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「二の舞」「拍子抜け」…語源は舞楽にあった?! 遠州に春を告げる天宮神社例大祭 十二段舞楽奉納

「二の舞」「拍子抜け」…語源は舞楽にあった?! 遠州に春を告げる天宮神社例大祭 十二段舞楽奉納

静岡県森町は「遠州の小京都」と呼ばれ、古くから東西南北の交通の要所として栄えた町です。この森町には対で祀られた神社があり、それぞれ小國(おくに)神社と天宮(あめのみや)神社と呼ばれています。

天宮神社の祭礼では、1300年継承され続けている十二段舞楽(国指定重要無形民俗文化財・昭和57年指定)が奉奏されており、小國神社の唐楽(からがく/左方舞・赤装束)に対して、天宮神社は高麗楽(こまがく/右方舞・青装束)で両社の左舞右舞のそれぞれを今に伝えています。

この記事では、遠州に春を告げる桜が咲き誇る4月の第一土日に行われる天宮神社例大祭での十二段舞楽を紹介します。

そもそも舞楽とは…?

本題に入る前に、そもそも舞楽(ぶがく)とは何かについて確認しておきましょう!

舞楽とは、雅楽を伴奏にして踊る舞のことです。唐楽を伴奏とするものを左方または左舞,高麗楽を伴奏とするものを右方または右舞と言っています。

今回ご紹介する天宮神社例大祭の十二段舞楽は、「右方、右舞」に当たります。十二段というのは、名前の通り十二通りの舞があるということですね。

 

天宮神社と十二段舞楽について

天宮神社は、欽明天皇の頃(約1500年前)に小碓命(日本武尊)の後裔太田の君、守の君の氏族が先祖の遺跡を訪ねてこの地を開き、筑紫の国宗像の御神霊 宗像三女神を迎え鎮座したのに始まります。奈良時代より前のことですから、かなり古い歴史があることが分かりますね。


神社に舞楽が伝わったのは、慶雲2年(705年)に文武天皇勅願により社殿等の造営がなされ、京から藤原綾足が神官として着任した時といわれてます。
社殿は室町時代に焼失し一時衰退をしましたが、徳川家康公によって社殿が造営され、その後徳川綱吉公の命により、遠州横須賀城主の西尾忠成公を奉行に幕府の直参棟梁の甲良豊前宗賀によって完成したのが現在の社殿であるといわれています。

[天宮神社社殿と境内の桜]

[御神木の竹柏(なぎ)]

十二段舞楽を舞うのは…?

十二段の舞は六段ずつ子ども舞と大人舞で構成され、2日間に渡り行われます。両日ともに午後3時半から拝殿向かいの舞殿で奉納されます。

舞を奉納するの子どもたちは「舞子(まいこ)」と呼ばれ、天宮地区各町内から選出されます。

・稚児4人(小学校2・3年生男子)

・太刀(太平楽)4人(小学校5・6年生男子)

・乙女(岩戸乙女神楽舞)4人(小学校2・3年生女子)

・浦安舞4人(小学校6年生女子)

大人の舞人は天社轂(てんしゃこく)という祭青年団の若者から選出されます。天社轂は、天宮神社の例祭で神事以外の祭事一切を取り仕切り奉仕する若者の団体で天正17年(1589年安土桃山時代)の創設です。

[天宮神社拝殿と舞殿]

 

[舞子の子どもたち]

一番~五番は神仏への供養の舞

一番の舞は「延舞(えんぶ)」

稚児の男児が鉾を手に天地・八方・舞台を祓い清め舞楽の開始を告げます。

天地の神、先祖の霊を祀り清める舞です。


[延舞]

 

二番の舞は「色香(しきこう)」

大人の二人舞で、古くは菩薩と呼びました。菩薩の面を着け、日輪・月輪を背負い舞います。

[色香]


三番は「庭胡蝶(ていこちょう)」

稚児の四人舞。

極楽浄土の蝶が舞い遊ぶ様を現します。

「庭胡蝶」


四番は「鳥名(ちょうな)」

この舞も稚児四人舞です。

迦陵頻という幻の美しい鳥が舞う姿を現します。

「鳥名」


五番は「太平楽(たいへいらく)」

小学校五5・6年生の男児が鉾と太刀を持ち4人で舞います。

天下泰平・五穀豊穣・平和であることを祈り、鉾・太刀で舞鎮めます。
舞の終盤、「太刀の一人舞」が舞われます。

「太平楽」



[太刀の一人舞]

六番~十二番は観衆の娯楽の舞

六番は「新靺鞨(しんまか)」

稚児の四人舞。笏を手に舞始めます。舞の途中で舞台中央に笏を放り投げる所作が珍しい舞です。笏のことを「へら」と呼びます。靺鞨とは中国東北部の部族のことです。

[新靺鞨]


七番は「安摩(あま)」

大人一人舞。蔵面(ぞうめん)という紙で作った面をかぶり海人族の精霊舞です。

楽は鉦と太鼓のみ、途中で鉦も太鼓も使わない「拍子抜け」と呼ばれる無音の舞が有ります。


[安摩]

 

八番の舞は「二の舞(にのまい)」

安摩と番舞。じいさ・ばあさと親しまれている舞です。安摩の舞を真似て舞おうとするが、上手に舞えない様子を滑稽に舞います。

人の真似をしようとするが上手くいかないことを表す「二の舞を演じる」ということわざはこの舞が起源です。


[二の舞]

九番は「陵王(りょうおう)」

本来は蘭陵王と呼ばれます。金色の面と龍の被り物を付け桴を持ち,雄壮荘厳な舞います。

こちらの舞は「陵」の字を書きますが、当地では「龍」の字を書いて「龍王(りゅうおう)」とも呼ばれています。

龍は雨を呼ぶと伝えられ、天宮神社の「天」は「雨」と言われています。これは、降雨がほど良いことを祈る宮で、近くを流れる太田川の水利水運信仰は天宮信仰(宗像信仰)そのものです。


[陵王]

 

十番は「抜頭(ばとう)」

稚児の一人舞。

日曜には舞の途中から酒樽を担いだ酔っぱらいの男と黒紋付きを着た男が登場し、さらってしまいます。すると白衣姿に着替え、手拭いを絞りこんで作ったムチを手にした他の舞子たちが舞殿に登場し、男たちと争い大騒ぎをします。

[抜頭]

 

座頭坊(ざったらぼう)とは「昔、稚児が一人で舞っていると、あまりの見事さに人さらいがさらっていってしまったので,稚児たちが大騒ぎをした」という話を舞殿で行います。

[座頭坊(ざったらぼう)]

十一番は「納曽利(なそり)」

陵王と番舞。「笛の狂いは舞人を苦しめ、舞の躓きは笛方を困らせる」と言われるほど、舞人と楽人の息を合わせるのが難しい舞です。

[納曽利]

 

十二番は「獅子(しし)」

貴徳と呼ばれる獅子伏せと獅子役二人で舞い、悪霊調伏と五穀豊穣を祈ります。貴徳は獅子との格闘中、鼻をかんでさの鼻紙を舞殿下へ撒きます。その鼻紙を拾うと一年間無病息災に過ごせると伝えられています。

貴徳が獅子を伏せた後、笛を吹いて獅子を甦らせ、獅子は感謝の八方舞を舞います。格闘する場面では、じゃれあってるようにも見えます。

[獅子]

 

舞楽とは別の舞も…室町時代から伝わる乙女舞

天宮神社には岩戸乙女神楽舞(いわとおとめかぐらまい)と呼ばれる十二段舞楽とは別の舞が伝えられています。天文12年(1543年)の古文書に「乙女」との表記が残っているため、その時代にはすでに舞われていたものと考えられます。この舞は数え年9歳の女子が御幣と鈴を手に舞います。この舞は弊殿・拝殿・お仮屋で舞われます。

[弊殿での岩戸乙女神楽舞]

 

浦安舞は皇紀2600年を記念して昭和15年(1940年)に作られ、奉祝式典の中で世界平和の祈りを込めて一斉に奉奏されました。今では全国の神社の祭礼で奉奏されますので、見たことがある方も多いのではないでしょうか。もしかすると舞ったことがある方もいるかもしれませんね。

[お仮屋での浦安舞(この年は三人舞)]

舞子返しは天宮神社が発祥の地?

2日目の舞の奉納後、拝殿前に集まった若衆 天社轂(てんしゃこく)が2日間神の子として舞を奉納した子どもたちを親元へお返しする舞子返しが行われます。

本来は若衆の肩車で町を練り歩き自宅まで送り届けていましたが、現在では簡略化されて境内の桟敷席で待つ御両親へお返しします。

 

岩戸乙女神楽舞と舞子返しの儀式は、11月に行われる三島神社大祭「森のまつり」にも取り入られ、現在では近隣の祭典でも取り入れられています。

[舞子返し(まいこがえし)]

十二段舞楽の継承

天宮神社十二段舞楽保存会が舞の継承・指導と後継者育成のために組織され、舞の指導、例大祭での楽人・衣装方等を務めています。伊勢神宮式年遷宮奉祝行事・厳島神社・宗像大社・鶴岡八幡宮・四天王寺・上海万博・国立劇場などで舞楽奉納や上演をしています。

 

天宮神社十二段舞楽は、都から伝えてられてから1000年を超す長い伝統と歴史があります。このような長い間、絶えず継承するというのはどんなにか苦労があったことでしょう。子どもの頃から慣れ親しんだお祭りと舞ですが、このような素晴らしい舞を継承し続けてくれた先人たちに対し、感謝の念に堪えません。

まとめ

「舞楽」と言ってもあまり馴染みのないように感じますが、実は日常生活で使う言葉の語源になっていたり…と、身近なものであることが分かりましたね。

1000年を超える歴史をもつ、十二段舞楽と天宮神社。「遠州の小京都」と言われる街並み散策と合わせて楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

インフォメーション

名称 天宮神社例大祭 十二段舞楽
開催場所 静岡県森町天宮576
天宮神社
開催日 2019年4月6日(土)~2019年4月7日(日)
毎年4月第一土曜日、日曜日。
アクセス 天竜浜名湖鉄道 戸綿駅 ・遠州森駅から徒歩30分、
JR東海道本線 袋井駅から秋葉バス 遠州森ターミナル徒歩10分
関連サイト https://morimachiamenomiyajinjya.jimd...

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