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京都「橋本遊郭」全国でも希少な妓楼が残る地域
京都といえば世界に誇る舞妓さん。そういった芸事を披露する芸妓さんのいる花街と別に、昔は一般庶民の男性たちが娼妓と遊ぶ遊郭という場所がありました。
五条楽園や伏見の中書島、撞木町(しゅもくちょう)にあった遊郭ですが、昭和31年に公布された売春防止法により飲み屋や旅館へ業態変更。そして時代は令和になり、老朽化から解体される建物が増えてきています。
そんな中でも橋本遊郭は最盛期の昭和12年には貸座敷が86戸、芸妓3名、娼妓675名が在籍した場所。今もなお妓楼が残っているという希少な地域です。
地名の由来は、奈良時代の725年に僧行基が対岸にある山崎から「山崎橋」という橋をかけたため「橋本」という名前がついています。(※淀川の氾濫により流されたため現存していません)
江戸時代には大阪と京都を三十石船の客船が通り、宿場町や石清水八幡宮の参詣口として栄えていました。しかし時代とともに船は鉄道へと変わり、現在は駅前に古い食堂が一件あるだけ。どことなくうらさびれた様子が漂っています。
橋本駅から西側に少し歩くと、京都市内で見るシンプルな美しさの京町家とは違う、装飾が施された古い建物があちこちに立っています。窓にはステンドグラスや欄間、壁や床には近代美術工芸の「泰山タイル」と華やかな場所であった痕跡がみてとれます。
レトロモダンな「橋本遊郭」に潜入!
遊郭の中はどんな風になっているのだろう…。と興味はあったものの、元とはいえ遊郭に足をふみいれてよいものなのか少しとまどいます。今回は橋本地区で現存する最古の妓楼建築「旧第二友栄楼」と「旧三桝楼」の見学ができるということで行ってみました。
この2軒のオーナーはどちらも同じで、中国出身の政倉莉佳さん。建物を案内していただきながら、様々なお話を伺いました。
旧三桝楼を使用した「橋本の香」は、マッサージや火療、素泊まりができる建物になっています。
※公式ホームページより予約が可能です。
欄間やタイル、ステンドグラス…と高級感を漂わせるアイテムは色々とあるけれど、どこか庶民的。これは電気がない時代に色とりどりの華やかさと非日常の演出のための装飾です。
老朽化から妓楼を潰そうとすると数百万(※規模による)もするのだとか。直すとなるとこれまた大変…!今はもう作っているところがない手作りのガラスやタイル、特殊な形状の唐破風や欄間の修繕費でとんでもないことに。
例えば欄間。淀川に浮かぶ当時の船や、千客万来を願った鯉(※「来い」だそうですが、一晩の「恋」だったのかも。)、回転率があがるようにと水車が描かれていたりします。
しかしオーナーはすごい。「歴史的に消したい、風化させたい気持ちもわかる。けれど建物は悪くない。」と「築120年の妓楼をカフェに」というクラウドファンディングを行い、極力、当時の姿を再現するようにリノベーションを行っています。
元妓楼「旧第二友栄楼」が中国茶カフェ「美香茶楼」に!
こうして2021年12月28日に中国茶のカフェ「美香茶楼」がオープン。床が踏み抜けそうなほどボロボロだった建物が綺麗に片付いています。元の建物の持ち主も「これなら戻って住みたい」というほど綺麗になりました。
2階の一部の部屋は中国風やエジプト風に改装した部屋もあり、そこでは身体に優しい中国茶をゆっくり楽しめます。
お茶をいただきながらオーナーにお話しを伺ったところ、最近は橋本で妓楼の取り壊しや売却の話があると、相談を受けることも多いのだとか。老朽化が進み、売却しようにも妓楼は大きすぎて住宅用に転用がしづらいため大変なのだそうです。今後はレストランやレンタル着物のお店にして、石清水八幡宮までの参拝を楽しんでもらえたらと考えているとのこと。寂しい雰囲気の橋本が、一歩ずつ再生していっているのを感じる瞬間でした。
橋本ぶらり散歩
地元を紹介する「まいまい京都」でも「橋本遊郭ツアー」が大人気。
現在は応募の5倍もの予約希望があるというほどの人気です。
実際にツアーに参加してみたところ、うらさびれて見えた橋本遊郭がガイドさんによる解説で当時の様子が分かり、本当に目から鱗でした。
橋本地区に住むガイドの奥西さんや、全国の遊郭に詳しい正脇さんによる解説を一部紹介すると
「遊郭は『公娼(公に営業を許された娼婦)』なのでパチンコなどにいくのと同じ。夜は遊んでここから出勤していく『男の波』が満員電車の中のように人が移動していきました。遊郭があるのは本当に橋本駅の周辺だけ。そこから先は『仕舞屋さん(一般の人のこと)』です。」
「橋本湯では500〜600人の遊女たちがお風呂に入ってから化粧をします。
中は遊郭からプレゼントされたベンチが並んでいたり、色っぽい作りになっていました。」
「遊郭の一階では遊女たちが張り店をして、『ひっこさん(遣り手ババ)』が暖簾を開けて2階の案内場(相談室)にお客を呼び、それから遊女の部屋へいきます。部屋は楼主が遊女に貸していました。だいたい3.5畳ほどで押し入れはありません。
男女がいる部屋は広くても意味はなく、小さな部屋で十分でした。また区切ってはありますが防音は皆無です。二間続きの大きな部屋は男性客が仲間と食事や小宴会をする場所です。」
特にガイドさんの言葉で心に刺さったのは
「遊郭から花街ができた。当時は遊女たちがファッションリーダーや文化をリードしていました。江戸時代になり、色ごとと文化が芸者と娼妓に分離し、検番は遊女にならないようにと置かれました。有名なレストランも元は遊郭だったところもあります。売春防止法で遊郭がなくなったあとの八幡市の税収は1/3になりました。地域にも大きく貢献していたんです。」
という言葉です。
そしてもうひとつ心に残った言葉は
「橋本は元遊郭ということで、違和感から引っ越しする人もいます。どうしても遊郭は売られて来た貧しい人たちがかわいそうという話やイメージが大きい。しかし当時は貧しい人たちが生きていく糧でもありました。私は子供の頃に親が楼閣をしていたため、結婚もできず、人生に翻弄されました。」
というもの。
こういったなかなか聞くことのできないお話を現在も住んでいる人から直接、生の言葉で聴けるというのはとても貴重な体験でした。
あらためて橋本駅の立地を地図で見てみると、京都の桂川、宇治川、木津川と三つの川が、大阪の淀川に合流する地域。船が主流だったときは交通の要所で宿場町としても栄えたというのもよくわかります。
橋本駅の西側は不夜城であった楼閣が残るエリア。東側は山の斜面にびっしりと家が立ち並んでいます。橋本の隣の樟葉(くずは)駅からは大阪で、ショッピングモールが立ち並ぶ都会です。
この地図は地元の女性イラストレーターが描く『京のやわた企画展「橋本ぶらり散歩」』と、橋本を元気付けるイベントで展示されていたもの。
老朽化した妓楼を、やさしいタッチで綺麗な姿だったときの状態で描かれていたのが印象的でした。
橋本地域は現在もお住まいの場所も多く写真を撮るのは少し気が引けたため、絵で見るというのは良いなと感じます。
次項では橋本エリアのお祭りをご紹介いたします。
石清水八幡宮 摂社 狩尾社(とがのおしゃ) と四社の例祭
石清水八幡宮の境外摂社の狩尾神社は重要文化財にも指定されている最古の社殿です。徳川家康の側室「お亀の方」が本願人。
現在では地元の人は「プリン山」と呼ぶ小高い山の上に狩尾神社があります。
下から見上げると急な階段には「うっ」と思わずにはいられません。が、右側に車用の道もあり、ゆっくりと登って上から橋本の町を眺めてみるとまるで「君の名は。」のような景色が広がっています。
この狩尾神社では2021年11月から2023年10月まで御本殿と拝殿の改修工事が行われます。
今回は改修工事が行われる最後のお祭りがあると教えていただきやってきました。
毎年10月25日の例祭「狩尾社祭」では通常、子供みこしが行われます。
珍しいのは狩尾神社のほかに橋本地区にある稲荷神社、和気神社、猿田彦神社と四社が同じ日にお祭りを行うこと。
「歩きだと回るのは大変だよ」と伺っていましたが、時間的に回れそうなので挑戦!
最初は稲荷神社から。8時に神事が行われます。
次に8時半から和気神社で神事が開始。
9時からは猿田彦神社。ここまでは神職も同じ方で、車で移動されていました。
部屋の中にはお神輿が鎮座。来年はまた地域の人がこのお神輿を担げますように…。
そして最後は狩尾神社。
到着すると石清水八幡宮の神職が舞殿の中でいそいそとお祭りの用意を進めていました。小さな境内にはかなりの人が集まっており、早くから来てお祭りを待ちわびている様子が伺えます。私が大きなカメラを持っていると「普段は湯立神事や子供みこしも出ているよ」と気さくに声をかけてくださり、地域で大切にされているお祭りだと改めて感じました。
10時になり、いよいよお祭りの開始。祝詞奏上のあと、浦安の舞が奉納されました。
この浦安の舞は前半は扇を使う「扇舞」、後半は邪気を払う鈴を使った「鈴舞」の二部構成になっています。
日本書紀によるとイザナギノミコトが「日本は浦安の国」と言い、「浦」は「こころ」、「安」は「安らぎ」を表しているといわれています。
「浦安の舞」は平和を願う巫女舞。まさにコロナ禍に最適な舞と感じます。
雨の中でも小さなお社にたくさんの人が集まり、地域に愛された神社だと感じます。美しく生まれ変わる姿を見る日が楽しみです。
橋本地区の氏神様、どうぞこれからも橋本の発展をお見守りください。