成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)といえば、関東地方屈指の参拝者数を誇る、歴史ある寺院。そして新勝寺で催される行事の中でも特に盛り上がるのが、毎年開催される「節分会(せつぶんえ)」です。
芸能人や大相撲力士が「年男」「年女」として参加することでも有名な新勝寺の節分会ですが、そもそも成田山新勝寺はどのような寺院なのでしょうか。今回は、成田山新勝寺企画課の中峰照希さんご協力のもと、成田山のはじまりから行事に込められた想いまでご紹介します。
目次
成田山は関東を守る霊場。混乱を鎮め安寧をもたらす寺院
1000年以上の歴史を持ち、法灯絶えることなく人々の平和な暮らしを祈願し続ける成田山新勝寺ですが、開山に至るまでの歴史や背景にはどのような出来事があったのでしょうか。
新勝寺の歴史は「平和への願い」から始まった
成田山新勝寺が開山されたのは940年(天慶3年)、平安時代中期頃です。
平安時代といえば、唐文化の影響が薄れ、日本独自の優雅で繊細な国風文化が形成された時代。華やかな文化が花開く一方で、朝廷では摂関政治によって藤原氏が台頭し、権力をほしいままにしていました。政治が乱れるにしたがって地方政治は疎かになり、社会全体が無秩序化していったのもこの時代の特徴です。
そんな中、承平天慶の乱が勃発し、朝廷を震撼させます。
承平天慶の乱とは、関東で起きた「平将門の乱」と、瀬戸内海で起きた「藤原純友の乱」の総称です。地方の武士集団の興りと、律令国家の衰退を象徴した事件でした。朝廷は、追討軍を派遣すると共に、全国の神社や寺に調伏の祈祷を命じました。
939年、当時の天皇である朱雀天皇は、真言宗の僧である寛朝に平将門の乱平定の平和祈願の密勅を賜ります。寛朝は京都・高雄山神護寺に安置されていた不動明王像を捧持し、難波津(大阪)から海路「尾垂ヶ浜」(現・千葉県山武市横芝光町)へ、そして陸路「下総国公津ヶ原」に到着しました。下総国(しもうさのくに、しもふさのくに)とは現在の千葉県北部であり、公津ヶ原とは手賀沼・印旛沼周辺を指します。
明王像は公津ヶ原の御堂に安置された後、寛朝による平和祈願の護摩祈祷が行われました。この地は成田山新勝寺発祥の地とされ、千葉県成田市並木町に今も不動塚が残っています。
さて、寛朝による祈祷は21日間にもおよびました。祈願最後の日、ついに平将門は幸嶋郡北山(さしまぐんきたやま・現茨城県坂東市付近)の合戦に敗れ、戦死します。
乱が平定された後、寛朝は京都に戻ろうとしましたが、不動明王像が動かず「この地に留まって人々を救う」とのお告げがあったことから、この不動明王像を本尊として「成田山新勝寺」が開山されました。
ちなみに、不動明王像の御堂はその後の戦乱で荒れ果ててしまったため、近在の名主たちの相談により、成田村の名主諸岡三郎左衛門が御本尊を預かることとなりました。諸岡三郎左衛門は成田市屈指の和菓子メーカーである米屋株式会社創業者の遠祖にあたる人物です。
御本尊が鎮座していた屋敷跡は、現在の「なごみの米屋」總本店敷地内お不動様旧跡庭園の一帯にあたるといわれています。その後仲町の神明山に移された後、1566(永禄9)年に寺台城主の海保甲斐守三吉によって現在地に移されたそうです。
「新たに勝つ」新勝寺が伝える力強いメッセージとは?
新勝寺は「新たに勝つ」という語句に因んで名付けられていますが、ここにはどのような意味が込められているのでしょうか?
平将門が敗北したのちも、坂東八箇国(相模、武蔵、下総、上総など、現在の関東一都六県)には武士の勢力が残り、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)による平氏の滅亡と平安時代終結の一因となっていきます。
また、当時は全国的に疫病が流行した時期でもあり、社会全体が不安に包まれた時代でした。こうした中「東国の平和を祈念し続け、あらゆる災厄や病魔に勝つ」という想いを込めて、新勝寺と命名されたようです。
ちなみに、寛朝僧正は新勝寺を去った後も、晩年まで衆生の苦しみを救うべく尽力しています。京都・遍照寺に今も鎮座する赤不動明王像は993年頃の流行性感冒(インフルエンザ)と疱瘡の蔓延を鎮めるために寛朝僧正が建立したものといわれています。
中峰さんによると「成田山の御本尊不動明王は智慧の炎をもって、人々のあらゆる苦しみを焼き尽くし、取り除いてくださる仏様です。混迷する世の中ですが、私たちを常にお護りしてくださいます」とのこと。完全な収束に至らないコロナ禍に、不安が尽きない毎日ですが、病魔に負けないパワーがもらえそうですね。
また、お不動様にお祈りする儀式である御護摩祈祷では、人々の願い事を智慧の炎で清め、お不動様の元に届けているそうです。新勝寺の節分会においても、豆まき式の前に大本堂で今年一年の多幸をお祈りする御護摩祈祷が奉修されるとのこと。
お不動様のご加護を受けることで、様々な困難を乗り越え、素敵な未来を切り開く「生き抜く力」を頂きたいですね。
梨園との関係はどうして始まった?
歌舞伎の市川宗家が屋号を「成田屋」としているように、市川宗家と成田山の関係はとても深いそうです。毎年の節分会でも市川團十郎さんの姿を見ることができますね。市川宗家と成田山新勝寺の間にはどのような歴史があるのでしょうか。
江戸歌舞伎の名門・市川家の初代、市川團十郎が初舞台に挑んだのは江戸時代初期の1673年。坂田金時の役で、全身を紅で塗りつぶし、紅と墨で隈取りをした顔と豪快な荒事は大変な人気を博し、まさに一世を風靡しました。
しかし、初代團十郎は長い間子宝に恵まれませんでした。初代の父親は現在の成田市幡谷出身であり、父祖以来信仰している成田山に子宝祈願をしたところ、その願いが叶って男子(二代目團十郎)を授かることができたそうです。
初代團十郎はこの霊験を喜び、1695年に成田山不動明王を初演し、以後不動の役は市川家の十八番となりました。その後も市川家は慶事につけて成田山に奉納を行い、舞台衣装には成田山の寺紋である葉牡丹をあしらうなど、信仰を続けていきます。このように、成田山のお不動様は市川宗家のルーツであり、切っても切り離せない関係になっていったのです。
また、江戸で團十郎が成田山のお不動様にちなんだ歌舞伎を演じることによって、江戸っ子達の間では成田詣がブームになりました。成田山周辺には参詣客をもてなすための旅籠や食事処が立ち並び、街の発展にもつながったといいます。
今年の節分会は例年通りの開催予定!福を呼びこみパワフルな一年にしよう
昨年度は規模を縮小しての開催だった節分会ですが、今年はコロナ禍前の盛り上がりが期待できそうです。特別参加の年男・年女には、成田屋市川團十郎さんをはじめ、大相撲の人気どころに今をときめく芸能人や歌手の皆さんまで参加する予定とのこと。気持ちも晴れやかに一年が始められそうですね。
期日 2月3日(金)
場所 大本堂、大本堂前
【特別追儺豆まき式】
第1回:11時、第2回:13時30分、第3回:16時
また、誰でも参加可能な大本堂内での「開運豆まき」も開催予定。御護摩祈祷の後、御本尊不動明王の御宝前で豆まきを行い、一年の開運招福を祈願します。豆まき終了後は、御札、福豆、福升、剣守などの授与品がいただけます。追儺羽織を貸してもらえるので、服装を気にしなくて良いのも嬉しいですね。
【開運豆まき】
第1回:9時30分、第2回:12時30分、第3回:15時
参加料 1万円
服 装 自由。追儺羽織を貸与
募集人数 各回100人
申込み 光輪閣1階 総受付
※「参加券」を持参の上、開始30分前までに1階ロビーに集合します。
まだまだ知りたい!成田山新勝寺の節分会の疑問を聞いてみました
●一般に良く知られる節分の豆まきでは「鬼は外、福は内」と呼びかけますね。しかし、新勝寺では「福は内、福は内」のみで「鬼は外」とは言わないそうです。これはなぜでしょうか?
中峰さん:お不動様は大いなる慈悲の御心で、生きとし生けるもの全てに救いの手を差し伸べてくださいます。人々から恐れられる鬼であっても例外ではなく、お不動様の御加護によって改心し、仏の道へと導かれるため、「福は内」とだけ唱えます。
●節分会では、豆だけでなく、剣守やからつき落花生もまかれるそうですが、なにか意味があるんですか?
中峰さん:節分会では、大豆860kgにからつき落花生400kg、剣守365体をまきます。
剣守は、お不動様の剣に似ていることからそう呼ばれていますが、正式には「福御守」といいます。福御守は1回の豆まき式で一年の日数分365体撒かれ(全3回合計1,095体)、一年の平穏と幸せを祈る御守りとしてお持ち帰りいただけます。また、からつき落花生は千葉県の名産でもありますので、新勝寺にとってははずせないアイテムですね。
●芸能人が来るようになったのはいつから?
中峰さん:昭和43年の大本堂建立をきっかけに、より多くの方に豆まき式に参加いただくため昭和44年の節分会より俳優の方や大相撲力士の方をお招きしています。
●巷で噂の平将門の呪いが怖いのですが、将門所縁のスポットを訪れた後に成田山に来ても大丈夫ですか?
中峰さん:平将門をお祀りされている神社や将門塚を訪れた後であっても、成田山にお参りしてはいけないということはありません!安心して参詣ください。
人々の安寧を願い続け1000年以上。霊験あらたかなお不動様に今年の多幸をお祈りしよう!
例年大きな盛り上がりを見せる成田山新勝寺の節分会。今もなおたくさんの人が集まる理由は、長い歴史のなかで社会の平和と人々の幸せに真摯に向き合い続けてきたからかもしれませんね。お不動様のパワーのもと一年の厄を祓い、無病息災を祈りましょう。
<参考サイト・資料>