「ちまき(粽)」と聞いて、あなたはどんな食べ物を思い浮かべますか?5月5日の端午の節句に食べることでもお馴染みのちまきですが、実は地域によって形や中身が異なり、日本国内には大きく分けて3種類が存在します。
さらに、ちょうどいま京都では、日本三大祭りの「祇園祭」が7月の1か月間にわたって繰り広げられています。このお祭りにも縁の深い物として、いわば“第四のちまき”が登場しているのですが、何とそれは「食べられないちまき」です。
なぜそんな違いがあるのでしょうか?この記事では、ちまきの起源や由来をひも解き、実は謎も多いそのルーツを探ってみたいと思います。
目次
日本の「ちまき」は地域によって3種類
関東甲信〜北海道の方は、ちまきと聞いてすぐ上の写真のような形を思い浮かべたのではないでしょうか?つまり「中華おこわを竹の皮でおにぎりのような三角形に包んだもの」。もち米と一緒に肉やタケノコ、シイタケ、ニンジンなどを炒め、竹の皮に包んで蒸しあげる、中華料理でもお馴染みの食べ物です。
東海〜九州の方にとっては、この記事冒頭の写真のイメージでしょう。「白いモチモチした餅菓子を、笹の葉で細長い円錐形に包み、束ねたもの」。中身の餅菓子は、地域によって砂糖やきな粉をまぶして食べるものや、餅自体に甘みがついているもの、あんこが包まれているものもあります。
鹿児島の方は下の写真の「あくまき」を思い浮かべたのでは?木や竹を燃やして取った灰汁(あく)に浸したもち米を竹の皮に包み、灰汁水で数時間煮込んだ「鹿児島版ちまき」。きな粉や黒糖をかけたり、砂糖醤油で食べる人もいる郷土の保存食です。
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東日本と西日本で食べ物や風習が異なるのはよくあることですが、ここまで形や味が異なるのはとても興味深いですね。しかし、これらには共通点もあります。端午の節句に食べる習慣があるということです。
端午の節句のちまきは中国の故事が起源
特に西日本では、5月5日の端午の節句にちまきを食べる習慣が定着しています。東日本では柏餅のほうがポピュラーですが、三角形のちまきを買って子どもと一緒に食べる家庭も多いようです。
5月5日が「子どもの日」となったのは昭和23年(1948年)。端午の節句自体は、中国から二十四節気の考え方が伝来した平安時代には、すでに宮廷行事として取り入れられていました。端午の節句にちまきを食べる習慣も中国からやってきたものです。
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中国では、5月5日は愛国詩人・屈原(くつげん)の命日とされ、ちまきは供養のための食べものでした。
屈原は、中国の戦国時代にあった「楚」という国の政治家でした。戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前2世紀)では、戦国七雄と呼ばれる7つの国が覇権を争っていました。ちなみに漫画「キングダム」は、中国を最初に統一し、戦国時代を終わらせた秦の始皇帝の物語ですね。その後、秦の滅亡のことを書いたのが司馬遼太郎の歴史小説「項羽と劉邦」、三国志はそこからさらにあとの話です。
それほど太古の人である屈原の伝承が現代まで伝わっている理由は、彼が生粋の愛国者であったからでしょう。戦国時代最強の秦に侵略されないため、屈原は王にさまざまなアドバイスをしますが、王は聞き入れませんでした。屈原は祖国の未来に絶望し、泪羅江(べきらこう)に入水して命を絶ってしまいます。
人々はたいへん嘆き悲しみ、屈原の無念を鎮め、また亡骸を魚に食べられないようにするために、魚の餌として笹の葉にご飯を包んで川に次々と投げ込んだそうです。これがちまきの発祥となりました。
その後、毎年5月5日には偉大な屈原を偲んでちまきを食べるようになり、これが伝わって日本でも端午の節句にちまきを食べる習慣が生まれたのです。
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祇園祭の「食べられないちまき」とは?
さて、ここからがいよいよ本題です。7月の京都はすでに祇園祭一色。コンコンチキチン、コンチキチンという祇園囃子とともに、町ごとに絢爛豪華さを競い合うような山鉾が今年は34基も練り歩きます。
そんな祇園祭の名物の一つが、実は「ちまき」なのです。どんな形をしているかというと…
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食べるちまきと見た目がほぼ同じです!しかし、これは藁(わら)を芯にして外側に熊笹を巻き、い草で結んで作られているので食べ物ではありません。
では正体は何かというと、疫病・災難除けの「お守り」なのです。京都の街を歩いていると、このお守りが民家の軒先に飾っているのをよく見かけます。祇園祭でちまきを手に入れ、1年間軒や玄関先に飾り、次の祇園祭で返納するのは京都の人にとっては大切な習慣なんですね。
ちまきは主に厄除けのために飾りますが、各山鉾の会所で購入できるちまきには、金運上昇や学問成就などそれぞれ異なるご利益があるので、目的に合わせて買い求めている人もたくさんいます。
祇園祭のちまきは日本の説話に由来
祇園祭を催行する八坂神社の主祭神は、スサノオノミコトです。実は、祇園祭のちまきは、スサノオノミコトに関連した「蘇民(そみん)説話」といわれる以下の伝承が由来になっています。
須佐雄神(すさのおのかみ)が一夜の宿を借りようとして、裕福な弟の巨旦(こたん)将来に断られ、貧しい兄の蘇民将来には迎えられて粟飯などを御馳走になった。
そこでそのお礼にと、「蘇民将来之子孫」といって茅の輪(ちのわ)を腰に着けていれば、厄病を免れることができると告げた。はたして、まもなくみんな死んでしまったが、その教えのとおりにした蘇民将来の娘は命を助かったという。
ここで登場した疫病を防ぐアイテム「茅の輪」こそが、祇園祭のちまきの起源です。祇園祭で手に入れられるちまきにも「蘇民将来之子孫也(私は蘇民将来の子孫ですよ)」と書かれています。
様々な行事に形を変え伝承される蘇民説話
1年間の前半最後の日、6月30日に各地の神社で行われる「夏越の祓」の神事と「茅の輪くぐり」。これも蘇民説話が元になっています。
疫病除けのため腰に付ける小さな茅でできた輪、または腰に巻き付ける茅の輪として説話に登場した茅の輪ですが、今では巨大化した茅の輪をくぐることで、その年の後半の無病息災を祈願するものになりました。
また、岩手県を中心に各地で行われる奇祭「蘇民祭」も、同じ伝承がもとになっています。
最も有名なのは奥州市の黒石寺蘇民祭でしょう。全裸に下帯のみの男たちが「蘇民袋」と呼ばれる袋の争奪戦を繰り広げ、最後に手にした者は、住んでいる方角に五穀豊穣などのご利益がもたらされるといわれます。
スサノオノミコトを祀る神社では、「蘇民将来」と記した護符を授与してくれる所があり、中には木彫りで六角錐の形をしたものも。災厄を払い疫病を防いで、福を招くご利益があると信じられています。
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蘇民将来、武塔神のルーツは…?
蘇民将来の名が登場するのは、奈良時代の和銅6年(713年)に中央官命により編纂された「備後国風土記(びんごのくにふどき)」です。しかし、蘇民説話が日本全国のさまざまな祭事のもととなっていたり、祇園祭や蘇民祭が1000年以上の歴史を持っていたりすることから、民間伝承としてはもっと早くから広まっていたのかもしれません。
また、旅人に扮していた神「武塔神」は、現在ではスサノオノミコトと同一視されていますが、どのような神仏が起源になっているか、はっきりとは分かっていないようです。このことから、蘇民説話そのものが、海外から伝わった話である可能性を指摘する声もあります。
朝鮮の民話と似通う部分もあるといわれ、飛鳥時代以降、朝鮮や中国大陸からやってきた人々の技術や知識が積極的に取り入れられたため、蘇民説話も同時期に広められたのでは?という説もあります。
蘇民将来・巨旦将来という名前も、苗字(将来)が名前の後ろに来ているのは日本名としては不自然で、中国や朝鮮系の名前とも違うようです。蘇民説話のルーツは、もしかしたら日本からはるか遠くにあるのかもしれず、想像力が膨らむばかりですね。
蘇民将来
『備後国風土記』に蘇民将来の兄弟の説話がある。一夜の宿を乞うた神に対し、裕福な弟・巨旦将来は断ったが貧しい兄・蘇民将来はこれを歓待した。神は蘇民将来と子孫を疫病から救い、弟の一族は疫病で滅ぼされた。
蘇民将来之子孫門戸也の護符は門口に貼り厄除けとする。
館蔵 呪符見本より pic.twitter.com/dpbaTK7Rh5— 遠野市立博物館 (@tonomuseum) October 24, 2021
食べるちまきと祇園祭のちまきは、なぜ同じ形になったのか?
ここまで端午の節句に食べるちまきとその起源、祇園祭のお守りのちまきは全く違う起源を持っていることなどをご紹介してきました。しかし、最後に最大の謎が残っています。これだけルーツが別々のちまきが、なぜ同じ形をしているのか?ということです。
こちら(左側)①縁結び ②安産 ③厄除け ④疫病除け と生涯を通じて安心のサポートご利益な綾傘鉾の食べられない厄除け粽✨と(右側)笹の香りなお餅とこし餡が美味な食べられる粽です😋#粽 #厄除け粽 #綾傘鉾#衹園祭 #衹園祭2021
(#京都人の密かな愉しみblue修業中 #祇園さんの来はる夏 より) pic.twitter.com/wjZ1w6Tk5x— 八代・睦月十四郎@綾傘鉾囃子方 (@mutsuki14law) July 10, 2021
結論からいうと、理由はよく分かっていません。
食べるちまきは中国では「粽子(zong-zi ゾンズ)」というのに、日本に入って来た時にまったく違う「ちまき」という名前があてられました。一説には、昔は笹ではなく茅(ちがや)の葉で具材を巻いていたため「茅巻き(ちがやまき)」と呼ばれ、やがて縮まって「ちまき」となったともいわれています。
茅は、日本全国に分布するごくありふれた植物ですが、尖った葉は邪気を防ぐと信じられていました。魔除けから生薬としての利用まで、昔の日本人には馴染み深い植物だったようです。若い穂はツバナと呼ばれ噛むとかすかな甘みがあり、万葉集にも穂を噛む記述があります。
そうなると、食べるほうのちまきにも邪気を払い疫病除けの力あるいは願いがこもっていたのかもしれませんね。一方で、祇園祭のちまきは蘇民説話の「茅の輪」を起源としているので、本来ならば「輪」の形をしていてもいいはずなのに、なぜか食べるちまきと同じ細長い円錐形ということの説明はつかないままです。
もしかしたらどちらも「茅」という植物が用いられ、「ち」という音が共通していたため、名前と形が偶然にも一致してしまったと考えると面白いかもしれません。
祇園祭にも食べられるちまきがある!?
祇園祭のちまきは、お守りであって食べられないと全編にわたりお伝えしてきました。ですが実は祭りの期間中、お守りとは別に食べられるちまきも販売されています。
ういろうや甘い餅で作った「食べられるちまき」が、京都創業の和菓子店「とらや」などで古くから販売されています。これは、「祇園祭の記念に食べられるちまきが欲しい」というお客様の要望に応えて作ったものだそうです。
昨日 #大丸京都店 の #虎屋 さんで詳しい話を聞いてきました😊🎵
なぜ⁉️特別な紅白の『錦粽』を #京都 で販売することになったの⁉️←通常は、端午の節句に虎屋赤坂店だけで販売の和菓子✨
『今年の #祇園祭 は3年ぶりに神輿渡御 と山鉾巡行 が行われるので特別なのです』
毎年販売してほしいです😍‼️ pic.twitter.com/2diI8KmjEB— ふれんちぶる (@FCVPf07VuvKlVdb) July 8, 2022
終わりに
地域によって食べ物の形状が変化するのは珍しいことではありませんが、ちまきのように名称が同じでありながら全く由来が異なる食べ物は珍しいといってよいでしょう。
どちらのちまきも深い歴史と信仰を現代に伝えるものであり、知れば知るほど興味深いですね。