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伊達政宗と「政宗公まつり」~伊達政宗と岩出山城~

2022/9/5
2023/8/11
伊達政宗と「政宗公まつり」~伊達政宗と岩出山城~

宮城県にゆかりのある戦国武将・伊達政宗。大河ドラマやゲームで大人気の偉人は、仙台城へ移る前の12年間、血気盛んな青年時代を大崎市岩出山で過ごしました。この地で開催される「政宗公まつり」は今から約420年前の文禄元年、政宗公が岩出山を出発し上洛した様子を武者行列で再現するものです。

政宗はどんな武将で、当時の武者行列とはどんなものだったのか?前回の記事「伊達政宗の美学」に引き続き、歴史家・乃至政彦さんに伺いました。

伊達者の語源

「政宗公まつり」武者行列 写真提供/政宗公まつり実行委員会(以下同)

伊達政宗は、「伊達者」の語源として知られる。

政宗が岩出山城(いわでやまじょう。宮城県大崎市岩出山)の城主だった時代、豊臣秀吉の要請で政宗は名護屋城(佐賀県唐津市)に武者行列を引き連れた。その際の様子があまりに立派だったので、「京童の諺に、伊達者と云い習わし、これよりして、伊達をすると云ふ詞は始まれりと云ふ」と伝えられている(『伊達治家記録』)。

旗を持つ一般兵は、全身黒づくめの具足を揃え、また鉄炮・弓・鎗を持つ歩兵たちも黒具足に金色の長い陣笠を装着していた。そして伊達政宗は、三日月の前立てで有名な「黒漆五枚胴具足」を身につけていたのだろう。人々は政宗の姿にどよめきをあげたと記録にある。

岩出山城への移転

そんな美麗な武者行列を支えたのは、岩出山城に築いた安定政権であった。

天正19年(1591)、伊達政宗は大崎氏(約250年間、260余郷を支配していた)の旧領を秀吉に与えられ、居城を米沢から岩出山城に移した。もとの名前を「岩手沢城(いわてさわじょう)」だったが、政宗がこれを改名させた。

この地はちょうど新しい支配地の中心部にあり、米沢から出羽を結ぶ奥州幹線道の中継点としても要衝地であったため、統治の上でとても優れていたのだ。

しかし政宗はなぜかこの城に巨大な天守閣や高層櫓を建設しなかった。いずれより南方の仙台へ移るための暫定的拠点と考えていたのではないかという説もある。

腰掛け程度の思い入れではない

祭りには、政宗の長庶子・秀宗が初代藩主となった縁のある宇和島市の「牛鬼」も登場する

だが、政宗は関ヶ原戦後の慶長7年(1602)に仙台城(青葉城)へ移るまでの12年間、この岩出山城を拠点とした。12年という時間は、「暫定的」と評することが難しいぐらい長いと思う。

また、政宗は岩出山城の防衛と灌漑を兼ねた治水を進めており、多大な労力を費やして、「大堰」の整備と河川の開削を行なった。

こうして水利環境を整えた政宗は、ついで新田開発に注力して、今に連なる農業生産の土壌を築いた。もともと移るつもりであったとされる仙台城には広大な平地と良港があるため、城下町を広げやすく、人口の確保にも向いていた。

それでも政宗は岩出山城から長らく動かずにいた。自ら主導して開発した地域の景観や風土が気に入っていたからかもしれない。

岩出山の地は、政宗にすれば政治的芸術作品であったのだ。

いずれにせよ今日まで語り継がれる政宗の武者行列が大好評を集めたのは、岩出山城を中心とする領土経営がまっとうに機能していたからだろう。

政宗が仙台城に移転したあとも、宮城県内有数の穀倉地帯が残された。「政宗公まつり」では政宗が残した遺産の一つとして、今も日本の潤沢な地域文化を隆盛させている。

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