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聖徳太子の十七条憲法の条文が記される法隆寺の御朱印
全国各地の神社や寺院では参詣の記念に御朱印を頂くことができます。朱印帳に訪れた神社や寺院の御朱印が並ぶと、貴重な思い出となり写真とは趣の異なる味わいが滲み出てくるものでしょう。
古都奈良に聖徳太子が建立した法隆寺では日本初の憲法、十七条憲法の第一条冒頭の「以和為貴」が記されます。聖徳太子の「和を以って貴しと為す」の願いを、現代にも伝えたいというメッセージといえるでしょう。この御朱印は金堂や五重塔を囲む回廊の東に建つ聖霊院で頂くことができます。
聖徳太子が607年前後に創建した法隆寺
法隆寺は奈良県生駒郡斑鳩町に、607年前後に聖徳太子が創建しました。ところが、670年に全焼してしまいます。間もなく再建が進められ、奈良時代の初頭までに飛鳥時代の様式で西院伽藍が復興されました。世界最古の木造建築群として広く知られています。西院伽藍の入口は中門です。入母屋造りによる四間二戸の二重門で、軒が深く覆い被さる姿が特徴的です。
中門の北には廻廊が巡らされ、金堂や五重塔を大切に守っているかのようです。
世界最古の木造建築が建ち並ぶ西院伽藍
廻廊に囲まれた敷地の東寄りに建立されているのが金堂です。入母屋造りの建築様式が用いられ、二重の瓦屋根と下層の板葺きの裳階(もこし)は、視覚的な変化を与えるばかりでなく、安定感のあるバランスを感じさせてくれます。
金堂の西には五重塔が並び建ちます。空に向かって積み上げられた5つの楼閣は、下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)の世界を示し、仏教的な宇宙観を表しています。
金堂や五重塔の北の大講堂では、990年に入母屋造りで復元されて以来、大勢の僧侶が研鑽を重ねたことでしょう。
739年頃に蘇った東院伽藍
法隆寺は670年の全焼後、いち早く西院伽藍が復興されました。これに対し聖徳太子の斑鳩宮の跡地であった東のエリアは再興が遅れてしまいました。ところが、奈良時代には行信僧都が739年頃、夢殿を復元し東院伽藍が蘇ったのです。西院伽藍の玄関口の東大門に隣接する八角円堂には、聖徳太子ゆかりの遺品が納められています。
法隆寺は西院伽藍と東院伽藍のエリアに大きく分かれていますが、寺院の正面玄関に建つ総門が南大門です。1438年に再建された三間一戸の八脚門を潜ると、まっすぐな石畳みの参道の先に、シンボルタワーの五重塔が見えます。
1400年の歴史を繋ぐ法隆寺では一年を通して様々な年中行事が行われています。聖徳太子の祥月命日の3月の「お会式」の他、2月の「西円堂修二会」では鬼追い式が行われます。西円堂の基壇上に黒鬼、青鬼、赤鬼が松明を投げた後に、毘沙門天が現れ鬼を追い払うのです。
正岡子規の俳句に因むご当地グルメの「柿の葉ずし」
南大門の南には約360メートルの松並木が続きます。松並木の両側には土産物店や食事処が軒を連ねます。法隆寺には創建以来、数え切れない人々が参拝に訪れています。明治時代には正岡子規が訪れ、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の俳句を詠みました。法隆寺周辺では奈良県のご当地グルメの「柿の葉ずし」の店も数多く建ち並んでいます。酢飯に鯖や鮭などの切り身をのせ柿の葉で包んで押した寿司は、200年を超えて奈良で受け継がれる郷土料理です。
奈良県の斑鳩町の法隆寺の御朱印には、日本初の憲法の文言が記されます。寺院の西院伽藍には、世界最古の木造建築群が建ち並びます。