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織田信長と「ぎふ信長まつり」~織田信長と濃姫~

2022/10/28
2023/8/11
織田信長と「ぎふ信長まつり」~織田信長と濃姫~

岐阜のまちづくりに貢献した織田信長を称える祭り「ぎふ信長まつり」。1953年(昭和28)の春、信長の「稲葉山入城四百年」を記念し、伊奈波神社の例大祭「岐阜まつり」に花を添える形で行われた武者行列が始まりです。このとき披露されたのが、信長をはじめ、十数人の騎馬武者に鉄砲隊など、200余人による絢爛豪華な行列でした。

その4年後、秋まつりとしての「ぎふ信長まつり」が誕生。3年ぶりに11月5日と6日に開催される今年は、映画「THE LEGEND & BUTTERFLY」(2023年1月27日(金)公開予定)の公開を記念し、織田信長役として木村拓哉さん、出演者のひとりである伊藤英明さんも参加が決定。そんな信長について、第1回の「岐阜城」と「天下布武」を名付けた織田信長に続き、歴史家・乃至政彦さんに伺いました。

濃姫の名前

濃姫は、美濃の戦国大名・斎藤道三の娘である。その名前は「ノウヒメ」と発音されることが一般的だが、もともとは「ノヒメ」と読んでいたようだ。また「帰蝶」の呼び名が実名だったとも言われている。

ただこれは、濃姫の母親が明智光安という光秀の叔父にあたる人物の娘で、明智一族が桔梗紋を使っていたことから、彼女が「桔梗の御方」と呼ばれていたことから作られた呼び名であって、史実の呼び名ではないらしい。

織田信長のもとへ嫁いでからは「北の方」「桔梗の御方」と呼ばれていたようである。しかし本稿では慣例にならって「濃姫」と呼ぶことにしたい。

織田信長との結婚

清洲城にある濃姫の銅像 写真/フォトライブラリー

天文18年(1549)2月24日、尾張の織田信長のもとへ濃姫が入輿した(『美濃国諸旧記』)。

彼女はかつて美濃守護一族である土岐頼充(ヨリミツ。別名:頼純)に嫁いでいた。その頼充が若死にすると、美濃対策を案じる織田家の重臣・平手政秀が道三を説得して、彼女を信長に再嫁させることにした。

当時織田家は駿河今川家と敵対関係にあり、美濃一国を統治する道三とは仲良くしておきたかったのである。

若くして未亡人となった濃姫は、亡夫のため出家することもなく、すぐさま信長の正妻に落ち着いたのである。

なお、俗話として、道三はこれから尾張へ向かう娘に短刀を手渡し、「もし信長が噂通りのウツケであったら、これで刺し殺してしまえ」と告げたという。ただ、身分が高い武家の女性なら短刀の一本ぐらい携帯するだろう。濃姫は、道三が謀略家であるかどうかに関係なく、護身用に短刀を備えていたと思われる。

また、ここで濃姫が「信長の器量によっては、この刃は父に向けられるかもしれません」と返したともいうが、こんな物騒な密談が後世に語られるのも不思議である。事実としても、濃姫が誰かに真実を告げるという劇的な場面こそ語り残されていなければおかしいと思う。

ただ、そういう伝説がよく似合う道三と濃姫と信長であったに過ぎない。

信長の陰謀に乗せられる

ぎふ信長まつり 信長公騎馬武者行列 写真提供=ぎふ信長まつり実行委員会

信長に嫁いで1年が経つと、濃姫も新たな夫にそれなりの関心を持ったらしい。だが信長は濃姫が熟睡している夜中に寝所を抜け出て、夜明けまで帰ってこないことを1ヶ月繰り返していた。

これを知った濃姫は、信長に「浮気相手がいるのなら、ちゃんと仰ってください。妬んだりするつもりはありません」と厳しく問い詰めた。すると信長は「いや、そうではないのだ。人に話せぬ計略があるのだ。疑わせて悪かった」とのみ告げて、それ以上は説明しようとしなかった。

ところがまた1ヶ月同じことが続いた。耐えきれず濃姫は再び詰問することにした。これには信長も「お前を思う気持ちは本物だ。だが、どうしても言えないことだってある。真相が漏れてはまずいことがあるのだ」と詫びてみせたが、それでも濃姫は納得できない。

困り果てた信長は、「実は斎藤道三との和睦は不本意だったのだ。それであちらの家老2人と密かに道三暗殺の策略を進めていて、暗殺に成功したら合図として放火してもらう約束になっている。それでこの2ヶ月ほど様子を見に外へ出ているだけだ」と答えた。

「それでもし火が見えたら?」

「わが兵を美濃へ乱入させるつもりだ」

驚いた濃姫は、これより数日後、隙を見て実家の父へと手紙を送り、信長の計略を伝えた。怒りを抑えきれない道三は、2人の家老を斬殺に処したという。

しかし史実でこの時期、道三に暗殺された家老はなく、信長と道三の関係も悪化するどころか、道三が息子に殺害されそうになった時、信長は急いで美濃まで救援に赴いており、道三も美濃を信長に贈り遣わすという譲状を作って信長に送らせているから、作り話であることは間違いない。

どうしてこのような話が作り出されたかと言うと、濃姫が信長との間に子供を残せなかったことが要因となっているのだろう。信長はほかの妾(めかけ)たちに多くの子供を産ませているが、なぜか濃姫との間には実子をもうけなかった。

すると何か不仲となるような背景があったのだろうと、推測する気持ちからこのような物語が編み出されたに違いない。

先ほどの短刀の逸話と打って変わって、信長よりも道三を選んでおきながら、信長を刺し殺したりしないのだから、マムシの娘としては少し物足りない人物像である。

ただ、濃姫が実家思いなのは史実である。

「信長本妻」として兄の未亡人を守る

岐阜城の麓にある伊奈波神社 写真/PIXTA

濃姫が実家の身内をかばった逸話が公家の日記『言継卿記』永禄12年(1569年)7月27日条に記されている。

これは信長が濃姫の実家である斎藤一色家を滅ぼし、足利義昭を奉戴して上洛した翌年のことである。日記の内容を見てみよう。

「信長が故・一色義龍の持っていた壺を供出するよう義龍の未亡人にしつこく求めた。未亡人は『壺は稲葉山城があなたに攻め落とされた時に無くなってしまいました。それでもまだ求めるなら、私は自害します』と言い出した。『それなら』と信長本妻である濃姫とその兄弟姉妹たち16人も『一緒に自害しましょう』と言い出し、もしそうなったら美濃の有力武将17人も彼女たちの身内として、30人以上が切腹することになる」

(【原文】「晩頭佐藤錫携来、一盞受用了、故・一色義龍後家壺可為所持、可被出之由信長連連被申、一乱之刻被失云々、尚於責乞者可自害云々、然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害、国衆大なる衆十七人、女子之男、以上卅余人可切腹申也、仍中分失弗に治定、今日無事に成了、佐藤も十七人之内也、」)

濃姫たちの強気の姿勢に信長は壺を諦め、騒動は「その日、無事に終わった」という。ここに濃姫は亡兄の後家の誇りを命がけで守ったのである。

先の逸話のように濃姫は信長とあまり関係がよくなかったようにイメージされることが多いが、美濃には実家が滅びても身内である有力武士がたくさんいて、織田家で冷遇されることはなかった。

また、濃姫には、義理の妹のために一肌脱ぐ気の強さがあった。

これほどのことを思い切りよく言えるぐらいであるから、信長も一目置いていたことは間違いないだろう。

その後の濃姫

濃姫の没年はよくわかっていない。

天正13年(1585)に信長の息子である信雄の知行割り当てを書き記した『織田信雄分限帳』という史料に、「安土殿」と呼ばれる女性の称号があり、彼女が濃姫ではないかと推測されている。

ここには、「六百貫文  ヒツシ  アツチ殿」とあり、そこに並んで、尾張にて彼女より100貫高く知行を付与されている「七百貫文  ヲハリ  岡崎殿」(信長長女・徳姫)の記載もある。そしてその次に並ぶ「千貫文 一ノカタウシ(=方牛)山 御局」なる女性もまた何者なのか未判明で、追及が進められている。

ちなみに天正元年(1573)12月25日に亡くなった「岐陽太守鍾愛」の「雪渓宗梅大禅定尼」が、濃姫ではないかと考えられている(『快川和尚法語』)。信長が寵愛したらしい記述(「岐陽太守鍾愛」)と、美濃ゆかりの快川紹喜和尚が一回忌を執り行っていることから、こちらの方が可能性は高いかもしれない。

いずれにせよ濃姫は、信長とその愛妾たちを相手に自らの立場を崩すことなく過ごしたことと思われる。道三の譲状によって美濃統治の大義名分を得られた織田信長も、道三との絆の証である「本妻」を大切に思い、「鍾愛」し続けたのではないだろうか。

2人の関係には謎が多いが、実子がいなかったからと言ってそれが不仲の証拠とならないのが、戦国夫婦の不思議なところでもある。「ぎふ信長まつり」は、信長夫婦の関係を想像するのに、いい機会となるものと思う。

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