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上杉謙信と「謙信公祭」~上杉謙信の唐沢山城救援事件~

2022/8/18
2023/8/11
上杉謙信と「謙信公祭」~上杉謙信の唐沢山城救援事件~

新潟県にゆかりのある戦国武将・上杉謙信。今年、2022年は上越市にて3年ぶりに「謙信公祭」が開催となります。
上杉謙信はどんな武将で、どんな縁があるのか?また「謙信公祭」で再現される武田信玄との川中島合戦とはどんなものだったのか?最終回となる今回は、上杉謙信に関する書籍を刊行する歴史家・乃至政彦さんに、地元新潟で愛される「謙信らしさ」、「義将」と呼ばれる由縁のわかるエピソードをご紹介いただきました。

上杉謙信の精神

上杉謙信は、義に厚く、勇猛な武将だったことが知られている。
また、謙信は実子を残さなかったので、その子孫は謙信の血統ではなく、精神を受け継ぐことを意識した。上杉家の家督は、謙信から5代目の上杉綱憲より謙信と無関係の一族となっているが、それでも上杉鷹山や上杉茂憲など謙信の家風にふさわしい当主を幾人も排出した。

かれらは家祖・謙信の精神と名誉を意識して、本道を外れる所業をするまいと自問しながら生きたのであろう。
一時期どん底に陥っていた藩政を立て直した鷹山は、後継者に向かって「国家は祖先から子孫に伝え残すもので、為政者が自分のために使っていいものではない」「民は公に属すもので、為政者が私有するものではない」「公と民のために為政者があるのであって、為政者のためにあるのではない」などと、為政者としてあるべき姿を伝えている。その実績に相応しい無私の精神である。
上杉家の名君たちは、数々の難題に対して、高い理想を掲げることで立ち向かった。その家風を支えたのは、心の象徴たる謙信という存在にあった。

このためだろうか。上杉謙信という人物をフィクションにするとき、その精神を再生できていれば、雰囲気や外見にブレがあっても気にされない傾向がある。それどころか性別すら変わっていても構わないという土壌すらある。

これは武田信玄や毛利元就などほかの英雄ではちょっと考えにくいことである。これを何より顕すのが、新潟県の「謙信公祭」だ。GACKT氏が妖麗な若き謙信像を何度も演じたことは有名だ。その後、上杉家の17代当主・上杉邦憲氏が謙信役を演じた。

また、古典的な謙信像を再現せんとする「謙信公義の心の会」会長・石田明義氏も深い芸術や仏教への造詣を入れ込んで謙信らしさを体現した。さらには女性である斉京貴子氏も謙信の優しい面持ちを好演した。どれもまるで違う謙信だが、どこかぶれない“謙信らしさ”がある。

謙信らしい振る舞い

忍城

今回は、その“謙信らしさ”の一端をよく伝える逸話を紹介しよう。
生前の謙信と親衛隊は、弓鉄炮などの飛び道具を意に介することなく、最前線に躍り出るのを当然のこととしていた。北条氏康の小田原城を囲んだときも謙信自ら北条兵の銃弾が届く距離まで進み出て、何発か謙信側近の毛髪を掠めたが、誰ひとり気にする様子もなかった。

武蔵忍城を攻めたときも、謙信は単騎で危険地帯へ駆け入り、激しい銃撃を無視して兵たちの指揮を執り、鉄炮兵の目を丸くさせたことが伝えられている。どう考えてもこれは普通の神経ではない。後世、武神の化身がごとく祭りあげられるようになったのも道理に思える肝の太さだ。

危機迫る唐沢山城と佐野昌綱

佐野昌綱の肖像

さて、あるときのこと―。
関東の覇権を狙う北条軍が大軍を催した。北条軍は関東制覇を目指している。謙信は現地の小大名たちから「助けてくれ」と頼まれて出兵を繰り返していた。

しかし謙信の本拠地は関東ではなく、雪深い越後国である。雪が解けると関東に出て、雪が降る前に越後へ戻る。その間、謙信は向かうところ敵なしで、あちこちの敵対勢力を攻め下す。ところが謙信がいない間、北条軍も関東各地におどしをかけて、勢力を盛り返す。こんなシーソーゲームが続いていた。

さて、舞台は下野国の唐沢山城。強豪・佐野昌綱の居城である。北条軍の総大将・北条氏政は、昌綱があるときは氏政に、またあるときは謙信に味方したりするので、今度こそこちらのものにしてくれると、本気を出してきたのだ。その兵数、3万5000人。北条軍史上最大の動員人数であった。

昌綱の兵数はこの数分の一程度である。籠城した。北条軍も力攻めはしない。唐沢山城は巨大で、堅牢な作りである。無理に攻めれば、多くの人命を失うのは必然だからだ。もし痛手を負っているところへ謙信がやってきたら大変な目に遭う。ゆえに氏政は慎重策を選んだ。

氏政の勝算

北条氏政の肖像

北条氏政は唐沢山城から少し離れたところに布陣した。あまり近づく必然はない。第一、昌綱に迎撃する力などない。それでも降伏しないのは、家督を継いで間もない当主なので、城中の主戦派と降参派の意見をまとめられないからだ。
ここをうまく突いてやれば、昌綱は北条軍にとって最良のタイミングで去就を決するに違いない。最良のタイミングとは、こちらまで救援に向かっている上杉謙信の軍勢だ。

謙信の人数は関東を席巻する北条軍に及ぶべくもない。城中の主戦派が謙信の人数を見れば、肩を落とすだろう。実際、謙信は8000人の兵を連れて動いていた。北条軍の30%以下である。上杉軍が着陣して北条軍に向けて対峙したときが狙い目である。昌綱が氏政の狙い通り、北条軍に降参すればこちらの勝ちである。

これこそが昌綱にとっても最大の売りどきだ。もし昌綱が「いやいや、我らははじめから一貫して北条派です」と友好姿勢を見せてきたら、すぐさまともに謙信を挟撃して蹴散らすのである。そして戦後の首実検を昌綱の前で行ない、人質を接収して厚遇を約束したあと、小田原城へ引き上げるのだ。

23騎vs.3万5000人

唐沢山城

やがて謙信率いる上杉軍が接近してきた。相次ぐ連戦で負傷者を含める8000人の軍勢は、越山したあと、ゆるゆると南下する。

唐沢山城が見えるころ、謙信は主だった者たちに向かい、「我が軍は我に劣らぬ侍大将が多いので安心だ」と述べた。そして「佐野昌綱の城が心配である。まず我だけでも城へ入り、力添えしてくれよう」と告げると、たった23騎の供廻りだけを連れて進み始めたのだ。

やがて北条軍の気配が感じられる。しかし、我と彼の間には峰があり、こちらへ急襲することはできない。謙信は悠然と馬の足を前に運ばせ、唐沢山城の城門まで歩み寄る。
「開門!」
このとき、城門(現在は慶安寺の山門に移築されているという)が開いた。佐野昌綱は、謙信を討ち取る絶好の機会であったが、謙信を迎え入れることにした。北条軍の将士は「夜叉羅刹のようなことだ」と歯噛みして、これを遠望するのみだった。

作戦失敗―。
ここに唐沢山城の旗幟は鮮明となった。北条側ではなく、上杉側だと確定したのである。状況を変えたのは、古今より伝わる兵法軍学の定石ではない。謙信が暗殺覚悟で、敵味方定かならぬ佐野昌綱の懐に飛び込んだのが、勝因だった。長居は無用、北条氏政は撤退を指令して、全軍を引き上げさせた。

この逸話は、よく謙信が北条の大軍を恐れなかったという形で伝えられているが、そうではなく佐野昌綱を恐れなかったのだ。昌綱の矜持を信じ、無防備な姿で昌綱の胸中へ飛び込むことで、その裏切りを未然に防いだのである。

士はおのれを知る者のためにこそ死す―。関東諸士の心を動かすのは、物量や戦闘の優劣ではない。自らの武威でかれらを屈服させても、北条軍の脅威が迫れば、また敵方に転じてしまう。ならば、率先して度量と勇気を示し、武士の心を摑み取るまでだ。
政治や軍事の物理的力関係は流動的だが、精神と名誉は永久普遍である。ゆえに謙信は、不合理な賭けに出て、佐野昌綱とその家臣たちの心を勝ち取ったのだ。

このようにして侍が理想とする心を追求し、実践していった謙信は、その死後、神格化を獲得するに至る。こうした武神・上杉謙信の威徳は、今もなお「謙信公祭」において“謙信らしさ”を再現したいと思う演者の姿を通し、親しく触れることができる。

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