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織田信長と「ぎふ信長まつり」~「岐阜城」と「天下布武」を名付けた織田信長~

更新日:2022/10/25 乃至 政彦
織田信長と「ぎふ信長まつり」~「岐阜城」と「天下布武」を名付けた織田信長~

岐阜のまちづくりに貢献した織田信長を称える祭り「ぎふ信長まつり」。1953年(昭和28)の春、信長の「稲葉山入城四百年」を記念し、伊奈波神社の例大祭「岐阜まつり」に花を添える形で行われた武者行列が始まりです。このとき披露されたのが、信長をはじめ、十数人の騎馬武者に鉄砲隊など、200余人による絢爛豪華な行列でした。

その4年後、秋まつりとしての「ぎふ信長まつり」が誕生。3年ぶりに11月5日と6日に開催される今年は、映画「THE LEGEND & BUTTERFLY」(2023年1月27日(金)公開予定)の公開を記念し、織田信長役として木村拓哉さん、出演者のひとりである伊藤英明さんも参加が決定。そんな信長の岐阜とのゆかりや濃姫について、歴史家・乃至政彦さんに伺いました。

織田信長、美濃に入る

ぎふ信長まつり 信長公騎馬武者行列 写真提供=ぎふ信長まつり実行委員会

永禄10年(1567)、尾張の織田信長は美濃稲葉山城を制圧した。

過去に信長は、信長本妻の実父である斎藤道三から美濃を贈り遣わすとの譲状を受け取っており、美濃併合の大義名分を得ていたとされている。

道三が信長に譲状を書き送ったのは、実子の斎藤義龍に殺害される数日前のことで、この時道三は「私は明日の一戦で五体満足ではない身で成仏することになるだろう」と、別の息子に宛てて述べている(弘治2年[1556]4月19日付遺言書)。

実際この翌日、道三と義龍は長良川で合戦した。惨敗して生捕りにされそうになった道三は激しく抵抗したが、足を斬られて転倒し、首を打たれた。

仁義なき父子闘争を解決しようと援軍に駆けつけた信長だったが間に合わず、急ぎ集めた精兵を守りながら撤退した。

その後、信長は10年以上をかけて美濃攻略戦に注力した。その間、桶狭間合戦という転機を迎えて、武名を天下に知らしめている。

その熱意と将来性は大きな輝きを放っていた。

それまで美濃は、斎藤道三が下克上により国を獲り、守護である土岐一族を手玉に取るなど、不幸な出来事が続いていた。しかも道三は自らの息子に殺害され、他国に向かって胸を張れるような状態ではなかった。

このため美濃の武士たちは終わりなき不毛の抗争に疲れ果てていたのか、信長の存在に希望を見出したらしく、最終的にはその侵攻に呼応する者が続出した。信長には、道三の遺志を継承するだけでなく、足利幕府を再興するという大義もあった。

したがって信長が道三・義龍・龍興(義龍の息子)の拠点であった稲葉山城を占領して、そこを新たな拠点と定めてから、美濃はようやく平和と大義を取り戻したのである。

その居城を訪ねたフロイスは、信長が家臣たちから絶対者のように恐れられ、室外の者を1人呼んだだけで、100人が応答するほどだったと記録している。

岐阜改称

岐阜城 写真/フォトライブラリー

拠点を移したばかりの織田信長は、稲葉山城の改称を希望した。

近世の史料『安土創業録』によると、信長と親しい六三歳の老僧・沢彦宗恩(臨済宗妙心寺派)が「岐山・岐陽・岐阜」を提案して、信長にこの中から選ぶよう伝えた。これらは「中国の周の文王が岐山に起ち、天下を定む」の故事に由来する名称だという。信長は、二〇〇〇年ほども昔の異国の王都に擬える地名改変を献言されたのである。

ただ、周の文王が首都としたのは「岐山」であって、「岐阜」ではない。岐阜というのは、岐山の「山」を古典で小山や丘を意味する「阜」に改めた文字である。

古典の文字に詳しい禅僧たちが信長の気風に合う貫禄ある名称を懸命に考えたのであろう。

また、信長は同時期に「天下布武」なる文字の印判を使い始める。

天下布武の印判

《天下布武》(織田信長印判:近代デジタルライブラリー『集古十種』[印章二])国立国会図書館

この文字は、沢彦に「布武天下」の四文字を提案された信長が工夫を加えて「天下布武」に定めたものだと伝えられている。

ところでこの「天下布武」には「天下に武を布く」という読み方で「日本を我が武で染めてやる」と宣言したものとする解釈と、戦国時代の「天下」は畿内と同義に使われていた用例が多いことから「畿内に幕府を復興させる」ことを宣言したものとする解釈の2説が主流となっている。

ただ、政治的スローガンを印判に刻むことは当時の感覚として考えにくく、上杉謙信が印判に獅子をデザインしていたり、軍神の名前を施していたりしていたのと同じで、単純にカッコよさそうな文字を好んで選んだと受け止めるのが妥当に思われる。

信長の息子たちが「一剣平天下」「威加海内」の印判を使っていたことを思えば、難しく考える必要などないことに気づかれよう。

信長のこうした高い気概と理想が、尾張のみならず美濃の人々の心を惹きつけ、その基盤を支えたのではないだろうか。

外国の有名な名言として次の言葉がある。

「思考に気をつけなさい。それは言葉を決めますから。
言葉に気をつけなさい。それは行動を決めますから。
行動に気をつけなさい。それは習慣を決めますから。
習慣に気をつけなさい。それは性格を決めますから。
性格に気をつけなさい。それは運命を決めますから」

信長は美濃を併合したとき、独自の感覚で「岐阜」「天下布武」などの言葉で、自身のステータスを飾った。この言葉は、信長の思考から生まれ、その行動を作り、習慣を定めていき、性格を育てて、運命を決定づけたと言える。

ぎふ信長まつりでは、そんな英雄の残響に接することができるだろう。

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祭り開催情報

名称 第66回ぎふ信長まつり
開催場所 岐阜県岐阜市
岐阜市 中心市街地一帯(JR岐阜駅北口~柳ケ瀬~若宮町)
開催日 2022年11月5日(土)、2022年11月6日(日)
主催者 ぎふ信長まつり実行委員会
アクセス JR「岐阜駅」から徒歩10分~15分
関連サイト https://www.city.gifu.lg.jp/kankoubun...
https://gifunomatsuri.jp/nobunaga/nob...
この記事を書いた人
歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

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