国の重要無形民俗文化財に登録されている「弘前のねぷた」と「青森のねぶた」は青森県を代表する夏祭りです。全国的な知名度がある「青森ねぶた」と比べ、「弘前ね“ぷ”た?ね“ぶ”たじゃないの?」といった疑問を持ったことも少なくないのでは? 今回は「青森ねぶた」と「弘前ねぷた」のどちらも深く知る元県立郷土館の学芸員・成田敏さんに「ねぷた・ねぶた」の違いや歴史について聞いてみました。
1.ねぷた?ねぶた?どっち?
「“ぷ”か“ぶ”かは過去の歴史資料も使い方が統一されてないため、未だ論議の争点になる」と明かす成田さん。
「ねぷた・ねぶた」が初めて歴史に登場したのは、今から300年ほど前の1722(享保7)年。弘前藩庁「お国日記」の中に「祢(ね)むた」「祢ふた」「祢ふた流し」と3つの表記が登場し、すでに統一されていませんでした。理由は口語がねぷた、文語はねぶたと使い分けていたといった説がありますが、正確には分かっていません。
▲取材に応じていただいた成田敏さん
弘前出身で「ねぶたの歴史」の著書で知られる藤田本太郎氏は、「ねむた」から「ねぶた」、そして「ねぷた」に変容していったとし、刊行物に「ねぷた」の語が登場したのは明治以降。一般的に使われるようになったのは戦後と、その著書で指摘しています。また、成田さんによるとねぷた(ねぶた)は「侫武多」など漢字の当て字がよく使われ、この当て字には約10種類もあり、ますます分かりにくくしていると言います。
▲五所川原立佞武多は武を漢字に使い、「たちねぷた」と読ませている
「『弘前ねぷたまつり』は過去に『ねぶた祭り』とポスターで表記したり、青森では『港まつり』の中で『ねぶた』が行われていましたが、そのポスターには『ねぷた』と表記したりするものがありました。昭和30年代になって両市とも観光目的で名称の統一が始まります。1957(昭和32)年、弘前では『弘前ねぷたまつり』と名乗り、青森でも翌年に『青森ねぶた祭』としました。そして、1980(昭和55)年には『弘前のねぷた』『青森のねぶた』として国の重要無形民俗文化財に登録。それぞれの名称が確立していきました」と成田さん。
しかし、青森市民たちの中には今でも「ねぶた」ではなく「ねぷた」と話すことが多く、無意識に使い分ける人もいます。「ねぷた」と「ねぶた」の違いには関しては、青森県民でもうまく説明ができない難しい問題だったようです。
2.ねぷた=扇ねぷた、ねぶた=組みねぷた?
「弘前ねぷた」と「青森ねぶた」の違いをわかりやすく説明する際に、立体的な人形の灯篭「人形ねぷた(弘前では組ねぷたという)」が出るのは「青森ねぶた」、ねぷた絵が描かれた扇型の灯篭「扇ねぷた」が運行するのが「弘前ねぷた」と話します。ところが成田さんによると、この説明は本質でないと言います。「弘前でもかつては人形ねぷたが多数運行されていましたが明治になって扇ねぷたが出現し、次第にこれが増加していきました。青森では「人形ねぷた」をずっと継続されていました」。
とはいえ現在、「青森ねぶた」は人形ねぷたであり、「弘前ねぷた」は扇ねぷたが中心。成田さんは「なぜ弘前では扇ねぷたが主流になっていったのか。諸説あるとした上で成田さんは、経済的な理由をその要因に挙げます。
▲人形ねぷたがメインの青森ねぶた。ワ・ラッセでは運行を終えた人形ねぷたが展示される
人形ねぷたや扇ねぷたの製作費は、目安として人形ねぷたは400~500万円、扇ねぷたは50万円程度。人形ねぷたの方が約10倍も高く費用が掛かると言われています。青森ではその製作費を、企業からの協賛もしくは企業が運行団体になることで解決させましたが、弘前は町会単位で運行していたため、組ねぷたを作り続けることが困難となります。そこで扇ねぷたが増えていきました。
「祭りは本来、地域のコミュニティが基盤となって行われるもの。しかし、青森は祭りを観光コンテンツにしたことで、企業を母体とした運行団体が増えていきました。一方で、弘前は伝統的な地域のコミュニティである町会単位の運行団体を守り続けます」。
▲扇ねぷたが前ねぷた、本ねぷたが組ねぷただった弘前の運行団体の写真。明治・大正時代の貴重な写真(絵葉書より)
扇ねぷたの場合、毎年骨組みから作っていく人形ねぷたと違い、骨組みは残し再利用可能。ねぷた絵はねぷた絵師に依頼することが多いですが、もともとは町会内で上手な人に描いてもらうといったこともあるようで、山車の骨組みに貼り付ければ完成できます。製作費を抑えることができたのです。
▲扇ねぷたの骨組みは毎年使われるため、翌年まで保管される
それ以外にも、扇ねぷたや人形ねぶたを作るねぷた小屋にも違いがあると成田さん。「青森では近年、ねぷた小屋を一つの場所に集めて「ねぶた師」とよばれるねぶた職人が作る工程をショーのように見せることに成功しました。弘前は今でも団体がそれぞれの町会などでねぷた小屋を作り、団体内で交流する場として使います。囃子の練習やメンバー同士の顔を合わせなどで結束力を高められるのです。そのねぷた小屋の役割を弘前では残し続けています」と話します。
また、扇ねぷたを運行するようになった理由として、自身の仮説をこう述べていました。「城下町だった弘前は江戸時代から絵師を輩出していたため、弘前市民にも絵を愛でる文化があったのではないだろうか。そして純粋に、灯篭の明かりに灯されるねぷた絵の幻想的な美しさに引かれていったのではないか」。
▲夜のねぷた絵は昼とは違った力強さや美しさがある
3.違いは運行の方法にもあった
「弘前ねぷた」と「青森ねぶた」の大きな違いの一つは、跳人(はねと)の存在です。青森を起源とする跳人は、決まった衣装さえつければ祭りに自由参加できるということが大きな魅力。青森青年会議所の呼び掛けが始まりとされますが、全国の伝統的な祭りの中で自由参加できるのは極めてまれなことでした。一般観光客でも自由に参加することが可能となったことで、「青森ねぶた」の観光化は加速します。
▲跳人は「ねぶた」の前で囃子に合わせて踊り跳ね祭りを大いに盛り上げる。弘前では跳人はいない
もちろん弘前でも団体によっては観光客などの参加を受け入れるところはあります。しかし、「青森ねぶた祭」のような体制が整っているとは言えません。跳人は観光化を積極的に進めた「青森ねぶた」を象徴するような取り組みとなり、伝統的に跳人(はねと)のない「弘前ねぷた」では外部からの参加には制限があって難しいのが実情でした。
だからこそ「青森ねぶた」にはない「弘前ねぷた」の魅力があると成田さん。「祭りに参加する子どもの姿が多く見られるのが『弘前ねぷたまつり』。なぜなら地域の行事としての本来の祭りの姿を残しているから」と話します。
▲町会内の子どもが運行に参加する弘前ねぷた
4.それぞれの魅力がある「ねぷた・ねぶた」
観光化によって「青森ねぶた」は東北三大祭りの一つに選ばれ、多くの観光客を呼び込むことに成功しました。しかし、祭りが持つ本来の意味からは離れ、エンターテイメントを重視する内容に変容していきます。
▲来年はゆっくり「弘前ねぷたまつり」を見たいと笑顔を見せると成田さん
弘前ねぷたまつりは、ダイナミックさにおいては「青森ねぶた祭」に敵いませんが、ねぷた絵やその裏面に描かれる見送り絵などには独特の魅力があり、市民らが参加する運行には温かみがあります。成田さんは「観光の一点張りではなく、市民の祭りとしての体裁が残っている。伝統と観光が程よい距離感にあり、バランスがちょうどよい位置にある」と話します。
祭りはどちらが勝っているとか劣っているとかいうものではありませんが、青森県の津軽地方には「おらほのねぷた(自分たちのねぷたが一番という津軽弁)」といった言葉がある通り、自分の地域のねぷたを大切にする風習があります。
▲弘前ねぷたまつりでは伝統的な担ぎねぷたも多数運行する
青森県内には津軽エリアと下北エリアにわたって伝統的に「ねぷた・ねぶた」があり、それぞれのエリアで祭りに特徴もあります。地域に根付いた「ねぷた・ねぶた」祭りが開催される背景には、まさに「おらほのねぷた」という郷土愛が背景にあることは想像に難しくありません。
今年の中止によって、毎年夏に当たり前のように行われた「ねぷた・ねぶた」のありがたみを知ることになりました。「ねぷた・ねぶた」は厄除けや疫病退散といった起源があり、開催して平安を祈る行事とすべきだったのかもしれませんが、それすらかなわない状況となりました。
弘前では、中止となった「弘前ねぷたまつり」に代わるさまざまな取り組みが行われ、逆に新しい発見や、本来の「ねぷた」の役割などを知る機会も得ることができました。来年は「弘前ねぷたまつり」が開催されることを願い、心から楽しめるような日になっていることを今は祈るばかりです。
成田敏さん
弘前市生まれ、弘前市在住。40年近く県立郷土館で学芸員を続け、県内の民俗資料の収集・保存、民俗調査や執筆活動を行った。青森ねぶた祭の審査委員長を2014年から2016年の3年間務めたことがあり、「弘前ねぷた」と「青森ねぶた」に精通している成田さんが選んだ一枚
弘前の子どもねぷたの様子(昭和30年・佐々木直亮氏撮影)
地域の行事として、昔から子どもたち自らが作って運行するねぷたが多数みられました。
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