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徳川家康と「家康公生誕祭」~岡崎城で独立した徳川家康~

更新日:2023/8/11 乃至 政彦
徳川家康と「家康公生誕祭」~岡崎城で独立した徳川家康~

岡崎で生まれた徳川家康を祝う「家康公生誕祭」。家康の両親である広忠と於大の方が練り歩きながら「竹千代縁起米」を配る「家康公生誕祝道中」を中心に12月17~18日と24日に開催されます。

2023年の大河ドラマ『どうする家康』を目前に盛り上がること確実。その前に、徳川家康はいつ頃どのようにして岡崎城主になったのか? その大志とは? また、今と昔の家康像の違いを歴史家の乃至政彦さんが解説します(全2回)。

桶狭間合戦で覚醒

桶狭間古戦場伝説地(豊明市) 写真/フォトライブラリー

徳川家康は、もとの名前を松平元康という。

家康は、最初から独立したお殿様だったわけではない。

生まれは三河の岡崎だったが、城主となったのは、意外にも18歳になってからのことである(幼少期に岡崎城主・松平広忠が隠居して実質を伴わない形で城主になった説もある)。

少年期は駿河の今川義元のもとで育成され、弘治3年(1557)に今川家出身の女性・関口氏(築山殿)と結婚したことで、義元の御一家衆に準ずることになった。

転機となったのは永禄3年(1560)の桶狭間合戦である。

18歳の家康は義元の配下として手勢を率い、孤立する味方の城に兵糧を運ぶというミッションを請け負った。こんな重要な任務を託されたのは、家康の才覚が優れていたこともあるだろうが、周囲を固める歴戦の三河衆の仕事ぶりを信頼されていたからだろう。

家康は人に恵まれていたのである。

頑張り屋の三河衆は、この困難な仕事を無事にコンプリートして、家康の武名を内外に高めた。主従一体の大仕事である。戦場は尾張で、敵は織田信長であった。

ところがその翌日5月19日、その信長の奇襲攻撃で今川義元が討ち取られてしまう。後にいう桶狭間合戦がこれである。

当時の史料と『信長公記』を見る限り、義元は信長の陽動作戦に引っかかったようである。ともあれ家康は、休息していた大高城を離脱して、一族の菩提寺に移って、その後の対策を考えなければならなくなった。寺の名前を「大樹寺」という。

余談ながら、征夷大将軍のことを、中世と近世の人々は「大樹」と呼ぶことがあった。この運命はある意味では家康の将来を決める示唆的な出来事でもあった。

大樹寺で教えられた武士の道

大樹寺 本堂 写真/フォトライブラリー

家康はわずかな供回りしか連れていなかったので、やがて来るであろう織田の追撃兵に討たれることになるだろうと諦観を抱きつつあった。それならせめて切腹して、自身の名誉を保つべきかもしれないと覚悟を決めようとしていた。

そこへ寺の住職が家康に「あなたは若い頃から戦績を重ねているが、何も人を殺すことだけを考えてそうしてきたわけではないでしょう」と諭す言葉を伝えた。

そして、「武士たるもの天下万民のために戦わなければ、何かの巡り合わせで天下を取ったとしても、私利私欲で栄華を楽しむだけに終われば地獄に落ちるものです」という主旨のことを告げた。家康もこれに同意して、自害することを取りやめ、防戦することを決めた。

この時、2人の問答に志を同じくしたのか、僧兵たちは取り急ぎあるもので「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」の旗を作って掲げ、家康のため織田の追撃兵を相手に奮闘したという。この言葉の意味は「現世は汚れ多いもの、極楽浄土を求めん」とでも言うべきもので、先の住職の話に繋げるならば、「俗世間の欲望に支配されて地獄にいくより、他者を思って清らかに生きることで浄土を目指そう」という言葉になるだろう。

こうして生き延びた家康は、空城と化した近くの岡崎城に移り、そこで三河衆を再編成して、方策を立て直していく。

城主デビューを果たす

岡崎城 写真/フォトライブラリー

一般に徳川家康がここで岡崎城を拠点として活動を開始した時から独立したと見られることが多いが、義元亡きあとの駿河今川家はこれを現実視しておらず、家康はあくまで今川御一家衆としてその前線基地を守り通すべく岡崎城に入ったと解釈していたようである。家康もそのつもりでいたのかもしれない。

ところが、義元から当主の座を譲られていた今川氏真は、三河よりも関東の情勢を重視した。同年に越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)が10万近くの関東諸士を動員して、伊豆相模から関東全土に勢力を広げんとする北条氏康を打倒しようと、大軍で押し寄せてきたからである。氏真の妻は氏康の娘で、妻の実家を見捨てることはできなかったのだ。

だがこの義理堅さが三河では裏目に出る。公助がないなら自助でやるしかないとの機運が高まってしまうのである。

ここからの家康の外交姿勢は卓越している。

今川氏真の許可を得て駿府にある関口氏(築山殿)を駿河から三河岡崎へ移住させると、織田信長との和談で同盟を結んだ。

そして京都の将軍・足利義輝に馬を送りその観心を買うことで、将軍と独自に交渉したと言う実績と既成事実を作った。義輝は実力があれば成り上がりの大名でも気にすることなく接する政策を採っていたので、ここに目をつけた家康は慧眼であるだろう。

やがて家康は今川氏真から独立を果たして、氏真領へと進出していくのである。

そして「松平元康」から徳川家康へと改名を果たし、天下万民を安寧に導く道へ第一歩を踏み出した。

「家康誕生祭」では、楽しい観客参加型イベントが豊富だ。皆さんのご武運長久をお祈りいたします。

この記事を書いた人
歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

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