」の運営者である家康は、大老のひとりである輝元が徹底抗戦の覚悟を決めて、大乱を長引かされては困るので、「輝元が黒幕ではなかった」という形で手を打つことにした。責任者としてスケープゴートにされたのは、現場指揮官の小西行長・石田三成・安国寺恵瓊である。

こうして関ヶ原は、特に諸方面に顔が効いた三成を首謀者とする物語で固められていく。まさに死人に口なしであろう。

諸藩は自身の御家のため、この手打ちにしたがって物語を再構築していく。関ヶ原合戦では西軍として活躍していた島津惟新(義弘)の陣営が「三成に味方するつもりなど初めからなかった。意見違いもあった。合戦では敵味方関係なく鉄炮を撃った」という普通なら信じられない言い分を通した。そしてそれが、年月の経過と共に事実として認知され、日本人の記憶として定着してしまうレベルになってしまった。

福島正則も、「三成憎しで家康に味方した」と言われているが、これでさえ事実ではない。関ヶ原合戦より少し前の8月22日、美濃長良川で藤堂高虎と黒田長政が、寡兵に出てきた石田三成と島津惟新を撃破して、大垣城へと撤退させた。

この直後、福島正則は味方への書状で「その後、みんなで相談して、明日にはこのまま近江佐和山城を攻めることにしました」と書いている。もし正則が三成への憎悪で動いているなら、西に進路を取っている場合ではなく、大垣城を囲むはずだ。史実の正則は、別に三成の首などどうでもよく、それよりも早く西へ進んで、大坂城の秀頼を保護したかったのである。

二次史料中心から一次史料中心へ

これらのことは、関ヶ原の専門的研究家である高橋陽介先生との共著『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』(河出文庫)という少しトンデモっぽいタイトルの書籍に詳しく書いたので、よろしければ手にとって貰いたい。

なぜここまで歴史の事件が通説から変わってしまうかというと、20世紀ぐらいまでの関ヶ原研究は、江戸時代に書かれた物語(二次史料)を中心に進められており、内容の不確かな逸話(例えば、大谷吉継が裏切り者の小早川秀秋を恨んで「秀秋、人面獣心なり。我死して3年後に祟りをなさん」という名場面など)がそのまま史実として受け入れられ、そういう蓄積の上で関ヶ原のイメージを作りあげてきたからである。

21世紀になると、こうした歴史像に作り話が多く盛り込まれていることが見えてきて、これを排除するため一次史料(同時代の古文書や当事者たちの証言)を中心に見直していくことになった。

すると、二次史料で活写された物語は、ほとんど後世の作り話であることが見えてしまったのだ。

こうして日本史の様々な出来事が現在進行形で、大きく変わりつつある。もちろん徳川家康も例外ではなく、調査が進めばいわゆる「狸親父」のイメージもこれから大きく変じていく可能性がありそうだ。

変わる家康、変わらない家康

ただ、安心してほしいことがある。
家康は小太りのキャラクターが定着しているが、一次史料に準じられる李朝文官の記録『看羊録』にも「[家康は、」慎重で、口数が少なく、体つきはどっしりとしている」とある。これを見ると、家康はやはり太めの体型であったようだ。

それともうひとつ、家康の愛した三河武士は精強だったと言われているが、同書もこれを「その[地の]人[間]は、勇悍なうえ、戦し上手でもあるので、どの国も[戦いをいどんで]鋒(きっさき)を争うようなことはなかった」とある。これも伝統的解釈と一致している。史料の見直しがあっても変わらないところはちゃんとあるのだ。

大河ドラマが始まると、対象の研究が急速に進むことがある。令和5年(2023)の「どうする家康」から新たな家康像が掘り出されることに期待したい。

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この記事を書いた人
歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

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