2022年、ユネスコの無形文化遺産に登録された日本の伝統芸能「風流踊」。認定対象のひとつである長崎県平戸市の「平戸のジャンガラ」は、毎年8月14~16・18日に、地域ごとに開催されています。今回は、2023年8月18日に行われた祭事の様子を、平戸が辿った稀有な歴史と織り交ぜながらご紹介していきます。
世界に開かれた港町・平戸
黒船来航。1853年にアメリカ合衆国の海軍代将マシュー・ペリーが蒸気船を率いて日本を訪れた事件は、日本人の誰もが学校の授業で学ぶ歴史的トピックのひとつです。この時、日本が世界(西欧)とつながりました。
やがて、江戸幕府から貿易の許可を得たイギリスの東インド会社は、「平戸オランダ商館」を設立し、長崎県平戸市にも貿易の拠点を築きます。
ほどなくしてキリスト教が持ち込まれた平戸には、今でも「寺院と教会の見える道」と名付けられた場所があります。ふたつの異なる宗教の建物が、隣り合うように佇んでいる風景は、平戸の歴史を象徴するものといえるでしょう。
隠れキリシタンの歴史に関心があった筆者は、てっきり、「平戸のジャンガラ」もキリスト教伝来の歴史に関わりがあるお祭りなのだろう、そう早とちりするところから取材の準備をはじめたのでした。しかし、これがどうも違うらしい。いや、まったく無関係だとも言えない。大きな文脈で捉えると、地続きになっていることがわかったのです。
五穀豊穣を祈る「平戸のジャンガラ」
大きく、カラフルな花飾りに、顔を幕で隠す踊り子たちが目を引く「平戸のジャンガラ」。雨乞いや五穀豊穣を祈り、踊りを奉納するこの祭事は、江戸時代初期の文献にも記述が残っているものの、その起源は定かではありません。
現在まで踊り継がれている地域は、平戸市内の9地区(平戸、中野、宝亀、紐差、根獅子、中津良、津吉、野子、大志々伎)。ここで紹介するのは、8月18日に奉納された平戸地区の様子です。
18日当日、「平戸のジャンガラ」がはじまったのは亀岡神社。境内には平戸城もあるこの神社は、平戸藩最後の藩主が創建しました。
取材陣に紛れて待つ、朝7時前。すると、一台の観光バスがやってきました。次々と踊り子たちが、バスから降りてきます。祭事といえば、世代交代に関する課題を抱える地域も多いですが、若い踊り子たちの初々しい姿は、その懸念を感じさせませんでした。
笛、鈴、太鼓の音とともに踊りがはじまりました。一定のリズムで響く鈴と太鼓。踊り子たちは、お囃子と一緒に亀岡神社の本堂前に円を描きます。
すると、踊り子たちのうち二人が円の中央で踊りはじめました。軽やかに跳ねる動きに合わせ、手をはためかせるその二人。腰鼓を叩きながら、笠をかぶった頭を上下に揺らしています。
ところで独特な響きがある「ジャンガラ」というこの名称は、「ジャン」は鉦の音、「グヮラ」は腰鼓の音を表すものとして、松浦家34代清の著書『甲子夜話』に記されているそうです。どれだけの長い年月、鈴と太鼓の音色が、この地で鳴り響いてきたことでしょうか。
色とりどりのいくつもの花笠がたゆたう、青い芝の上。時折、踊りの間に「ホーナーゴー、ホーミーデー」という唄が聞こえます。これは「穂長ごう、穂実出」を意味し、五穀豊穣を祈願する言葉だそうです。
しかし、なぜ平戸で「五穀豊穣」を祈る祭事が継承されてきたのか。この素朴な疑問は、平戸の隠れキリシタンの歴史とつながります。
平戸の人々の新しい生き方、農業
黒船来航をきっかけに、日本は門戸を開いたものの、その生活は長くは続きませんでした。幕府はその後、禁教令を出し、キリスト教の布教や信仰を禁じます。禁教令が発端となり、オランダ商館の取り壊しや出島の移転を命じられた平戸は、海外貿易の市場を失い、苦しい財政に見舞われることになります。
そこで、寛永18年(1641年)、平戸藩の第4代藩主の松浦鎮信は、平戸市を立て直そうと動き出します。その取り組みのひとつが、平戸市に新田や新畑を拓くことでした。穀物などの農業を中心に斡旋することにより、財源の確保しようとしたのです。
「ホーナーゴー、ホーミーデー」
この唄には、単に豊富な食料がもたらされることを願うのみならず、時代に翻弄されながらも、命をつないでいこうとした、平戸の民の切なる願いが滲んでいるように思うのです。
平戸藩主の地「松浦資料館」へ
祭事の終盤、松浦資料館でも踊りが奉納されました。平戸の財政を救った平戸藩主松浦家に伝わる資料が保存・公開されている施設です。
この地に奉納される歴史のつながりがわかるからこそ、祭事の見え方も随分変わってきます。生活していく手段を失った平戸の人々が、藩主とともに切り開いた新しい生き方。そんな当時の人々の熱が封じ込められた「平戸のジャンガラ」は、ごく単純な、”前向きに生きる”姿勢を教えてくれるような気がします。