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規制、抑圧、弾圧?江戸時代の盆踊りをめぐる人々と藩のバトルを知ろう!

2020/8/12
2024/3/8
規制、抑圧、弾圧?江戸時代の盆踊りをめぐる人々と藩のバトルを知ろう!

夏の風物詩であり、お盆に欠かせないイベントでもある盆踊り。江戸時代初期までに現在の様式が確立され、町民・農民問わず日本各地で踊り継がれました。 しかし、盆踊りは幕府や藩にとって脅威の対象であり、数百年に渡って規制や弾圧が行われたのはご存知でしょうか?そこで今回は幕府と藩による盆踊りへの抑圧と、それにどう人々が向き合ってきたのかをご紹介します! なぜ盆踊りは人々には親しまれ、時の権力者には恐れられたのか。この記事を通じて、盆踊りの歴史に少しでも興味を持っていただければ幸いです!

北海道で行われる中標津夏まつりの特徴である提灯。 KAZU/写真AC

なんで問題視された?江戸時代初期の盆踊りを知ろう!

元々盆踊りはお盆の行事の一つということもあり、先祖供養が主な目的でした。しかし、風流など多彩な民俗文化と融合することで宗教色が薄れ、17世紀までには現在と同じような姿へと発展を遂げます。以後も徳川家によって平和な時代がもたらされたことで、盆踊りは全国の至る所で踊られるようになりました。

このように盆踊りは盛り上がりを見せる一方で、幕府は年々盆踊りを危険視するようになりました。その理由は大きく分けて3つの理由が挙げられます。

1つ目は風紀の乱れ。人々にとって盆踊りは宗教的な行事であるだけでなく、将来のパートナーを探す貴重な機会でもありました。しかし出会いの場でもあったということは、踊りの裏では破廉恥な行為が伴ったことを意味します。さらに人々の生活水準が上がるにつれて、着てくる衣装が派手になったり、町によっては踊りが大掛かりなものへと発展しました。藩はこれらを規律の低下、または身分不相応の贅沢として取り締ることになります。

2つ目はトラブルの増加。大勢の人々が密集して賑わう環境では、どうしても社会秩序が乱れ、言い争いや喧嘩が発生しやすくなります。さらに、幕府は盆踊りによって生じるエネルギーが暴動へ発展するきっかけになることを何よりも恐れていました。特に江戸中期以降の政策によってしばしば人々の不満が高まる中、藩は秩序を保つためにより神経をすり減らすことになります。

3つ目は武家の退廃に伴う威厳の崩壊。17世紀末から18世紀に商業と都市が発達し、人々の生活はより豊かになりました。しかし、同時に米の価値が下がったことで、年貢米が財政の源泉である藩は経済的に困窮し始めます。生活がだんだん貧しくなる中、不満を抱えた侍が城下で遊興にふけるようになることで、武家の権威は少しづつ失墜してしまいます。

すなわち、藩は盆踊りを取り締まることで秩序を維持すると同時に、武家社会の威厳を取り戻すことを目的としていました。では実際にどんなことが行われていたのか、江戸と大阪を実例に見ていきましょう!

はむぱん/写真AC

幕府・藩がとった行動とは?江戸と大阪の例から知ろう!

一つ注意していただきたいのは、幕府は初めから盆踊りを規制していた訳ではありません。実際に江戸では踊りが禁止されていた反面、盆踊りだけは例外的に許可されていたことが、1650年の御触れから確認できます。この様な背景を元に、江戸の人々は多種多様な種類の踊りを夜通し楽しんでいたと考えられています。しかしあまりにも派手になったことが幕府に問題視され、ついに1685年には江戸城下での盆踊りが禁止に。18世紀以降はほどんど行われなくなってしまいました。

似たような現象は他の都市でも確認することができます。特に天下の台所と呼ばれる大阪では商人の経済力を背景に、なんと盆前後の1ヶ月に渡って盛大な踊りが催されていました。しかし、これも禁令が出されたことによって衰退。その後は全国の藩も幕府に追従して取り締まった結果、多くの地域で盆踊りの文化が失われることになります。

以上のように、幕府による介入は盆踊りに壊滅的な影響をもたらしました。しかし、このような歴史的背景があったのにも関わらず、なぜ盆踊りは完全に消滅しなかったのか?阿波踊りと郡上おどりのケースからその秘密にせまります!

東京・増上寺の盆踊り。現在における東京の盆踊りは近代に始まったのが大半です。 kiki15/写真AC

[阿波踊り]藩vs町人の熱い戦いの歴史!

阿波踊りの本拠地であり、徳島藩の城下町でもあった徳島市。阿波国で盆踊りがここまで発展した理由は、藍産業にあります。衣服の塗料として使われた藍は、特に吉野川周辺の土壌が栽培に適していたこともあって、17世紀後半には藩の主要産業にまで成長しました。

この時代背景の中で台頭したのが、藍商と呼ばれる商人達です。彼らは取引先である大阪や江戸で多くの芸能に触れ、それらを阿波国へ持ち帰ることで、盆踊りに多大な影響を与えました。郷土史家である三好昭一郎は江戸時代中期の盆踊りの様子をこう説明しています:

「藩政初期以来盂蘭盆行事として城下一円を賑わしてきた盆踊りは、藩内最大の都市イベントであり、大多数の城下と近隣の領民にとって大いに楽しむ年中行事として定着していた。盆踊りは昼間に繰り出す華麗な組踊りや衣装自慢や芸自慢の俄と、夜に入って賑わす有来たりの踊りと呼ばれた本来の盆踊りが展開していた(後略)」(2001: 160)

組踊りは風流踊りの一種であり、その規模は100人以上が華麗な衣装を着て踊り歩く大掛かりなものでした。それに対して俄(にわか)は路上で寸劇などの芸能を演じる、いわいるストリートパフォーマンス。衣装は華美なものから浴衣まで様々で、18世期から衰退した組踊りに代わって流行しました。最後の「有来たりの踊り」は「ぞめき踊り」とも呼ばれ、江戸時代初期から先祖供養を目的とした小規模な輪踊りのことを指します。しかし、時代の経過とともに他の芸能文化を吸収することで大型化・パレード型に進化します。

このように、徳島では多種多様な踊りが盛り上がりを見せる中、当然藩はこの状況を危険視するようになります。特に危惧していたのは、多くの侍が盆中の外出は禁じられているにも関わらず、秘密裏に参加していたこと。このままでは風紀の乱れだけでなく武士の威厳が損なわれると判断した藩は、盆踊りの取り締まりを強化するようになります。

とはいえ、17世紀後期の時点では不届き者を検挙しやすいように被り物の着用を禁じるなど、藩は盆踊り自体を規制することはしませんでした。しかし、蜂須賀重喜が藩主の時期(1754-1769)には、組踊りの停止と、盆踊りでの三味線や太鼓などの鳴り物が使用禁止が命ぜられるなど、取り締まりは熾烈を極めます。

人々はこのような規制の中、どのように反応したのか?1779年の御触れによると、人々は禁止令の効力が及ばないお盆明けの他、町奉行の管轄外である町の郊外で踊っていたことがわかります。また、禁止されたはずの組踊りも各町内で秘密裏に行われていたとか。以降も藩による規制は強化されましたが、最終的に盆踊りは幕末まで存続し、阿波踊りの基礎を築くことになります。

このような規制の反面、徳島では他地域と違って盆踊りが完全に禁止された訳ではなく、また取り締まりも時代によって温度差があったことも指摘しなければなりません。その理由として「盆景気」と呼ばれる、盆踊り開催による経済的利益が大きかった他、藩といえども宗教色が残っているぞめき踊りを禁止することができなかったかことが挙げられます。いずれにせよ、人々の盆踊りに対する情熱と反骨心が、江戸時代における徳島での盆踊りを支えたのです。

阿波踊り KPG_Payless / Shutterstock.com

[郡上おどり]藩と人々は必ずしも敵対していない!?

岐阜県の郡上おどりは藩が盆踊りを監視しつつも禁止しなかった、非常に珍しい例です。

郡上藩の拠点であった郡上八幡では17世紀後期に行われた城下町整備によって住人が増加し、各町内で盆踊りが行われるようになったと考えられています。しかし、1750年代に発生した郡上一揆による混乱で一時は踊りどころではない状況に。その後は改易された金森家に変わって青山家が入部したことで、町はかつての興盛を取り戻します。

青山家は盆踊りを弾圧することはせず、またそれ以外の踊りや芸能も届出制にすることで、町の秩序を維持していました。一例として1840年に以下のような通達がなされています。

  1. 火の用心を念入りにすること
  2. 盆踊りは14日から16日の間のみ許可する
  3. 被り物や特異な衣装は禁止する

また藩による許可の元、幕末には盆以外でも寺社での祭礼で踊りが行われるようになります。今日では盆時期を含むこれらの日程は「七大縁日」と呼ばれ、現在の郡上おどりの礎となりました。

一つ指摘しておくと、郡上八幡の盆踊りは徳島などと比べると遥かに小規模で、また家臣たちが興味を示すこともほぼなかったため、藩としてもそこまで危険視する必要がなかったことも事実。とはいえ、このような藩の比較的寛大な対応のおかげで、郡上おどりは平和的に近代まで受け継がれてました。

郡上おどり 写真提供:郡上八幡観光協会

おわりに

いかがでしたか?総括すると、盆踊りは経済と庶民文化の発展によって一時期は最盛期を迎えるものの、以降は幕府と藩による取り締まりによって衰退の一途を辿りました。今日まで踊られている盆踊りは、時には権力者に逆らいながらも、人々の汗と情熱によって支えられてきたのです。今回は具体例として阿波踊りと郡上おどりを取り上げましたが、どの盆踊りにもそれぞれの歴史があるはず。来年とある盆踊りに参加する際には、その歴史を学ぶことでより楽しめるかもしれません!


本記事は、以下の論文を参考にして作成しました。(順不同)

上念 司 (2019). 経済で読み解く日本史 <江戸時代> 文庫版, 飛鳥新社.

曽我 孝司 (2016). 郡上踊りと白鳥踊り -白山麓の盆踊り-, 雄山閣.

三好 昭一郎 (2003). 元禄期徳島城下における盆踊りの隆盛とその背景–地方都市社会史の一断面, 鷹陵史学, (29), 233-269.

三好 昭一郎 (2003). 近世後期徳島城下の盆踊りと藩の諸対策–長谷川近江専断期から寛政改革期へ, 法政史学, (59), 1-22.

三好 昭一郎 (2001). 蜂須賀重喜の藩政改革と芸能政策–徳島城下の盆踊り取締りを中心として, 鷹陵史学, (27), 147-172.

佐藤 正志 (2019). 地域民間芸能の観光資源化と地域振興 : 阿波踊りの事例から, 経営情報研究 : 摂南大学経営学部論集 26(1・2), 109-130.

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