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山口県防府市の裸祭りがスゴい!2023年防府天満宮「御神幸祭」は今週末行ける!ライブ配信もバウバウ!

2023/11/24
2023/11/24
山口県防府市の裸祭りがスゴい!2023年防府天満宮「御神幸祭」は今週末行ける!ライブ配信もバウバウ!

サラシを巻いた勇ましい男たちが「兄弟ワッショイ!」の掛け声とともに神輿を担ぐ、西日本屈指の荒祭り、山口県防府市の「御神幸祭(ごじんこうさい)」。別名「裸坊祭(はだかぼうまつり)」とも呼ばれ、防府天満宮で千年以上にわたって続けられている祭事です。

御神幸祭が菅原道真公にまつわるお祭りだということは、地元の人なら誰でも知っているでしょう。しかし、大宰府で生涯を終えたはずの道真公のための祭事が、なぜ防府市で行われているのでしょうか?

この記事では、2023年11月25日に開催される御神幸祭を紹介するとともに、知っているようでいて実は知らない、菅原道真公の生涯や逸話についてもたっぷりご紹介します。

防府天満宮は日本で最初の天神様

全国に12,000もある天満宮や天神社は、ご祭神として菅原道真公を祀る神社ですが、なかでも防府天満宮は太宰府天満宮よりも早い延喜4年(904年)、道真公薨去の翌年に日本で最初に創建されています。

道真公が左遷されて大宰府に下る途中、本州最後の寄港地となる防府の「勝間の浦(かつまのうら)」に船を着けました。「此の地未だ帝土を離れず、願わくば居をこの所に占めむ(ここから先は九州だが、この地こはまだ京の都と地続きである。願わくばこで無実の知らせを待ちたい)」と言い、別れを惜しんだといいます。

左遷の2年後、道真公が大宰府で失意のうちに亡くなったちょうどその日、勝間の浦に神光が現れ、酒垂山(現・天神山)に瑞雲が棚引いたそうです。人々は道真公の霊魂が光と雲になって「此の地」に帰られたのだと悟り、道真公の願いどおり霊魂の「居」を建立しました。それが現在の防府天満宮の起源となっています。

御神幸祭の始まりと「裸坊」

道真公の身の潔白が防府に直接もたらされたのは、死後100年も経った寛弘元年(1004年)でした。当時の一条天皇の勅使が遣わされ、御霊を慰める祭典「勅使降祭」が斎行され、初めて天皇から「無実の罪」が奏上されたのです。

「御神幸祭」はこの時から開かれ、菅原道真公に毎年毎年「無実の知らせ」を伝え御霊を慰めるお祭りとして、千年以上も連綿と受け継がれています。

当初、御神幸祭に参加できたのは限られた家柄の者だけでした。しかし、道真公が天神として信仰されるようになると、一般民衆の間にも奉仕を熱望する者が現れ始めます。

彼らは祭りに参加するために身の潔白を証明しようと、佐波川の冷水で身を清め、そのままの姿で奉仕しました。そんな民衆の姿を「裸坊」と呼んだので、御神幸祭のことを裸坊祭とも呼ぶようになったのです。現代の裸坊は白装束姿ですが、例年5,000人もが参集し、昔と変わらぬ熱い思いをもって奉仕しています。

今年は裸坊たちによるアツイ御神幸祭が復活!

御神幸祭のスタートは18時。防府天満宮の拝殿正面の扉が開かれると、数百人の裸坊が一斉に拝殿になだれ込みます。

拝殿から2基の神輿と道真公の御霊を乗せた御網代輿(おあじろこし)を担ぎだすと、58段の大石段をおろします。これを御発輦(ごはつれん)といいます。おろすといっても、御網代輿の重さは約500キロ。まさに命がけです。石段を滑らせる際の地響きのような音や、裸坊たちの怒号や観衆の歓声が雷鳴のように鳴り響き、防府天満宮は大興奮に包まれます。

その後、御網代輿は巨大な台車に載せられます。大きなものですから、簡単にはいきません。無事載せられた瞬間は拍手と歓声が沸き起こります。

そして、御網代輿が載せられた台車は御神幸の行列に加わり、防府天満宮より約2.5km離れた勝間の浦のお旅所(浜殿)に到着。浜殿神事によって「無実の罪」を奏上し、道真公の御霊を慰めます。神事終了後、行列は21時頃防府天満宮に帰還。道真公の御霊を御神座にお返しし、御神幸祭は終了となります。

御神幸祭は18時開始ですが、裸坊たちは昼間から神輿を担いで街中や商店街を練り歩いています。一日中神輿を担がなければならない裸坊は、気力体力がなければ務まらなさそうですね。昼間の神輿の練り歩きは地域の企業や小学校なども参加しており、それぞれ趣向をこらした神輿を担いでいるのも見どころです。

御神幸祭を終えた御網代輿は回廊内に奉安されます。参拝者はこの御網代輿の下をくぐる「御網代くぐり」により、天神様のご加護がいただけるとされています。

大祭の翌日は女性たちによる「天神おんな神輿」の出番です。県下から約200名の女性が集結し、お囃子車や大団扇などがはやし立てるなか、2基のお神輿を盛大に振りながら市内を練り歩きます。

熱気と歓声のなか数百人の裸坊が乱舞する様子はまさに圧巻。「兄弟ワッショイ!」の掛け声のもと、男たちと観衆の心が一つになるアツい瞬間が見られるのは、ワクワクします。防府市の裸坊たちも、今頃勇み立っているでしょうね。

◎御神幸祭(裸坊祭)2023年の開催情報!

日程:2023年11月25日(土)
時間:御発輦 18時~ / 御帰還 21時頃

2023年ライブ配信も行われます。ゲストは地元出身のタレント、松村邦洋さんです。

配信日時:2023年11月 25 日(土)17:30~22:00(予定)

※御神幸祭の翌日の「天神おんな神輿」も実施予定です。

道真公はなぜ左遷されたのか?神様として祀られた理由、意外な逸話も解説!

別名「裸坊祭」とも呼ばれる防府天満宮の「御神幸祭」。ご祭神の菅原道真公に毎年毎年「無実の知らせ」を伝え、御霊を慰めるお祭りとして、千年以上も連綿と受け継がれています。
ところで、無実の道真公がなぜ大宰府に左遷されなければならなかったのでしょうか?知っているようで実は知らない、道真公の生涯や逸話をご紹介します。

知っておきたい、菅原道真公はどんな人?

「学問の神様」「天神様」と呼ばれ、今も多くの人の信仰を集める菅原道真公ですが、何をした人だったのでしょうか。まず、道真公の生涯について触れてみましょう。

生まれと青年期

菅原道真は西暦845年6月25日、学者の家に生まれます。母方の家系は、万葉詩人である大伴旅人(おおとものたびと)や大伴家持(おおとものやかもち)を輩出しており、道真も幼少期から優れた詩歌の才を垣間見せていました。

菅原家は代々侍読(天皇に学問を教授する職)や、大学頭、文章博士(学生に漢文学や歴史学を教授する職)に就く者を多く輩出していました。630年に始まった遣唐使の派遣以降、日本では漢学がもてはやされていたので、代々漢学に精通した菅原家は朝廷のなかでも重要なポジションにいたようです。

道真もその優秀さをいかんなく発揮し、文章得業生(もんじょうとくごうしょう)と呼ばれる学生トップクラスを経てエリート官僚の道に進みます。

出世と大宰府への左遷

道真は順調に出世し、参議を経て最終的に右大臣を務めています。学者出身の道真がここまで出世するのは異例なことでしたが、ここには当時の天皇である宇多天皇の後ろ盾がありました。

宇多天皇は、前天皇の時代から強い影響力を持っていた藤原基経を嫌い、天皇主導の政治を望んでいました。そのため、藤原基経の死後、その子・時平を政治から遠ざけていました。

しかし、宇多天皇が退位し上皇になると、藤原時平が頭角を表します。道真も宇多上皇のバックアップのもと右大臣に就任しますが、学者に過ぎない道真の右大臣就任には否定的な意見も多かったといいます。また、宇多上皇が仏教に傾倒し出家してしまうと、道真は朝廷で孤立するようになってしまいました。

そのようななか、藤原時平は醍醐天皇に、「道真が天皇廃位の陰謀を企てている」と讒言(ざんげん)を吹き込んだといわれています。

実際、道真の娘は宇多上皇の皇子であり醍醐天皇の異母弟である斉世親王(ときよしんのう)に嫁いでおり、親王が将来天皇になれば、道真の権力がより強くなる可能性はゼロではありませんでした。しかし、道真の真意は明らかにはなっていないものの、廃帝の意図はなかったというのが定説です。

醍醐天皇は真偽を確かめないまま道真を大宰府に左遷してしまいます。この時道真は57歳。与えられた役職は「太宰員外師」でした。役職といっても形ばかりで、給金もありません。あばら家に住み、言論封殺のため詩を作ることも許されず、わびしい暮らしの中、左遷から2年後の903年2月25日に59歳で亡くなりました。

道真は死後怨霊に?

道真の死後、藤原時平の覇権が続くと思われていました。しかし909年、藤原時平は39歳で突如亡くなってしまいます。その後、醍醐天皇の皇太子が次々と病にかかり亡くなりました。

さらに930年6月、宮廷内で落雷が発生し、政治の重要人物を含む複数名が命を落とします(清涼殿落雷事件)。その惨状を見た醍醐天皇も体調を崩し、数か月後に崩御してしまいました。落雷によって胸を焼かれ亡くなった藤原清貫は道真の監視業務についていたことから、一連の不幸は道真の怨霊の仕業だという噂がおこります。

道真の祟りを恐れた朝廷は、道真の罪を赦すとともに、彼の御霊を鎮めるため947年、京都に北野天満宮を建立し「天神」として祀りました。次いで949年には大阪天満宮など、各地に神社や寺院、廟が建てられました。

その後、信仰の対象に

当初恐ろしい怨霊として扱われた道真公ですが、鎌倉時代ごろには恐れられることは少なくなります。

慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神などポジティブなイメージが持たれるようになり、生前多才だった道真にあやかって、学問の神や芸能の神としても信仰されるようになりました。また、落雷事件によって雷の神とされていたことから、雷→雨が降る→農業の神としても祀られています。

菅原道真公を祀った神社は、天神社、天満宮、菅原神社、北野神社などと呼ばれ、その数は12,000社を超えるといわれています。

もっと知りたい!道真公のエピソード

実は子だくさん。子孫も優秀?

菅原道真にはたくさんの子がおり、その数は10人とも20人ともいわれています。子孫も大成する者が多く、特に長男の高視の子孫は高辻家・唐橋家など貴族として栄えました。ちなみに、高視の曾孫は孝標といい、「更級日記」の作者・菅原孝標女の父にあたります。時代が下っても色褪せない菅原家のあふれる才能は素晴らしいですね。

道真公にまつわる伝説では、藤原時平らが道真公に呪詛をかけた際、道真公は自力でこれをはねのけ、子孫まで守られるよう守護のまじないをかけたといいます。もしかしたらそのまじないが代々効果を発揮しているのかもしれません。

そして、道真公は子供好きであり、家族との関係も良好でした。大宰府に左遷された際も、二人の子供が父を慕って移り住んでいます。失意の中亡くなったとされる道真公ですが、ささやかでも親子の楽しい時間があったことを願うばかりですね。

また、道真公は太宰府に流された後も子供をもうけており、兄が前田を、弟が原田を称したといいます。その前田こそが、のちの前田利家の家系になっていったという話もあります。

道真と牛

道真公を祀る神社に必ずといってよいほどあるのが「臥牛(ふせうし)」です。

道真公は生前、牛を愛し、慈しんでいたといいます。道真公の死後、棺は牛にひかれ家を出ましたが、やがて牛は路傍に臥せて動かなくなってしまいました。「ここに亡骸を埋めるように」という道真公の意思が牛を通じて伝えられたととらえられ、その地に墓所が作られました。そのため、道真公に関連する牛はほとんどが臥牛として表現されます。

道真と梅

道真は幼少期より梅を愛していました。
大宰府への左遷が決まり、いよいよ故郷である都を離れる日、庭の梅に詠いかけました。

東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ
(春風が吹いたら、香りを太宰府まで送っておくれ、梅の花よ。 主人がいないからといって、春を忘れてはならないぞ)

すると、道真公を慕った梅は、道真が大宰府に着くと、一夜のうちに道真の元へ飛んで来たそうです。これが有名な飛梅伝説です。道真公を祀る神社には必ずといって良いほど梅の木が植えられているのは、こういった由来があったんですね。

道真公への思いが込もった防府天満宮の御神幸祭へ!

無実の罪により左遷され、失意のうちに亡くなった菅原道真。しかし、彼の生きた時代を紐解くと、人々に愛され尊敬された道真公の足跡を感じることができます。

防府天満宮の御神幸祭が千年にもわたって受け継がれてきているのは、決して怨霊や祟りを恐れたからではなく、誠実にわが国と向き合った道真公への崇高の念が込められているからでしょう。

今年は裸坊のご奉仕も復活し、熱い思いが力いっぱい込められた御神幸祭になりそうです。ぜひ現地で体感してみたいですね!

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【参考書籍】
晋遊社「日本の祭りがまるごとわかる本」2013年8月1日発行

【参考WEBページ】
防府天満宮「防府天満宮について」
太宰府天満宮「道真公のご生涯」
西日本新聞 【きょうのテーマ】菅原道真伝説 なぞに挑む 時代の中でさまざまに変化
小学館 学問の神といわれる菅原道真。気になる生涯や逸話について学ぼう【親子で歴史を学ぶ】
ベネッセ教育情報サイト 全国の神社にまつられる神様・菅原道真の人生とは?

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