「信玄公祭り」は山梨が誇る戦国武将・武田信玄の遺徳を偲び、甲府駅周辺や舞鶴城公園を会場に例年開催されているお祭りで、今年は10/27〜29に開催されます。
10/28に行われるメインイベント「甲州軍団出陣」は、県内各地から1,000名を超える戦国武者姿の軍勢が舞鶴城公園に集結し、川中島に向け出陣する様子を再現。さらに今年は信玄役に冨永愛さんが登場し、勇猛果敢な武田二十四将とともに執り行う出陣の儀式から「風」「林」「火」「山」の各軍団の出陣へ、華麗ななかにも勇ましい一大戦国絵巻がくりひろげられます。
数ある武将にまつわる祭りの中でも大規模な信玄公祭り。今回は武田信玄と徳川家康、織田信長、息子の勝頼との関わりについて、歴史家の乃至政彦さんにお伺いしました。
武田信玄の最期
元亀3年(1572)、武田信玄は、徳川家康の領土を攻めて、これを滅ぼそうとした。これは信玄にとって最後の遠征となるもので、「西上作戦」と通称されている。
ここで家康を敵にまわすということは、家康と同盟関係にある織田信長も敵にまわすことを意味していた。
信長は、若くて強い。そしてその勢力も日本最大クラスであった。
それなのに信玄は、家康を攻めた。
なぜこのタイミングで家康を攻めたのか?
これまで諸説が乱立していたが、近年の研究で、信玄が家臣に「三ヵ年の鬱憤」を晴らすためだと述べている書状があることから、過去に強い恨みを抱いていたことが一因にあることが見えてきた。
それにしても当時最大勢力を築いていた信長と争ってまで家康を攻めたがるのは、ちょっと驚く。
しかも信長は家康とだけではなく、信玄とも同盟を結んでいた。
そこまで深い因縁があったのか、それともなにか別の理由があったのか。
今回は信玄の最後の「西上作戦」に至る流れからその動機を探ってみよう。
信長と家康、信玄と信長
信長と家康の同盟は、永禄5年(1562)に成立した。信長の清州城で対面して締結されたという伝承により、「清州同盟」と通称されている。
5年後には信長の娘・五徳と、家康の長男・信康が婚姻して、両家の関係が強化された。
これで互いに背後を警戒する必要がなくなり、前線の敵に集中できるようになった。
これはかつて武田信玄・今川義元・北条氏康の3人がそれぞれ婚姻による家族関係を結んで背後を安定させた同盟関係に似ている。
清州同盟は、2人が足利幕府を再興するという同志的結束の趣きもあった。このため、将軍・足利義昭の要請によって、両者は近畿地方をメインとする軍事行動で共闘を重ねている。足利義昭上洛戦、金ヶ崎合戦、姉川合戦が有名であろう。
そして信長と信玄の同盟であるが、こちらは軍事的に連携することは特になく、ただ互いに攻め合わないという性格が強かった。
そのタイミングが絶妙で、永禄8年(1565)信玄はクーデターを企む長男・義信を廃嫡して、武田勝頼を後継者に指名しなおした。すると信長は、妹の娘を養女に迎え入れ、その女性を勝頼のもとへ輿入れさせたのである。
その後、尾張の信長は、美濃をも制して、「天下布武」の印判を用い始めて、東海道だけでなく畿内近国で連戦していくことになる。その勢力伸張を支えたのは、家康および信玄との同盟関係にあった。
両家とも信長と敵対している駿河今川家と争っており、友好関係を保つ条件は整っていた。
ところが家康と信玄が連携してこの今川家を滅ぼすと、状況が変わってくる。
信玄の言い分によると、家康は今川家を攻めるにあたり、決して今川と和睦しない約束を結んでいた。ところが家康は、ある程度今川領を奪うと、途中で当主の今川氏真たちと和談を進めていた。
事態を知って驚いた信玄は、家康への不信感を拭いがたく、ことの実否を織田信長に問い合わせた。そして事実ならこれを破談にさせて、再び今川家と敵対するよう指示してほしいとも伝えた。
しかし家康は信長からの要請をも無視して、駿河今川家および関東北条家との友好関係を結んだ。今川家は滅びたが、北条家との関係を保ち、対武田同盟を継続することにした。家康は信玄を裏切ったのである。
徳川家康の焦燥
とはいえ、徳川家にも言い分がある。徳川家中の見立てでは、信玄は今川領を大井川を境目に切り取ろうと約束したのに、これを破って勝手な軍事行動を進めていたという。事実とすれば、家康が警戒を強めるのも無理はないだろう。
日本屈指の強力な大名である信玄が相手なのだから、家康もなりふり構ってはいられない。ここで、越後の上杉謙信とも同盟を結んだ。
謙信はもう長い間、信玄と抗争を続けており、武田包囲網を築くには必要不可欠の大名であった。
家康の巧みな対策に追い込まれた信玄は、気がついたら周囲を敵に囲まれていた。これでは身動きが取れない。
目障りな家康を滅ぼさなければ武田家に未来はない。ただ、そうすると信長とも敵対する恐れがある。
折しも近江の浅井長政、越前の朝倉義景、天台座主の覚恕が信玄に、信長から苦しめられていることを訴えていた。
ここで信玄は思い悩む。対外的には、「上杉攻めをする予定だ」「織田攻めをするつもりでいる」と両方の方針を述べていた。しかしこんなことをどちらも実行できるわけではない。
信長・家康・謙信のうち、謙信攻めが一番無難であろう。力量もよくわかっているし、家康はこちらに出兵してくるかもしれないが、無理はするまい。信長もそんなに強くは出てくるまい。だが、謙信は強力で粘り強く、長期戦になるだろう。旨みが薄い。
ならば、信長や家康はどうか。
信長は友好国なので、油断していることだし、朝倉・浅井も協力を惜しまないはずだ。だが、漏れなく謙信と家康が武田領侵攻を企てるに違いない。これは危険だ。
家康攻めも同じ理由から危険である。
そこでぶっ飛んだ戦略を打つことにした。
織田信長と徳川家康、両方を同時に攻めることにしたのである。
最後の天下取り
まず京都の将軍・足利義昭と信長を仲介役として、謙信と和睦する素振りを見せる。交渉が始まったら、ドタキャンする。すると、将軍から「どうして……?」と使者がこちらを訪ねてくる。
ここで、信長の比叡山焼き討ちに始まる悪逆無道を訴えて、自分に鞍替えするよう持ち掛ける。信玄は、自分と比叡山の天台座主(天皇の弟)が親密で、朝廷が味方するであろうことも伝えただろう。
義昭が決断すれば、幕府に忠実な謙信も味方になるに違いないことも訴えたに違いない。
交渉のあと、義昭は信玄の説得に魅入られた。信長討伐を表明したのだ。すでに武田軍は、織田領と徳川領に攻め込んでいた。
信玄の戦略には、それなりの勝算があった。だから冒頭で紹介した「三ヶ年の鬱憤」というのも、口実に過ぎないだろう。本音ではあっただろうが、感情を動機として動き出すほど無謀ではない。
信玄は、信長と家康を滅ぼす覚悟であった。しかし、謙信は将軍よりも信長との友誼を選び、また信玄の病気も急速に悪化して、その夢は中途で終わらせざるを得なくなった。
最後の狙いがなんだったのか、明確な史料が残っていないため、諸説紛糾しているが、状況からみて、武田家の大軍勢は、天下取りを目指していたと考えるのが適切ではなかろうか。
2023年10月28日(土)に催される勇壮な「甲州軍団出陣」では、御屋形様の勇姿だけでなく、その精神に触れられるであろう。