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見世物化をどう乗り越える?古い民俗芸能の継承は?富山県・小川寺の獅子舞を見て考えた

2022/3/18
2022/3/28
見世物化をどう乗り越える?古い民俗芸能の継承は?富山県・小川寺の獅子舞を見て考えた

日本の獅子舞の最も古い形をご存知だろうか?
中国や朝鮮半島に由来する大陸系の獅子舞に関していえば、行列において神輿の先払い等の役割を担う「行道(ぎょうどう)獅子」が最も古い形態だ。これは飛鳥時代に伝来したといわれる。舞う獅子が主流となっている現代において、先払いをする獅子はどんな姿だったのだろう?

日本ではかなり数が少なくなったものの、この行道の獅子を見ることができる地域はある。その中でも、仏教伝来後の神仏混淆の面影を残す取り分け古い獅子があるという。それが、富山県魚津市に伝わる小川寺(おがわじ)の獅子舞である。

なぜ古い形が今に伝えられているのだろうか?そこには何か民俗芸能の伝承に関わる非常に重要なヒントが隠されているかもしれない。そのような興味から、2022年3月12日に小川寺の獅子舞を現地で見てきた。

古い獅子舞の形「行道獅子」とは?

もともと行道獅子の始まりは、朝鮮半島の百済に味摩之(みまし)という人物がいて、612年に伎楽(ぎがく)という芸能を日本に伝えたことに始まる。この伎楽に行道獅子の所作が含まれていたのだ。ただし伎楽はかなり滑稽味を帯びていて俗的であったため、宮廷や社寺に十分に広まらずに舞楽という芸能に取って代わられてしまった。

伎楽自体は衰えてしまったものの、行道獅子に関しては日本人の「清浄を好み厄を払う」という気質に合ったためか、日本全国に広まった。江戸時代以降は舞う獅子が主流になっため、行道獅子の影は薄れたがそれでも日本の各地にわずかながら残っている。

小川寺の獅子舞の一連の流れと所作

それでは、今回拝見してきた小川寺の獅子舞について、行道獅子の視点から振り返っていきたい。行程としては小川寺地域の白山社に祈りを捧げることから始まり、観音堂に向かい、再び白山社に戻るという約1時間のコンパクトなお祭りである。神社からお寺に行き神社に戻ってくるという、神道と仏教が融合した神仏混淆の祭りなのだ。こちらが出発地点の白山社だ!

祈りを捧げた後、行列を作り観音堂へと向かう。行列は幟、天狗、婆々面…という風に順番が決められており、その列は長い。天狗は拳を天高く突き出して飛び跳ね、その度に観客が反応してカメラのシャッターを切っていたのが印象的だった。

婆々面の後ろに登場したのが獅子だ!

獅子頭は箱獅子といって頭頂部と鼻の先が同じくらいの高さにあり、平べったい顔が特徴だ。目がぎょろりとして大きく、歯は黒く染まっている。

右に3歩、左に3歩という風にリズミカルに動き、右足が出たら右手が前に出るという所作である。これは江戸時代の飛脚の走り方である「ナンバ走り」を連想させる動きだが、単なる個人的な思いつきでその関連性は定かではない。獅子舞であるのに、舞うという動作は見られず、左右の厄を払うような意識で前に進んでいくという印象が強い。

行列の行く先はこちらの観音堂だ。白山社から観音堂までは数百メートルと近く、この観音堂にたどり着くと、お堂の周りを合計7周半する。お堂の周りを回るのは、神の降臨を願う所作とも言われ、原始的な信仰が垣間見える。

最初の4周はゆっくりと、あとの3周半は少し早めのテンポで回ることとなっている。獅子舞の右足と左足を相互に突き出していくような動作は先ほどの行列の時と変わらない。獅子舞の後ろにいるのが「姉ま」という珍しい姿のひょっとこで、その後ろには横笛などの囃子方が続いていく。

お堂を周回しているときは太鼓を打ち鳴らし、その横で神輿は留まっている。神輿は金色を基調としていてとてもカラフルで色鮮やかだ。

観音堂を回り終えると、元来た道を白山社へと戻る。鳥居の前で神主さんが祝詞を唱え、行列を組んだ人々は座って頭を下げてそれを見守る。

この祭りの一連の流れが終了すると、地域の人々は我先にと獅子の前に集まり、順番に頭を噛んでもらって、無病息災を祈る。これだけ古い行道獅子にも頭を噛むという、いわばサービス的な仕草が存在することは個人的にとても興味深かった。

以上が小川寺の獅子舞の一連の流れである。例年3月12日に行われるこの春祭りは、富山県内で最も早い春祭りと言われている。

なぜ古い形態が保存されてきたのか?

それでは、なぜこれほどまでに古い形態の獅子舞が今まで残っているのかについて考えていきたい。小川寺は魚津市最古の村で布施川の谷底盆地に位置し、数百年来、宗教集落として栄えてきた。小川寺は真言宗の古刹であり16坊が存在したが、現在は光学坊、心蓮坊、蓮蔵坊の3つしか残っていない。

元々は山岳信仰が発展した場所で、村の近くに位置する僧ヶ岳に山の神がいて、それが田の神となり里に降りてきて、家々の田を守護すると考えられてきた。それが仏教伝来の後に、仏像を僧ヶ岳と里とを一年の間に往復させるという風習に変わった。つまり、山岳信仰と仏教の間に神仏混淆の考えが生まれ、仏教が原始的な信仰をそのまま取り込む形で今に至っているのだ。

明治時代の神仏分離令が出された時代をも乗り越えて現在に至っているわけで、神仏混淆のような形で新しいものを取り込んで折衷させていく力と、巨大な宗教的地域としての基盤が古い習俗を今に残すことに繋がっているのではないかと考えられる。今回見られた獅子は境内の立て札によれば成立したのが室町時代のようだが、仏教伝来以後に発展した行道獅子から連綿と続くような系譜を垣間見たようにも思う。

撮る側の問題と撮られる側への懸念

この祭りそのものが非常に古く、神仏混淆の形態を今に残していることもあって話題性もあり、地元のカメラマンが数多く訪れていたのは印象的だった。同時に、撮影側がこの行列を邪魔してしまうというのが近年問題になっているため、カメラを向けすぎずに昔から続く生活の営みとしてそっと見守るという姿勢も大事だろう。今回は自分も当事者として「なるべく遠目から写せるレンズを使い、枚数を少なく」という意識で、許可取りもして撮影をさせていただいた。

そういえば、祭りの見物客の中には「今では連写できるカメラが出てきたもんなあ」と嘆く地元の古老も何人かいた。フィルムカメラの時代には撮影枚数が限られていたため、前のめりになって行列を邪魔してしまうような人は少なかったそうだ。確かに行列の通り道をふさいでしまうカメラマンを多く見かけたし、カメラに付帯する紐が祭り道具に引っかかり、祭りの運営側の人が転んでしまいそうになる場面すら見られた。「カメラマンからは拝観料を取るべき」という声すらあるらしい。

もし拝観料という考え方が生まれるとすれば、タイの少数民族が住む地域で見られる観光村のようなものが誕生する可能性も否めない。つまり、現金収入を得るために一部の区域で伝統的な風習を継続する一方で、普段の生活は現代的な服を着て現代的な食べ物を食べるという暮らしのあり方である。日本は限界集落が増えておりインフラコストも上昇する中、地域に残る貴重な風習が観光化することにより、それが地域的な収益につながるというあり方も可能性としてなくはない。しかし、それは心と体が分離したようなちぐはぐ感に悩まされる可能性すらある。

古い祭りを継承するということ

柳田國男が『日本の祭り』で書いているように、祭りは昔、暗闇の中で行われたものがほとんどだった。しかし、それが見世物になるにつれて、徐々に昼間に実施されることが多くなった。ただし、観光化を目的とした祭りはそのままで問題ないが、この古い形態を地域の中で守り繋いできたような祭りは、一歩間違えれば生活とはかけ離れた習俗になってしまう危機感も感じた。

古い祭りをどう継承させていくのか?その時代に合わせて、新しいものを取り込む一方で、守るものは守らなければいけない。それを地域ごとにしっかりと話し合っていくことで、貴重な古い形態を残す祭りが次世代に繋がっていくのだ。

それにしても、小川寺の獅子舞は時代を遡りタイムスリップしたような素晴らしいものだった。様々な葛藤を乗り越えて今までその伝統を受け継いできた証と言えるだろう。

<参考文献>

・富山県教育委員会『富山県の民俗芸能-富山県民俗芸能緊急調査報告書-』(平成4年3月)
・富山県教育委員会『富山県の獅子舞-富山県内獅子舞緊急調査報告書』(昭和54年3月)

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