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岐阜県 表佐太鼓踊り 巨大太鼓と知る江戸文化

更新日:2020/9/30 鹿ちゃん
岐阜県 表佐太鼓踊り 巨大太鼓と知る江戸文化

表佐おさ太鼓踊りとは

岐阜県垂井町表佐。江戸時代初期、雨乞いをしたことから始まった太鼓踊りがあります。
江戸日本橋から京都三条大橋まで約532km。この江戸時代五街道の一つ、中山道の四分の一相当に値する約128kmが美濃國みののくに、つまり岐阜県です。表佐太鼓踊りの起源はこの美濃みのと呼ばれる地の西、穀倉地帯表佐で、南宮大社なんぐうたいしゃの水神様に雨乞いをして太鼓を打ったのが始まりと言われています。雨乞いを祈る信仰は、太鼓踊りと結びつき広く西日本に伝承されていきました。願いが叶うと後に、「礼踊り」と言い、水神様や氏神様へ感謝して太鼓踊りを奉納したと伝えられています。近年では季候に恵まれ、暖かな秋の日差しを浴びながら五穀豊穣の喜びを奉納するようになりました。

(この記事は2019年に公開されたものを再編集しています。2020年9月30日 編集部更新)

巨大太鼓の正体

表佐太鼓踊りの魅力は、何と言っても圧倒的に大きい太鼓です。驚くことに直径は1mから1.3m。重さが50kgから60kg。この巨大な太鼓を腹につけ、音頭に合わせて踊りながら太鼓を打つ姿は勇ましく、日々の鍛錬が見ている人の胸を熱くします。

 

 

頭には、江戸時代の網笠、一文字笠を被ります。この平たい円板状の網笠は踊りの他、武士が旅行や行列の際に用いていました。表佐太鼓踊りの一文字笠には大きな牡丹の花がついており、目を引く華やかさがあります。

 

当日の様子

日時は10月第一日曜日(2020年は、10月4日(日))の15時から17時頃まで、表佐小学校の校庭にて行われます。
6演目あり、大人から子供まで100人近くの多人数が踊ります。

最初の演目は「打ち込み」、校庭の外で隊列をつくり開始の合図と共に、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら校庭へ少しずつ入っていきます。隊列はそのまま大きな円を作り、その後交代をしながら残りの演目を踊ります。

太鼓や鉦叩きの他には、采振り呼ばれる音頭を取る役目がいます。この采振り、昔は戦場で軍勢を率いる際に合図を送る役割をしており、ふさの付いた長い棒を持つ姿が特徴的です。

響き渡る太鼓の重い音、軽快なリズムを刻む鉦の音、派手な動きで音頭を取る采振り、全てに一体感がありました。秋と言っても日差しの強い当日、集中力を絶やさず踊り続ける姿に感動し、この日を大切に踊りついできた強い思いを身にしみて感じました。
吹き抜ける風に立ち向かい踊る様子は雨乞いの祭りであることを思い起こし、その神聖さに一種の緊張感を持ったこと、今でも鮮明に覚えています。

ダイナミックなスケールで行われる太鼓踊りには、人の心にせまる力がありました。

現地には「昨日滋賀県のお祭りを見て、今日岐阜県へ移動、お祭りをハシゴしています」と言う方もいました。午後から始まり夕方には終わるという短い期間を上手く使って、他のお祭りと合わせてみたり、岐阜県で江戸文化を知る旅と合わせて太鼓を見に行ってみたり、忙しい方には日帰りで行ってみるのも良い思い出作りになりそうです。

 

祭りと共に江戸文化を知る

表佐太鼓踊りの文化がある垂井町たるいちょう、ここには浮世絵で描かれた街並みがあります。「木曽街道きそかいどう六拾九次ろくじゅうきゅうつぎ垂井宿たるいじゅく 」歌川広重うたがわ ひろしげによって描かれた浮世絵木版画、連作の一つであります。垂井宿とは、本文冒頭でふれました美濃国中山道みののくになかせんどうにある宿のことで、岐阜県にはこの宿を含め17宿が今もなお残っています。
この文化は、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で天下をとった徳川家康が、戦乱で荒れ果てた全国の道を整備し、翌年東海道に53の宿駅を設けたことが始まりとされています。
各宿先には四季折々の自然が溢れ、街並みは江戸文化を思い起こさせる情緒があります。宿近辺には、記念館や資料館、美術館があり、垂井宿付近にはタルイピアセンターという資料館があります。

江戸文化に由来している表佐太鼓踊り、祭りと共に中山道垂井宿へ訪れてみるのも、歴史を深く知る良いきっかけとなるでしょう。

美濃国。歴史深いこの地には、江戸から続く伝統がありました。

この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター
写真家として、日本中のお祭を撮りながら旅をしています。

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