祇園祭とは
祇園祭は7月1日から31日までの1か月間もの間、神事や行事が行われる京都・八坂神社のお祭り。貞観11年(869年)に疫病が蔓延したため、御霊会を行ったのが祇園祭のはじまりといわれます。
祇園祭の最大のみどころは絢爛豪華な山鉾による「山鉾巡行」。例年は前祭(さきまつり)の7月17日の巡行に23基、後祭(あとまつり)の7月24日の巡行に10基、全部で33基の山鉾が京都の街中を巡ります。御神輿が通る前に厄を集め、清めるのが山鉾の役目です。
「鷹山」が巡行!長い時を経て迎えた復活の日
祇園祭が始まった時代のように、奇しくも近年、また疫病により日本のみならず世界中が震撼しました。
コロナ禍が始まった2020年。例年どおりの祇園祭の開催はかないませんでしたが、新型コロナウイルス退散祈願の神事は行われている…その特殊な祇園祭の様子を、記録してまわったのが下記の記事です。
また、思うように行動できない日々が続いていた中でも、実は200年近く休み山だった「鷹山」が、復活にむけて着々と準備を進めていました。鷹山を支える囃子方の演奏、新デザインの浴衣や厄除け粽(ちまき)などの授与品、そして他の山から唐櫃をお借りしての巡行。それらをカメラに収めてきました。
そこへ今年、嬉しいお知らせが届きました。
3年ぶりに祇園祭が通常開催されること、そして鷹山がついに後祭の山鉾巡行に復活するというのです!これは見に行かねば!と早速、撮影しに行ってきました。
鷹山は応仁の乱以前から巡行していて、もともと大変人気があり「くじとらず」だったほどの大きな曳山です。応仁、宝永、天明と三度の大火に見舞われるも屈せず、そのつど町衆の絶大な支援によって再起してきました。
ところが、文政9年(1826年)の巡行で大雨にあって懸装品を汚損し、翌年から巡行に加列しない「休み山」となりました。
写真:2019年 唐櫃での山鉾巡行に参加する鷹山(後ろに見えるのは大船鉾)
さらに、元治元年(1864年)の「蛤御門の変(禁門の変)」に端を発した大火が追い打ちをかけます。ご神体の頭と手だけを残して、山本体があっという間に全焼してしまったのです。
しかし時を経て近年、復興の声が高まり、2019年に唐櫃で巡行に参加します。そして、コロナ禍で通常どおりの祇園祭も3年ぶりとなる2022年に、いよいよ山での巡行参加となりました。
まずは宵々山。
近づくと早速、お囃子の音。うわぁ…!これが鷹山の姿なんだ!と感涙。新しい白木の屋根を見ながらお囃子の音色に思いを馳せます。
ニュースなどで事前に鷹山の復活を知り、見に来た人たちが「この車輪は大きな丸太からではないと作れない。材料を調達するのが困難で他の山鉾から譲ってもらったものだ」など鷹山に関する話をしているのが、あちこちから聞こえてきました。
厄除けの粽はすでに完売と人気の高さが伺えます。
写真:「日和神楽」四条御旅所で翌日に行われる山鉾巡行の晴天を願う行事
いよいよ7月24日の山鉾巡行。順番は昔の通り、くじ取らずで大船鉾の前です。
青空の下で巡行の最後を飾る堂々たる姿で鷹山が登場しました。
報道陣の姿も他の山鉾より多く、2022年の主役は鷹山だという熱気が立ちのぼります。
辻回しは一度は手間取ったものの、次には見事に角を曲がって行きました。
見送りの柄が鷹だというのがまたにくい。後ろ姿もさすが「動く美術館」という貫禄です。
現在の祇園祭は八坂神社のお祭りとして有名ですが、起源となった貞観11年(869年)の御霊会は神泉苑で行われたと伝わっています。
当時の国の数が66だったことにちなんで66本の矛を立て、祇園社より神泉苑に神輿を送り、災厄の除去を祈ったことが始まりだったそうです。
現在は、後祭で御神輿が御旅所から八坂神社へと戻る「還幸祭」のとき、神泉苑の大鳥居にて待ち受け、拝礼が行われます(今年は御神輿が八坂神社に直帰したため、よかろう太鼓の奉納のみ行われました)。
ところで、八坂神社や祇園祭山鉾連合会のWEBページにも載っていないような、祇園祭と同時期に行われる行事もあります。ここからは、そんなディープな祇園祭関連の話題もご紹介しましょう。
池田屋事件は祇園祭の真っ最中に!新選組ゆかりの寺の供養祭
現代では、祇園祭の宵山で華やかな1日となる7月16日に、境内が訓練場としても使われていた新選組ゆかりの「壬生寺」で、「新選組隊士等慰霊供養祭」が行われます。
時を戻して今から150年ほど前の元治元年(1864年)、新選組の名を轟かせた「池田屋事件」が勃発したのがまさに旧暦6月5日、祇園祭の宵山期間の真っただ中でした。
長州藩士を中心とした急進的な「尊王攘夷派」と、幕府側で京都の治安維持にあたった「新選組」。尊攘派志士が謀議中との情報を得た新選組の隊士が、旅館池田屋に踏み込み、襲撃した事件です。歴史上の大事件が起こったその夜も、京都の街には賑やかな祇園囃子が鳴り響いていたことでしょう。
池田屋事件では、尊攘派志士の死傷者や捕縛者は30名ちかく、新選組の隊士にも犠牲者が出たといわれます。壬生寺の慰霊供養祭では、郷土の治安と平和を願い、どちらの志士も慰霊する法要が執り行われます。
また、新選組隊士を思い浮かべる浅葱(あさぎ)色にだんだら模様の羽織をまとった京都新選組同好会のメンバーたちが参列し、天然理心流による演武も披露されます。
ちなみに、池田屋事件によって憤激した長州藩が挙兵上京し、ひと月半後の旧暦7月19日に引き起こしたのが「蛤御門の変」です。戦闘の兵火が市中の家屋や寺社2万軒以上を焼き尽くす結果となり、鷹山も巻き込まれて焼失したことを思うと、祇園祭と幕末志士たちの少なからぬ縁を感じずにはいられませんね。
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昔は武者が練り歩いた!「弓矢町武具飾り」
江戸時代、弓矢町には八坂神社に奉仕する「犬神人(いぬじにん)」が住んでおり、神幸祭のときに6人の法師武者と約30人の甲胃姿の武者が神輿行列に供奉していました。
現在は甲冑の老朽化などの理由から行列は行わず、祇園祭の神幸祭の日に合わせて、弓矢町武具飾りとして町内の各家に甲胃が飾られています。中でも弓箭閣(きゅうせんかく)という会所での甲冑が見どころです。
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今回、舞妓さんの髪結師で葵祭の斎王代のお支度や、櫛祭りの髪結指導もしている山中美容室の山中先生にうかがったところ、「祇園祭の露払いとして息子や孫もみんな(行列に)出ていました。昔の人は小さくて甲冑を着るのも大変。今は虫干しも兼ねて祇園祭の時期に飾っています」と話してくださいました。
写真:山中美容室の甲冑
休み山は鷹山だけではない!?「布袋山」とは
今年、約200年ぶりに復活した鷹山のように、長い間休み山となっている山鉾は他にもあります。それが、天明の大火で消失したとされる「布袋山」。「八坂神社文書」によると祇園祭は1467年からの応仁の乱で中断していましたが、布袋山は1500年(明応9年)に復興した際に、前祭の山として記載してある山です。
現在は、懸想品を飾る会所飾りをする居祭り(神事のみを行うこと)として、祇園祭の宵山の期間だけ、その姿を見ることができます。
いつか布袋山も本来の姿を取り戻し、山鉾巡行に戻って来ますようにと願っています。