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紫式部も清少納言も同じ祭りを見ていた!千年続く京都三大祭りの一つ「葵祭」とは?

2022/12/15
2024/3/4
紫式部も清少納言も同じ祭りを見ていた!千年続く京都三大祭りの一つ「葵祭」とは?

古都の魅力あふれる京都は、国内のみならず海外からも絶大な人気を集めています。京の都が栄華を誇った平安時代、貴族によって行われていた雅な祭礼や行事は今なお受け継がれていますが、その代表格が「葵祭(あおいまつり)」です。

1,000年あまりも前に、清少納言や紫式部も同じ光景を見て、作品に登場させていたという葵祭。一体どのようなお祭りなのか、由来や見どころなどをご紹介しましょう。

葵祭の始まりは?

祇園祭、時代祭とならび京都三大祭りの一つと称される葵祭。元々は「賀茂祭(かもさい)」と呼ばれていた、下鴨神社と上賀茂神社の例祭です。
現在は毎年5月15日に行われ、500名もの行列が京都御所から下鴨神社を経由して上賀茂神社まで約8kmの道のりをゆっくりと進み、爽やかな初夏の京都が平安時代にタイムスリップしたかのような情景に包まれます。

祭りの起源は京都三大祭りの中で最も古く、約1500年前の大和時代までさかのぼります。当時は度重なる風水害により凶作が続いていました。
欽明天皇が占いをさせると原因は賀茂の神様の祟りだと分かり、それを鎮めるため馬に鈴を付けて走らせ五穀豊穣を祈願したのが祭りの始まりといわれています。

 

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都が京都に移って平安時代になると、天皇が国の平和を願って使者である勅使(ちょくし)を派遣し、祈りを捧げるという国家的な祭りへと発展します。

この勅使が賀茂社へと向かう道中の行列が、次第に注目を浴び大勢の観客が集まるようになりました。これこそが現代でも最大の見どころである行列「路頭(ろとう)の儀」になったというわけです。
また、勅使が賀茂社で捧げる祈りは「社頭(しゃとう)の儀」と呼ばれ、こちらも今の葵祭で変わることなく斎行されています。

最大の見どころ「路頭の儀」と「斎王代」

現在の路頭の儀には2つの行列があり、勅使の役目をする近衛使代(このえつかいだい)を中心とする「本列」と、その後ろに斎王代(さいおうだい)を中心とする「斎王代列」が続きます。

 

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斎王というのは、平安時代に皇室の未婚の女性から選ばれて賀茂社に奉仕した女性のことです。現代では京都市民の女性から1名が選ばれ、斎王に代わる「斎王代」としてその役割を担います。美しい十二単をまとった斎王代は、腰輿(およよ)と呼ばれる輿に乗って優雅に都大路を進むのですが、その華やかな姿はまさに葵祭のヒロインです。

ちなみに葵祭の名前の由来は、賀茂社の神紋である二葉葵にちなんで社殿には葵を飾り、斎王代や腰輿をはじめ、祭りに参加するすべての人々や乗り物が葵の葉を付けることからきています。

5月初旬からの「前儀」にも見どころたっぷり

「路頭の儀」が行われる5月15日よりも前に、葵祭では5月初旬から様々な儀式が「前儀」として行われています。例えば、5月3日に下鴨神社で行われる「流鏑馬(やぶさめ)神事」は、日本三大流鏑馬の一つとして有名です。

5月4日には、上賀茂神社と下鴨神社で毎年交互に「斎王代女人列禊の儀(さいおうだいにょにんれつみそぎのぎ)」が行われます。これは斎王代と女人たちが身を清める儀式で、雅楽が流れる中、平安装束を身につけた50余名の女人列が進むさまは雅な王朝絵巻を彷彿とさせます。

5月5日には上賀茂神社で「賀茂競馬(かもくらべうま)」が行われ、2頭の馬の勝敗でその年が豊作かどうかを占います。

 

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5月12日には上賀茂神社で「御阿礼神事(みあれしんじ)」が、下鴨神社では「御蔭祭(みかげまつり)」が執り行われます。いずれもコロナ禍でも中止せずに斎行された、神霊を賀茂社に迎えるための大切な神事です。

紫式部が「源氏物語」に書き、清少納言も絶賛!

単に「まつり」といえば葵祭(賀茂祭)のことを指すほど、平安時代の当時から見物客がごった返していた葵祭。世界最古の小説といわれる「源氏物語」では、作者の紫式部が、熱狂する葵祭を女性同士の恋愛のバトルの舞台に設定し、巧みに活写しています。

それは第九帖「葵」の「車争い」の場面。禊神事の行列に参加する光源氏の晴れ姿を一目見ようと、元恋人の六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は目立たぬよう古びた網代車に乗ってやってきます。そこへ後から正妻の葵の上の牛車がやってきて、場所の取り合いでお供の者たちが大乱闘になってしまうのです。

結局、立ち退かされ車も壊され、大勢の見物客の前で恥をかかされた御息所は、嫉妬と屈辱から生き霊となって葵の上に取り憑き、とうとう殺してしまうというストーリーです。

また、日本初の随筆といわれる「枕草子」を書いた清少納言も葵祭を絶賛。行列に参加する人々の美しい装いや初夏の風景の爽やかさなどを愛で、祭りが終わった後の切なさを「枯れた葵」に重ね合わせて綴っています。

葵祭の後の切なさについては、吉田兼好も自身の随筆「徒然草」の中でふれており、時を経て鎌倉時代になっても、葵祭は変わらず愛される祭りであり続けたことが分かります。

おわりに

この記事では、元々は賀茂祭と呼ばれていた「葵祭」をご紹介しました。
途中、戦乱の時代には長期中断もあり、ここ数年のコロナ禍では神事のみ行い、祭りのハイライトである路頭の儀が中止になったりもしました。

それでも1,000年もの間に京都の町に刻まれた歴史と育まれた文化が、誇りと情熱をもって祭りという形で表現されているように感じられます。

興味をもった方はぜひ、最新の情報を京都観光公式サイトなどでチェックして次回の葵祭を訪れてみてはいかがでしょうか。

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