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東日本唯一の現存天守「弘前城雪燈籠まつり」が開催される弘前藩祖・津軽為信はどんな人物だったのか

2023/2/4
2023/8/11
東日本唯一の現存天守「弘前城雪燈籠まつり」が開催される弘前藩祖・津軽為信はどんな人物だったのか

江戸時代からの現存天守12箇所のうち東日本唯一の弘前城。天正18年(1590)、津軽地方の統一を成し遂げた大浦為信(後の津軽為信)が、豊臣秀吉から4万5千石の領地を獲得。後に関ヶ原合戦で東軍につき、徳川家康より加増を受け4万7千石の弘前藩が成立しました。

弘前城の築城は慶長9年(1604)為信が京都で客死したため中断しますが、慶長14年(1609) 2代目信枚が築城を再開、慶長16年(1611)、 僅か1年と数か月で弘前城が落成します。当時の天守は寛永4年(1627)に落雷のため焼失、現在は文化8年(1810)に再建されたものです。

現代では桜の名所として名高い弘前城ですが、「弘前城雪燈籠まつり」は、雪深い地域ならでは城の荘厳さと、燈籠の暖かさを堪能できます。そんな弘前城と、弘前藩の礎を築いた津軽為信とはどんな人物だったのか?歴史家の乃至政彦さんに伺いました。

津軽為信の独立と地域統一

津軽為信

津軽為信は、陸奥国弘前藩の初代藩主である。

天文19年(1550)生まれ。時代的には、同年、北信濃の村上義清が武田晴信を破り、翌年には周防で大内義隆が横死する大寧寺の変が起こり、まさに戦国の世という情勢であった。

為信は、大津守信の息子とも、主君南部氏の庶流ともされるが、この辺定かではない。

14歳で大浦為則の娘お保良の婿となり、大浦為信を名乗って大浦城主となった。為信は糠部(ぬかのぶ)郡の三戸(さんのへ)南部晴政に従属していたが、元亀2年(1571)5月、南部家中の内紛に乗じて津軽郡代の南部高信(たかのぶ)を自害させ、ついで小山内(おさない)満安父子を殺害。ここに独立勢力と化したあと、近隣の諸城を攻略して、勢力拡大に成功した。

天正6年(1578)には大動員をもって浪岡御所(青森県浪岡町)の北畠顕村を攻めてこれを殺害せしめ、浪岡北畠家を滅ぼした。浪岡攻めでは不逞の輩をも兵に加えたが、その功に報いて士分に取り立てたと伝えられている。

戦国らしい戦国武将がここに一大勢力を構築した。津軽に並ぶものなき大豪として君臨した為信の威勢恐るべしと、従属する豪族も続出したという。

天正13年(1585)5月には田舎館の千徳政武を滅ぼし、ついに津軽統一を果たした。為信、36歳の若さであった。

天下取りの夢

ここまで大きな順風に乗って津軽の統一事業を果たしてきた為信だったが、戦国武将としてのタイムリミットが迫っていた。

本能寺の変で織田信長が横死したあと、事実上の後継者と化していた織田旧臣・豊臣秀吉が急速に勢力を広げていたのだ。

豊臣秀吉

その夢はもちろん天下平定である。

秀吉と為信の年の差は13歳。生まれ育った時代と土地が異なるとはいえ、こちらが津軽統一に命をかけて回っている間に、秀吉は日本統一を実現しようとしていた。

とはいえ、為信はおのれの力量を心得ている。身の丈に合わない夢を見るつもりはない。それよりもおのれが築いた勢力を長く保つことこそが重要である。

津軽を公領となす

弘前城 写真/フォトライブラリー

天正13年(1585)9月、津軽為信は、天下人・豊臣秀吉に挨拶するため、上洛の途につく。鯵沢(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町)より軍船を使い、海路をつたって京都を目指すことにした。

しかし折悪く大嵐が為信の船を激しく揺らした。逆風が為信を襲う。一向に止む気配がない暴風雨に、身の危険を感じた為信は、ここで咄嗟に「海難に遭った時、宝物を海中に投じて海神に祈りを捧げて助かった者がある」という地元の伝承を思い出した。あるいはこの時家臣から聞かされてこれを知った。

ここに為信は、家宝として伝わる三尺三寸の太刀を取り出すなり、荒れ狂う海に力強く投じて、心中に深く念じた。

すると、ほどなく風が落ち着き、船はなんとか松前(まつまえ)沖に到着した。命拾いしたものの、失ったものも少なくなく、海路上洛はここに諦めることとした。宿泊した三厩(青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩)で錨を降ろして網をかけると、昨日の宝刀「大原眞守(おおはらさねもり)」が見つかった。為信はこれに「綱丸」と名付けたという。

為信は諦めず翌年も上洛を試みることにしたが、今後は陸路を使うことにした。しかし陸地では敵たちに連続して妨害され、その度に挫折しかけた。それでも為信は執念を燃やし、天正17年に家臣を上洛に遣わし、ついに秀吉と面談させ、所領安堵を認めさせることにした。

津軽為信が、公領津軽の為政者となった瞬間であった。

これまで侵略と謀略に明け暮れる日々であったが、これからは一地域の保護者として領民を守り、またこの責務を子孫に伝えなければならない。為信は心の切り替えに抵抗なく、時代を読んで、自らの天命を見直すことのできる人物であった。

為信の勇力と胆力が、270年近く続いた弘前藩4万7000石の源泉となったのである。

弘前城(旧名・鷹岡城)は津軽為信が築かせた城で、今は「弘前城雪燈籠まつり」で、その威風に触れることができる。

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