三重県の前身・伊勢津藩の初代藩主である藤堂高虎。次々と主君を変えるものの藩主に上り詰めた生き様は地元で愛され、「津まつり」では「高虎時代絵巻」という武者行列も行われている。
築城の名手としても知られる高虎はどんな人物で、どんな行列だったのか? 歴史家・乃至政彦さんに高虎の強かさと魅力を伺いました(全2回)。
藤堂高虎の人気
戦国時代から江戸時代までを生きた藤堂高虎は、少し前はあまり人気のある武士ではなかったらしい。豊臣秀吉が亡くなると、これを見限って徳川家康に味方して、天下取りの手助けをしたとする裏切り者のイメージが強かったからであろう。
高虎は、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、羽柴秀長、豊臣秀吉、徳川家康と、主君を変えた人物として有名である。終身雇用制が当たり前と見られていた時代には、「忠臣は二君に仕えず」の価値観が強かったので、主君を転々とするイメージは好感を持たれにくかったのである。
しかしそんな時代にあっても、高虎は地元で愛され続けていた。そのためであろう。今では以前のような批判もなくなり、老若男女に愛される人気者と化している。現在の高虎人気は、冬の時代を支えてきた人々があってのものであろう。
高虎は、立身出世の人でもある。
ここまで大変な世渡りをしてきた高虎は、持ち前の才覚と豊かな経験をもって、武人としても政治家としても傑出する才覚を発揮した。
頭ひとつ飛び抜けた男
藤堂高虎は「身長六尺二寸」(約186センチメートル)の大男であったという(『公室年譜略』)。当時の平均身長は150〜160程度であったというから、高虎は普通より頭ひとつ高いぐらいの巨体だったことになる。軍勢の中に混ざっていたら、文字通り頭角を現して、とても目立っていたに違いない。
体格に恵まれていた高虎は、若い頃に無数の武功を立てた。
ただしどれも一次史料にその実否を確かめられておらず、どこまで真実かは不明だが、それでも武功なくして、あれほどの立身出世はありえない。ここに一端の真実が潜んでいるものと考え、今回はその武勇のほどを見ていこう。
少年高虎の武略
比較的信頼度が高いと見られる(と言ってももちろん真偽の判断が難しい逸話もあるが)藤堂高虎の一代記『高山公行状』に見える若き日の武功話を拾い出してみよう。
藤堂高虎にとって最初の武功は、戦場の外における斬り合いだった。
近江の浅井家臣であった時代、高虎がまだ13歳のころ、領内に乱賊が出没した。追手から逃れた乱賊は民家に立て篭もり、抵抗を続けているという。
このため高虎の父・虎高が、乱賊の誅殺を命じられた。すると虎高は長男の高則を連れ、刀を手に取り、乱賊の立て篭もる民家へと向かい始める。これを知った与右衛門(高虎)は、父と兄の跡を追いかけて、自分も連れていってほしいと主張した。
振り返った父親は、眉を曇らせる。
確かに与右衛門は、8〜9歳からすでに大人のような身の丈で、父親も幼い頃からその将来性を見込んでいた。だが、さすがに今回は危険である。虎高は「与右衛門ッ! お前にはまだ早い、とくと帰れ!」と叱りつけ、次男の願いを斥けた。
失意のなか帰宅した与右衛門は、母にねだって父の刀を一本借り受けた。母はきっと、夫の虎高が与右衛門に「予備の道具を持ってこい」と命じたと思ったのだろう。しかし、これは与右衛門の独断だった。
その間、虎高と高則は、乱賊の立て篭もる民家にたどり着き、2人して入り口から戸を打ち破った。いざ誅殺せんと家中へと飛び込んだのだ。だが、乱賊も馬鹿ではなかった。中はすでにもぬけの殻。裏口から外へ逃げ出していたのだ。
父子2人して正面から乱入したことが仇となった。1人は裏口を固めておくべきだったのだ。
虎高は、「しまった」と青ざめる思いがしたであろう。逃げ出した乱賊がどこでまた悪事を働くかわからない。
ところが乱賊の首は、逃げ先で地面に落ちた。藤堂与右衛門が、斬り落としたのだ。与右衛門は、乱賊の逃げ先を予想してそこに待ち伏せていたのだ。首を拾った与右衛門は、気分よく帰路についた。
乱賊の首を見た父は、与右衛門の武功に歓悦の声をあげ、その実名(じつみょう。元服と同時に与える成人名)を「高虎」とすることにしたという。自らの名前を逆さまにした名づけの意図は不明だが、自身の考えの裏を進んで手柄をあげた次男の力量をそれだけ高く評価したということだろうか。
この逸話はよくできすぎているようだが、その葬儀に立ち会った人の記録によると、高虎の全身はどこも戦いの傷だらけで隙間がなかったという。すると記録に残っていないような武功もたくさんあったことだろう。
長じてからの出世ぶりも、乱賊だけでなく父の思考の先をも見通して、手柄を上げようとする鋭い知性と名誉欲と結びつく。
これぞ武功の鬼・藤堂高虎にふさわしいデビュー戦であるだろう。