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「民具を見るのではなく、民具で見よ」昭和の高度経済成長期、消えゆく東京の古い暮らしを記録した市民発の草の根運動がすごすぎた!

更新日:2022/4/20 小野 和哉
「民具を見るのではなく、民具で見よ」昭和の高度経済成長期、消えゆく東京の古い暮らしを記録した市民発の草の根運動がすごすぎた!

(提供:くにたち郷土文化館)

※クレジットのない写真は筆者撮影

市民が主体となって行われた驚きの文化発掘&継承活動が国立にあった

撮影:小松原亜玲

冒頭から満面のエビス顔で、失礼します。お祭りや盆踊り、民俗学などが大好きなライターの小野です。突然ですが皆さん、お祭りが恋しいですよね……。

私もコロナになる前は毎年夏ともなると全国各地の盆踊り会場を行脚して、踊ったり、食べたり、地元のじいちゃんばあちゃんと会話をしたり、そんなことを生き甲斐にして過ごしてきましたが、コロナ禍以降はおいそれと他県の敷居を跨ぐこともできず、もっぱら自分の住んでいる東京の民俗について訪ね歩く日々が続いています(出身は千葉県)。

筆者の家の近くにひっそり鎮座するお地蔵様(杉並区)

そんな私がここ一年、興味を持って調べているのが東京の労作歌です。仕事歌と呼んだりもしますが、その昔、農器具などが機械化されておらず、大勢の人が力を合わせてさまざまな作業を行っていた時代、息を合わせるための、あるいは仕事の合間の息抜きとして、唄が歌われていました。

木遣り歌、苗とり歌、草刈り歌、田植え歌、茶摘み歌……仕事の種類だけ唄があったといっても過言ではないくらい、多様な唄が文献に記録され、現在まで伝わっています。

三鷹市の小学校で行われた麦打ち(棒打ち)の体験授業

東京でもまた、かつてはさまざまな労作歌が歌われていました。特に関東でメジャーだった労作歌といえば、麦の脱穀作業をする際に歌われた「麦打ち歌(棒打ち歌)」。その名の通り「くるり棒」という器具を巧みに回転させて麦を打ちながら、「大山さきの黒雲が〜ホイッホイッ♪」と調子よく歌われました。

河岸段丘の下に広がる谷保の豊かな田畑

さて、今回の舞台となるのは東京都国立市谷保(やほ)。国立市の南部に位置する町で、段丘崖の豊かな湧水を利用した田畑がいまだに多く残る景観の美しい地域です。東京に長く住んでいる私も、実は最近までこの谷保の存在はほとんど知りませんでした。しかし、東京の労作歌を調べているうちに、この地に伝わる古い労作歌や祝い歌が地元の人らの調査によって掘り起こされ、記録されていることがわかりました。

調査の担い手となったのは「くにたちの暮らしを記録する会」です。もともとは高度経済成長期に谷保の住民が主体となって、時代の変化とともに失われつつあった民具(一般の人々が日常生活で使うために作られた道具器具のこと)の収集活動を行い、後に「国立市民具調査団(1982年にくにたちの暮らしを記録する会と改称)」として行政と国立市民が一体となって、民具のみならず、谷保を中心とした国立の民謡、信仰、昔話などの聞き取り調査を精力的に行う活動へとつながっていきました。

くにたちの暮らしを記録する会の活動成果は、いくつかの本にまとめられ、現在でも図書館などで手にすることができる

2013(平成25)年には、谷保にある「くにたち郷土文化館」(国立市谷保6231)が、谷保の民謡をテーマとした「平成25年度秋季企画展 谷保の歌が聞こえる〜歌と共にみる村の暮らし〜」を実施。「くにたちの暮らしを記録する会」もまた協力機関として名を連ねるこの展示会の資料や、録音された音源に触れた私は、いま述べたような背景は抜きにして、谷保に伝えられてきた労作歌や祝い歌の、純粋な音楽としての魅力に心撃ち抜かれました。

昔の人は、こんな楽しい音楽に合わせて仕事をしたり、時には酒盛りをしながら盛り上がったりしていたのか!

「谷保の歌が聞こえる〜歌と共にみる村の暮らし〜」展の図録

もっと谷保の民謡について知りたい、そして民謡の調査活動について当時の状況を知りたい、そう思った私は思い切って取材を実施! 今回はくにたち郷土文化館のご協力のもと、「くにたちの暮らしを記録する会」の会長・佐伯安子さんに当時の貴重なお話を伺うことができました。

高度経済成長期に劇的に様変わりした、のどかな国立の田園風景

佐伯安子さん 撮影:渡辺 葉

佐伯安子さんは1936(昭和11)年、静岡県御殿場市の生まれ。実家は土木関係の仕事をしており、地域の有力者でもあったのか、家には常に多くの人の出入りがあったと安子さんは回想します。その後、縁があって谷保の久保地区にあるお寺・谷保山南養寺の三男である佐伯慎也さんと結婚。1959(昭和34)年に谷保にやってきます。

谷保山南養寺

慎也さんはお寺の生まれながら、後を継ぐことなく東宝株式会社に就職。しかも配属されたのが天下の「黒澤組」ということで、あの『七人の侍』の制作にも関わったそうです。

小野
佐伯安子さん:
黒澤監督に、すごくかわいがってもらったと、よく言ってましたね(笑)

仏間に飾られた慎也さんの写真 撮影:渡辺 葉

安子さんが谷保に来た当時、地元の御殿場とほとんど変わらない風景に驚いたそうです。東京とはいえど、田畑が広がり、茅葺屋根の民家もあり、井戸で水をくむような昔ながらの生活がまだ残っていたと言います。谷保村出身であり、多摩地域や国立の郷土誌の制作、民謡の採取活動などで知られる郷土史家の原田重久は著書『多摩 ふるさとの唄』にて、生まれた当時の谷保の風景について次のように書き残しています。

“当時は、国木田独歩が叙したような武蔵野の自然をそのままに、都心から二十五粁(著者注:キロメートル)ほどしかない谷保村でも、都会の匂いなどは全然しなかった。村には、駅も郵便局も、本屋も、料理屋もなく、まだ南武線も敷設されず、都心に出るには国分寺駅か立川駅まで歩いて行かねばならない。雑誌一冊求めるにしても、小一里の道をてくてく歩いて、立川か府中の本屋まで行くのである(中略)村の北部三分の一ほどの地域は、百万坪と呼称される雑木林の海で、一軒の家もなかった。その中を中央線が東西に走っていたが、駅はない。私はこの村で育った”(多摩ふるさとの唄)

町役場火の見櫓から南武線と城山(1959年頃) 提供:くにたち郷土文化館

そんなのどかな田園風景にも都市化の波が押し寄せてきました。くにたちの歴史編纂委員会 編『くにたちの歴史』によると、戦後、地方疎開者や復員兵の帰還などではじまった人口増加は、高度経済成長とともに爆発。国立市の世帯数の偏移を見ると、終戦の1945(昭和20)年では1,319戸だったのが、高度経済成長期終焉の契機となったオイルショック(1973年)から2年後の1975(昭和50)年には23,245戸と大幅に拡大しています。その中でも重要な変化となったのは、1965(昭和40)年秋に完成した富士見台団地の登場です。

完成して間もない富士見台団地(1965年頃) 提供:くにたち郷土文化館

時代は東京五輪直後。約2,300戸が予定されていたこの公団住宅団地には、入居募集開始から申し込みが殺到。これにより一挙に8,000人もの新住民が増加しました。国立の原風景が都下の農村のイメージから、近郊住宅都市へと変貌したのも、この頃だとされています。農村が都市化をしていくまさに過渡期に、佐伯さんは谷保にやって来ました。

農具が畑で焼かれていた時代、小学校のPTAが立ち上がった民具収集活動

国立で最も古い歴史を持つ学校、国立市立第一小学校(国立市谷保6026)。谷保の民具収集は、佐伯さんのお子さんも通ったこの第一小学校が起点となりスタートしました。

保護猫のココアちゃんと 撮影:渡辺 葉

小野
佐伯安子さん:
PTAの会合である時、農家がいらなくなった古い農具などを畑で燃しているのをよく見かけるね、という話が出てきたんですよ。その様子があまりにも痛ましいということで、PTAとして地域の民具を収集することになりました。

1960年代はまさに農具の機械化が加速した時代でした。その経緯についてノンフィクション作家・野添憲治による『ドキュメント出稼ぎ : 農業棄民の現場から』から紐解くと、1961(昭和36)年、農業の近代化を図る「農業基本法」が公布・実施、この施策の一環として農村地帯では第一次構造改善事業が実施され、水田の基盤整備が行われました。

整備された水田には農業機械が導入されるようになりますが、この背景として機械購入に必要な資金として農協の融資枠が大幅に認められたこと・政府買い上げの米価が年率10%前後の伸びを見せるようになった、その結果農業機械の導入が楽になったのだと野添は指摘しています。また高度経済成長期は、農地を売って得た資金で家を建て替える農家も多くあり、新築のタイミングでもまた農具は燃されました。

谷保水田の田植え風景(1964年頃) 提供:くにたち郷土文化館

生活のすべてが合理化される、便利で豊かな新時代を歓迎する一方で、当時の人々の胸には、どこか失われていく古い生活への郷愁というものがあったのかもしれません。一般市民が主体となってはじめられたこの民具収集活動は、谷保の地域ごとに進められ、佐伯さんも久保地区の地区委員長として他の保護者たちとともに、民具提供の交渉で農家を回りました。

小野
佐伯安子さん:
最初は本当に手探りで、農家さんとの交渉の仕方もやりながら学んでいきました。失敗だったのは、(調査をしていた方々は)みんなとても純粋だったので、最初は見せていただいた民具を『これは素晴らしいですね』とすごく褒めちぎっていたんです。農家さんもそこまで褒められると『そんなにいいものなのか』と見る目が変わりますから、交渉が難しくなってしまいました(笑)
 

収集した民具の一例。これは風で実とゴミを選別する「トウミ(唐箕)」と呼ばれる道具 提供:くにたち郷土文化館

ザグリ(座繰り)。繭から糸を取るための道具 提供:くにたち郷土文化館

ねじり鉢巻をして、時にはリヤカーを引いて、汗水流して、佐伯さんらは、1カ月ほどの期間をかけて最終的に約600点もの民具を収集。第一小学校の空き教室に「一小の民具」として収蔵・保管され、1968(昭和43)年には明治100年を記念した展示会「郷土 くらしのあゆみ展」が第一小学校PTAの手によって開催されました。

佐伯安子さん宅に保管されていた「郷土 くらしのあゆみ展の手ぬぐい」 撮影:渡辺 葉

まだ国立市の歴史郷土資料館もなかった時代。地域住民の手によって、郷土の歴史の記録・保存が行われたのです。

「民具を見るではなく、民具で見る」胸に刻んだ宮本常一の教え

地元PTAによる民具収集はいったん一区切りとなりましたが、それからおよそ10年が経った1979(昭和54)年、国立市教育委員会は行政発の民具調査を行うことを決定。「国立市民具調査団」が結成され、市民参加の学習方式ということで、他市からの移住者を中心とした市民が十数人参加しました。その中にはもちろん、10年前の民具収集に尽力した佐伯さんの姿もありました。

民具調査団の活動風景。写真中央の青いエプロンが安子さん 提供:佐伯安子さん

第一小学校PTAと同様、メンバーは特別民俗学について教育を受けた人たちではありませんでしたが、民具調査団の活動には、自ら「民具学」を提唱し民具学の基礎を築いた宮本常一と、その弟子である民俗学者の香月洋一郎が指導にあたりました。

小野
佐伯安子さん:
民具の実測の方法から、お年寄りへの聞き取りの仕方まで、いろいろなことを教わりました。例えば、お話を聞いていてわからないことがあれば、何度聞き直してもいいんだよ、とかね。

撮影:渡辺 葉

民具調査団発足まもない1979(昭和54)年11月16日、社会教育課主催で、宮本常一を招いた『民具収集調査の意味』という講演会が開催されました。その中で宮本が発した「私は、民具学というのは、民具を研究するのではなく、民具で研究する学問だと思っているんです」という言葉は多くの調査団の心に刻まれたようで、民具調査団の資料には「民具を見るのではなく、民具で見ること」というフレーズが頻出します。宮本常一は『民具学の提唱』の中で、次のように述べています。

“つまり民具研究の根本問題は民具の形体学的な研究にとどまらず、民具の機能を通じて生産、生活に関する技術、ひいてはその生態学的研究に進むことに意味があると思う。生産、生活の技術、民具の生態学的な研究は、同時に人間の生態学的な研究にふかいつながりを持つものである”(民具学の提唱)

ただの民具コレクションに終わるのではなく、民具を通じて人間のありさま、そのものを見る。そういった視点は「モノからヒト」へと、安子さんら調査メンバーの関心を傾けていったのではないでしょうか。

聞き書き調査に使用したテープレコーダー 撮影:渡辺 葉

第一小学校に保管されていた民具を分類・整理し、さらに市内南部地区の未確認の民具の調査からはじまった民具調査団の活動は、やがて谷保の古老たちへの聞き書き調査、つまり昔の暮らしぶりを老人から直接聞いて「ライフ・ヒストリー形式」にまとめるという活動へと発展していきました。

小野
佐伯安子さん:
最初は録音機もありませんでしたから、話を聞きながら一生懸命メモをしていました。テープレコーダーというものが登場した時は、みんな大喜びしましたよ(笑)

子どもの頃の奉公話、夢中になった遊び、学校に行きながら食べたサツマイモの味、田んぼや畑・養蚕などの仕事、お祭りのこと、関東大震災や戦時中の体験談など……。谷保の集落を日々歩き、家々を訪ね歩きながら方言まじりの言葉に耳を傾ける作業、国立の歴史や民俗という枠を超えて、人間の「生」そのものに迫った濃い調査となっていきます。安子さんも、時には深夜までテープレコーダーと向き合って原稿を書くほどに、聞き書きにのめり込んだそうです。その成果は国立市文化財調査報告として、いくつかの冊子にまとめられています。

記憶の底からよみがえった労作歌や祝い歌の数々

老人たちの話の中から出てくる聞き慣れない話が出てくるたびに、民具調査団の調査テーマも拡大していきました。講や屋敷神、稲荷信仰、年中行事、郷土食などなど……。国立の古い生活全般を調べるようになったためか、会の名称も1983(昭和58)年には民具調査団から「くにたちの暮らしを記録する会」へと改称しました。そのような流れで、谷保に伝わる古い唄についても聞き取りが行われました。

小野
佐伯安子さん:
ある老人たちの集まりに参加した時に、一人の方が谷保の古い唄を歌い出したんです。それが『棒打ち唄』でした。なんですかそれは?と聞いているうちに、皆さんが古い唄を思い出して歌うようになり、一時期、地域で谷保の民謡がブームのようになりました。

撮影:渡辺 葉

農作業の機械化や、生活様式の変化によって忘れ去られていた労作歌や祝い歌が記憶から解き放たれた瞬間でした。谷保に伝わる唄は棒打ち歌だけではありません。繭から糸を紡ぎ出す際に歌われた「糸引き歌」、米を挽いたり、麦を挽いたりする際に歌われる「石臼ひき歌」、おめでたい席で歌われる「これさま歌」などなど……。

聞き取り調査の場が懐かしい唄を披露する機会として捉えられたのか、いつしか安子さんら民具調査団のメンバーがやってくるのを、谷保の古老たちが心待ちにするようになったといいます。

小野
佐伯安子さん:
歌が上手いとか下手とかは関係ないんですよ。とにかく、みんなで手拍子をしながら歌うことが大事で、皆さんとても楽しそうでしたね。

谷保の唄復興の機運は止まらず、1984(昭和59)年8月、谷保の中平地区で開催された地域の文化祭で、老人会による棒打ち歌の実演が行われました。若い頃に棒打ち作業を実際に体験した、あるいは作業を目にした世代の人々が、唄に合わせてくるり棒を振るいます。

棒打ち歌を実演した際の様子 提供:くにたち郷土文化館

棒打ち歌を唄う、地元のご婦人たち 提供:くにたち郷土文化館

その模様はビデオに残されていますが、棒打ちを終えて満足げな表情を浮かべる方、昔を思い出して涙する方、外には出せないような下品な歌詞を口にして大笑いする方、さまざまな顔があって、とても多幸感に満ちていました。

棒打ち歌の再現を記録したビデオがくにたち郷土文化館に保管されている 撮影:渡辺 葉

おじいちゃんは即戦力、地元のお年寄りを巻き込んで行われた文化継承活動

1985(昭和60)年からくにたちの暮らしを記録する会による、第一小学校の民具室での、小学3年生を対象とした「民具案内」がスタートしました。約2時間の体験学習で、国立の歴史について説明を受けた後、民具の見学をして、最後に石臼挽きや、ワラ縄をなう体験をします。このように会の活動はやがて、古い暮らしの記録から、記録した知識や知恵を伝承することへと移行していきました。

1994(平成6)年には、念願であった国立市の郷土資料館「くにたち郷土文化館」が開館し、暮らしを記録する会と連携した活動も増えていきます。まゆ玉飾り、ワラぞうり作り、煮ぃだんご作りなど、郷土の文化を体験するイベントには、地元のお年寄りたちも協力しました。

キャプション:ワラぞうり作りの様子 提供:佐伯安子さん

小野
佐伯安子さん:
暇のあるおじいちゃんたちをみんな引き入れたんですけどね。何しろ、全部自分たちでやってきたことだから、入るとすぐ即戦力になるんです。それを見越して誘ってきたんですけど、毎年2人ぐらいずつ亡くなられて、いまほとんどいなくなっちゃいましたね。大勢のお年寄りを送りました。

民具調査や聞き書きの調査を通じて、数多くの地元のお年寄りたちと触れてきた安子さん。その声はやや寂しそうですが、次のようにも語ります。

提供:佐伯安子さん

小野
佐伯安子さん:
でも、みんな楽しんでいたからいいかなと思ってね。みんなの前で話をしたり、唄を歌ったり、子どもたちと交流をしたり。歳をとって、ただのおじいちゃんとして過ごすよりも、晩年を生き生きと過ごすことができて、よっぽど楽しかったんじゃないかな。だから、(くにたちの暮らしを記録する会は)こんな地味な活動でね、あの人たちは何やっているかわからないと思われていたけれど、いかにも中身が濃かったですよ。

撮影:渡辺 葉

最後に、『くにたち郷土文化館 研究紀要 第1号』より、安子さんの言葉を引用したい。

“昔の国立の景観は、古くから住んでいる人々にとっては思い出すことができるだろう。こうした思い出は、後に引き継ぐ世代が大切にしていかなくてはならないことだと思う。物の不足していた時代に、家族のために真っ黒になって働いた人々は、忙しくて貧しかったけれど、家族を思い、隣人を愛し、助け合って生きてきた。人々の心は、何よりも暖かく、心の豊かな人間を育てるのに役立ってきたのではないだろうか”(くにたち郷土文化館 研究紀要 第1号)

過ぎゆく時代に取り残された人々の「感情」を掬い上げる

東京の民謡について調べようとアプローチしていたつもりが、思いもかけず、時代の転換期に市井の人々が圧倒的な情熱をもって地域の古い暮らしを調査・記録・伝承していたという事実に触れることになった今回の取材。話を聞きながら、安子さんたちの活動が消えゆく古い文化とその担い手たちを、ある意味では見届けるような役割を担ったのではないかと感じました。

明治時代以降の急速な近代化、大震災や戦争による破壊と再建、そして戦後の経済的な急成長。この激動の時代を懸命に生き抜いた世代に、後ろを振り返る余裕など微塵もなかったはずです。時代の変化を受け入れ、その中で生き抜いていくタフさを持ち合わせていた人たち。しかし力強く前を向き生きながらも、時間の流れの中に置き去りにしてきた残滓のような感情は誰しもあったのではないでしょうか。それがどういった感情なのか、私には推し量ることはできません。しかし、民具収集や聞き書き調査といった活動は、それらの「感情」を掬い上げ、多くの人々の心を救済した、棒打ち唄を歌って晴れ晴れした表情を浮かべるおばあさんたちをビデオで見て、そのように感じました。

土地の歴史を掘り下げていくという行為はすなわち、時代に置き去りにされた感情を見つけ出し、自分なりの方法で弔う行為なのだと、私はいま、そのように考えています。

取材協力:くにたち郷土文化館

<参考文献>
原田重久 著『わが町国立』(逃水亭書屋)1975年
国立市民具調査団 編『国立市文化財調査報告書第7集 くにたちの民具(1) 国立第一小学校収蔵の民具』(国立市民具調査団、国立市教育委員会)1980年
宮本常一 著『民具学の提唱』(未来社)1980年
国立市民具調査団 編『国立市文化財調査報告書第13集 くにたちの民具(2) 国立市民具資料』(国立市民具調査団、国立市教育委員会)1983年
くにたちの暮らしを記録する会 編 『国立市文化財調査報告書第20集 国立の生活誌 Ⅳ 谷保の暮らしの諸相』(国立市教育委員会)1986年
くにたちの暮らしを記録する会 編 『国立市文化財調査報告書第25集 国立の生活誌 Ⅵ 古老の語る谷保の暮らし(三)』(国立市教育委員会)1988年
野添憲治 著『ドキュメント出稼ぎ : 農業棄民の現場から』(社会思想社)1994年
「くにたちに歴史」編纂委員会 編『くにたちの歴史』(国立市)1995年
くにたち文化・スポーツ振興財団、くにたち郷土文化館 編『くにたち郷土文化館 研究紀要 第1号』(くにたち文化・スポーツ振興財団、くにたち郷土文化館)1996年
くにたち文化・スポーツ振興財団、くにたち郷土文化館 編『まち、ひと、くらし : 写真でみるくにたち : 文教地区指定50周年記念写真展』(くにたち文化・スポーツ振興財団、くにたち郷土文化館)2002年
くにたち郷土文化館 編『谷保の歌が聞こえる : 歌と共にみる村の暮らし : 平成25年度秋季企画展』(くにたち文化・スポーツ振興財団)2013年

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この記事を書いた人
オマツリジャパン オフィシャルライター
東京在住のライター/編集者。千葉県船橋市出身。2012年に佃島の盆踊りに参加して衝撃を受け、盆踊りにハマる。盆踊りをはじめ、祭り、郷土芸能、民謡、民俗学、地域などに興味があります。共著に『今日も盆踊り』(タバブックス)。
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