JR新宿駅から小田急線に乗り換え5分。代々木八幡宮の最寄り駅、代々木八幡駅に到着します。新宿駅の雑踏が嘘のような、ゆったりとした空気。心なしかカフェなど、時間を楽しむお店が多いようです。
駅を降り、代々木公園と反対方向に歩いて、また5分ほど。見えてくるのは、山を切り取ってきたかのような深々とした森。代々木八幡宮とその境内です。
令和3年(2021年)には創建810年を迎え、境内には縄文時代の遺跡や地域の歴史の足跡を知る術となる石碑や燈篭などがあり、さらには有名な出世稲荷社があります。
積み重ねてきた歴史を保ちながら、未来に発信する。代々木八幡宮に人々が寄せてきた思いを、禰宜の平岩小枝氏にうかがいました。
(以下文中、「」は平岩禰宜のコメント。『』は回想中のコメント)
代々木八幡宮の歴史 コロナ禍のなか八百拾年祭を祝う
代々木八幡宮が創建されたのは建暦2年(1212年)、鎌倉時代のこと。創建したのは宗佑(そうゆう)という僧侶でした。宗佑はもともとの名は荒井外記智明(あらいげきともあきら)といい、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の側近であった近藤三郎是茂(こんどうさぶろうこれもち)の家来でした。頼家公が暗殺された後、これを悲しみ、主家の菩提を弔おうと出家。名を宗佑と改めて、この代々木野で隠遁生活を送っていたそうです。
そんな折、夢の中で八幡大神からのお告げがあり、目が覚めると宗佑の手には宝珠の鏡があったのです。そこで宗佑は元八幡の地(現在の元代々木町)の林を切り開き、小さな祠を建てて、鶴岡八幡宮を勧請したとのこと。ここに、以降800年以上続く代々木八幡宮の歴史が始まったのです。
「令和3年(2021年)にはご創建810年を迎えることを記念し、社殿の銅板屋根の葺き替えや神楽殿などの改修工事を行いました。当初は宮神輿の渡御を予定していましたが、コロナ禍で担ぐことは難しく、トラックに宮神輿を載せて巡行する形としました。氏子さんたちが知恵を出し合って、立派に飾りつけや運営をしてくださいました。コロナ禍が終息すれば、来年には渡御をしたいと思っています。」
代々木八幡宮の宮神輿は、もともと代々木新町という甲州街道沿いにあった町のお神輿でした。しかし、昭和39年(1964年)の東京オリンピックを前に首都高速建設のため甲州街道が拡張されることになり、付近の住民が移転していなくなってしまい、お神輿を担げなくなり神社に奉納されることになりました。その後、きれいに装飾し直され、宮神輿として記念の年などに渡御が行われています。
この神輿にはこんなエピソードがあるのだとか。
「このお神輿は2度、大きな災害を免れているんです。
一度目は大正12年(1923年)。このお神輿ができたときのことです。お神輿は千葉の行徳の神輿屋で制作されており、9月23日のお祭りに合わせて受け渡されることになっていました。ところが、8月末にお神輿が完成したと聞くや、代々木新町の人たちは待ちきれず、行徳に押しかけ、神輿を自分達で持ち帰ってしまったそうです。その翌日、9月1日、関東大震災が発生し、行徳の神輿屋は全焼してしまいました。代々木のほうは、大きな被害はなく神輿も無事だったといいます。」
「二度目は昭和20年(1945年)の東京大空襲の時です。代々木新町は空襲を受け、すべてが焦土と化しました。ですが、このお神輿は神社に預けられていたため、焼失を免れたのです。
2回の大きな災禍を除けた強運のお神輿として、現在も大切に管理されています。」
代々木八幡宮の御祭神は八幡さまと呼ばれる応神天皇。応神天皇の時代は、日本に多くの大陸文化が伝わって来たため、“産業・文化の発展と守護の神”とされています。また、母君である神功皇后の神話から“安産”や“子育て”“家内安全”、さらには“開運厄除”“渡航安全(交通安全)”の神さまとしても崇められているそうです。
御朱印には大きく“代々木八幡宮”と記されています。
境内で代々木の歴史を辿る
境内に入って、まず感じるのは広い敷地に茂る緑。日光が遮られるためか、真夏でも涼しい空気が漂います。
代々木八幡宮は創建以来、江戸時代まで隣接する福泉寺が別当寺として管理してきました。創建当初の場所から、現在の場所には江戸時代に移ってきたとのこと。
明治に入ると、政府の神仏分離政策によって、神社は別当寺と分かれ独立します。
「戦後は神社の経営はどこも厳しくなり、境内地を手放して宅地化するところもありました。しかし、当社は地元の方々のご理解やご助力によって土地を手放すことなく、現在まご神域である森を守ることができています。」
境内では、代々木の地で暮らしてきた人々の痕跡を見ることもできます。
最も古いのは縄文時代の遺跡。都内で縄文時代の竪穴住居の復元住居跡が境内にある神社は珍しいのではないでしょうか。この遺跡が発見されたきっかけとなったのは、境内の朝の落ち葉掃きだといいます。
雨が降って土が流れたとき、地表に植木鉢の欠片のようなものを見つけた当時の宮司さんが、それらを集めて、近くの上原中学校の社会科の先生に相談。これは縄文土器ではないか…ということになり、クラスの中学生の生徒たちを引き連れてシャベルで地面を掘ったところ、多数の土器や石器を発見しました。
「当時、発掘をされた中学生さんたちは、すでに80代でいらっしゃいますが、今でも同窓会を開いていて顔を合わせると発掘話で盛り上がるそうです。
令和元年(2019年)に、住居跡の茅の葺き替え工事が行われた時、改修を記念してささやかなイベントが行われました。そこには、この発掘に実際に携わった上原中学の卒業生の方々と、現役の上原中学の社会科クラブの子供達、また、渋谷区の関係者の方々などが一堂に会し、専門家の先生から縄文時代のお話を聞いたり、縄文なべを試食したり、楽しいひと時を過ごしました。発掘当時の興奮を実際にお聞きすることができ、地域の良い交流にもなったと思います。」
戦争の歴史と故郷に寄せられた想い
神社の手水舎の近く、参道をはさんで1対の石燈篭があり、“訣別の碑”と呼ばれています。これは代々木深町(現在の代々木公園を含む富ヶ谷1丁目の一地区)の住民が、陸軍練兵場が作られることになり強制移転を余儀なくされたため、故郷や親しかった近所の人たちとの別れを惜しみ、名前を刻んで神社に奉納したものです。
「もう十数年前になりますが、“訣別の碑”にお名前が刻まれている方のお孫さんが当社を訪れ、長い年月、風雨にさらされ、台座も木の根に持ち上げられて傾いてきてしまっている。『なんとか直せないか』と相談されたのです。そして、『せっかくなので、ここに名前が刻まれている元深町の住民の子孫の方々を探して、一緒に修復したい』と提案されました。
その後、1年かけて趣意を掲示したところ、驚いたことに数名の方が名乗り出てきてくださり、みんなで費用を出し合って修復を実現することができました。今は、その修復をされた方々のお名前もプレートに刻んで説明板の下に付けられました。」
“訣別の碑”が建てられたのは明治41年(1908年)。修復に参加された一人の方は、神社にお参りに来るたびに、今は亡きお祖父さんから代々木深町での暮らしや碑のことを聞かされていたといいます。代々木八幡宮の都心とは思えない、のどかな空気は、住民の方々の家族を大切に思う温かな心に通じているのかもしれません。
境内の森の中央あたりにあるのは“表忠碑”。日露戦争の際に、代々木の地域から出兵した人々の名を刻んだ石碑です。表忠碑は愛国の証として各地に建立されました。この石碑も、当初は近隣の幡代小学校の校庭にありましたが、戦後は逆に軍国主義の象徴とされ、多くが取り壊されることに。しかし、当時の校長先生が『この地を守ろうと頑張ってくださった方々の気持ちが込められているものを壊すのは忍びない』と神社に相談。当時の宮司が意向を受け入れ、境内に移転されて今日まで残されたのです。
社殿の右横に伸びる小道の奥にあるのは、仕事運や出世運、金運アップなどで人気となっている出世稲荷社。先の戦争で東京大空襲の際に近隣地域で焼けてしまったお稲荷さんを、氏子たちが神社まで持ち寄ったことが始まりだそう。
神使のキツネの顔つきや造りがそれぞれ違い、さまざまなところから集められて祀られたことがうかがえます。キツネには赤い前掛けが付けられていますが、これは神社で用意しているのではなく、参拝者の方々が作って、汚れるといつのまにか新しいものに交換されているとのこと。冬にはマフラーが巻かれていることもあるそうです。
積み重なった地域の歴史を未来につなげる
毎年5月には“金魚まつり”が開催されます。
“金魚まつり”の由来は、春に行われていた五社宮祭というお祭りに、金魚売りが金魚を売りに来たことにあるといいます。金魚まつりが始まったのは大正の頃。関東大震災後、この辺りは急速に人口が増えました。
当時、家で金魚を飼うことが流行りました。5月には府中の大國魂神社で“くらやみ祭り”という大きなお祭りがあり、そこへ多くの商人がこぞって詰め掛け商売をした後、甲州街道をのぼって帰京する折、五社宮祭が行われているこの代々木の地にも立ち寄って積み荷をさばいたそうです。その中には金魚売りもいて、いつしか五社宮祭が“金魚まつり”と呼び親しまれるようになりました。
この金魚まつりは、戦争によって昭和の初めにはなくなってしまいましたが、平成18年(2006年)に新しい子供のお祭りとして復活し、祭りの日には多くの人で賑わいます。
深々とした緑の森が広がる代々木八幡宮ですが、都会の中で、この自然を保つことは大変なことであるそうです。
「近年は気候変動で木が弱っているようです。自然災害も多く、春の突風や秋の台風などで巨木が相次いで倒れたこともあります。森の管理をしっかりやらなくてはいけません。」
縄文時代から今日まで、5000年以上の人々の営みがこの地には積み重ねられています。
そして、次の時代へも伝統と文化を発信していく場となっています。
令和3年の今年、代々木八幡宮では創建八百拾年祭の記念事業として、大正12年以来百年ぶりとなる社殿の銅板屋根葺き替えを行いました。
「銅板を奉賛される方には、銅板の裏にお名前や願いごとなどを書いていただきました。また、百年後に銅板の葺き替えを行う際には、そのお名前を目にすることができます。今の方々の想いが、次世代の方々に受け継がれれば良いと思っています。」
おわりに
代々木八幡宮の歴史や祭礼、遺跡などの説明を聞いてから境内を散策すると、それまでとはまた違った目で景色を楽しむことができるはずです。新宿や渋谷、原宿からも近い代々木八幡宮。少し足を伸ばして訪れてみてはいかがでしょうか?