54台の「太鼓台」と呼ばれる山車が街を練り歩き、かきくらべでその華麗さを競い合う新居浜太鼓祭り。今回、伝統行事・文化の伝承について、株式会社金鱗(きんりん)・合田武史さんに太鼓台の顔である「飾り幕」を手掛ける立場から、お話を伺ってきました。
合田 武史(ごうだ たけし)
愛媛県新居浜市生まれ。株式会社金鱗代表取締役。
平成11年、新調の垣生本郷太鼓台を皮切りに、市内各地の太鼓台の飾り幕を手掛け、常に市民の太鼓台への価値観を塗り変え続けている縫師(ぬいし)。
※縫箔師(ほうばくし)ともいう
「新居浜刺繍」という言葉を掲げ、縫師として太鼓台刺繍や新居浜太鼓祭りの素晴らしさを日本全国・世界に広めようと活動している。
——合田さんが縫師を目指すようになったきっかけを教えてください。
小学4年生の頃に呉服店を営む父が喜光地(きこうじ)子供太鼓台新調委員会の委員長を務めることになり、父とともに香川県の菅原縫師・高木縫師、淡路島の梶内縫師の工房に足を運んだのですが、製作に取り組む縫師の姿や、その作品を見て感銘を受けたのが刺繍の道を志すことになったきっかけです。
それ以来、飾り幕の下絵を見よう見まねで描いたり、ミニチュア太鼓台を作ったりと、ほぼ独学で太鼓台刺繍の世界を歩んできました。大学卒業後に実家である合田呉服店の祭礼部として縫師を仕事にすることを決意し、現在は株式会社金鱗を立ち上げ、新居浜をはじめ県内外の山車の製作に携わらせてもらっています。
——工房訪問という貴重な経験が縫師としてのルーツなのですね。ちなみに新居浜には「祭り好き」と、太鼓台そのものが好きな「太鼓好き」がいると思いますが、合田さんはどちらだったのでしょうか?
私が子供の頃、地元の喜光地町には太鼓台がなかったので、どちらかというと「太鼓好き」として育ってきたように思います。当時はパソコンやスマホで簡単に太鼓台の写真や映像を見られる時代ではなく、各地に足を運び、飾り幕の図柄を目に焼き付けては家に帰って下絵を描いていましたね。
——地元に太鼓台がない環境も合田さんを縫師の世界に導く一因だったのですね。
地元に太鼓台があったら、きっとその太鼓台に付きっきりになっていたでしょうからね(笑)
それで縫師として新居浜太鼓祭りや太鼓台に関わるようになったのですが、経験を積み、研究を重ねていくうちに「新居浜の太鼓台はまだまだ進化の余地があるな」と考えるようになっていきました。
——なるほど。合田さんの縫師としての目線からは、新居浜の太鼓台はどう見えていますか?
その昔、色とりどりの羅紗を使い刺繍されていた太鼓台の飾り幕ですが、新居浜ではそれが金一色になり、代わりに立体刺繍による陰影や凹凸といった誇張表現が好まれるようになりました。
そもそも飾り幕の誇張表現は、縫師たちの「削ぎ落とし」によるものだと考えています。縫師たちは覇権争いの中で、下絵の反復により現在の太鼓台のイメージを作り上げてきたわけです。
例えば新居浜の場合、高木安太郎縫師、山下八郎縫師の作品が流行した時代がありましたよね。これは研究による独自の見解ですが、高木縫師は先代から引き継いだ豊富な下絵を活かして人気の図柄を構図良くまとめた飾り幕を多く世に送り出し、一方で山下縫師は龍や獅子といった空想上の生き物を太鼓台という山車の上で表現するとき「どうすれば見る人が迫力を感じるのか」を考えて飾り幕を作っていたのだと思います。
こうした縫師たちの試行錯誤によって作られた流行が、新居浜の人たちの「太鼓台を見る基準」になっていったわけですが、新居浜の太鼓台の芸術性はこの頃の良し悪しの基準に縛られ過ぎて、日本や世界から遅れをとっているように感じます。単純に考えて新居浜太鼓祭りを日本全国・世界中の人たちが見た時にどう思うでしょうか?同じように怖い顔をした龍の幕が8枚、金一色でデッサン力が低くパッと見で題材が分かりづらい飾り幕・・・まだまだですよね。
——たしかに新居浜の太鼓台は他の地域の山車と比べて地域ごとの違いが少ないかもしれませんね。
そもそも太鼓台は宗教美術であり「分かりやすさ」が重要です。私自身2006年にヨーロッパを訪れた際、教会に施された装飾を見てそのレベルの高さに衝撃を受けました。デッサン力が高く、それぞれに表現方法が異なり、すべてが美しい。何を表現しているのかもひと目で分かります。対して新居浜の太鼓台は簡素化され、ある意味「商品化」しているのでしょう。
これまで新居浜の太鼓台の飾り幕の多くは市外・県外の縫師によって作られてきました。新居浜太鼓祭りの歴史の中で「新居浜出身・新居浜在住の縫師」が携わった太鼓台というのは数えるほどしかいません。つまるところ、新居浜の太鼓台の飾り幕には「縫師による郷土愛」が足りないのだと私は考えています。もし新居浜にも縫師が沢山いれば、今ごろ太鼓台は郷土愛と個性に溢れたものになっていたはずです。
——新居浜にはお祭りを愛する人が多くいます。ですが縫師が次々と出てこないのはなぜでしょうか?
新居浜の太鼓台刺繍や新居浜太鼓祭りが産業として独立していないからだと考えています。補助や支援がないと日本全国の評価を受けられる舞台に立てないのは、太鼓台や祭りの完成度が日本や世界の基準に追いついていないからではないでしょうか。もしも太鼓台や祭りが本当の評価を得られているのであれば、そこには自然と様々な分野からのお金や賞賛が集まってくるはずですからね。
新居浜太鼓祭りの場合、祭りの興りが「民衆のストレス発散」と特殊で、内容も神賑行事的な一面が強く、太鼓台へのこだわりも独特です。金属製の四本柱やトラックタイヤを転用した車輪、ピカピカに研磨された端缶など、工都らしさが出ていますよね。
こうした環境の中で日本や世界に評価される芸術性を発揮し、それが新居浜でも受け入れられ新たな流行を作りだす。そして太鼓台と祭りのレベルを引き上げることができる。そんな次の世代の担い手が新居浜には必要だと感じています。
——太鼓台と祭りのレベルを日本や世界に評価されるレベルに引き上げることが合田さんの考える新居浜太鼓祭り伝承のための方法なのですね。
そうですね。ただし大前提として我々はお客様に求められる物を作らなければならないので、自分の世界にのめり込むだけではいけません。私も若い頃は「より多くの人に認められたい」という想いで自分のやりたいことをとにかく全部表現しようとしていました。当時の作風にもそれはよく表れていると思います。
今は飾り幕一枚一枚の「なぜ(Why)」をお客様と一緒に考え、地域の人たちに長く愛されるものを作ろうとしていますかね。
——飾り幕一枚一枚の「なぜ(Why)」とは何でしょうか?
太鼓台の飾り幕は、地域ごとの特性や制作当時の社会情勢、太鼓台の存在意義がしっかりと反映されたものであるべきだと考えています。これが飾り幕の「なぜ(Why)」です。しかし新居浜の太鼓台の飾り幕の中には、この「なぜ(Why)」を失ってしまったものが多くあります。
私が関わる太鼓台の飾り幕にはその「なぜ(Why)」を取り戻してほしいと考えています。太鼓台を見ればひと目でその地域の歴史や文化が分かる。そんな飾り幕をお客様とともに作り上げていきたいです。
——合田さんがこれから縫師として取り組んでいきたいことを教えてください。
私自身、最近になってやっと縫師としてオリジナリティを出すためのスタートラインに立てたと感じています。例えば宇高太鼓台以降、ひとつの流行として新居浜の人に受け入れられた現在の龍の顔ですが、これから手掛けるものには喜怒哀楽の変化をつけていきたいです。本来は太鼓台ごとに色んな表情をした龍がいて良いはずですからね。そのためにはまず目を引っ込めて、目の周りの筋肉がもっと使えるように・・・ただ私も歳をとりましたので、さらなる進化は次の世代の担い手に託していきたいという気持ちもあります……。
——最後に、縫師を目指す人たちに伝えたいことはありますか?
祭りを取り巻く環境は私たちの頃とは大きく変わり、必要な情報はいつでも手に入る便利な時代になりました。自身の研鑽のため、新居浜の太鼓台文化をさらに次の時代に引き継ぐため、多くの記録を残すようにしてほしいです。
そして何より新居浜太鼓祭りを愛する気持ち・精神性を継承してほしいなと思います。私自身「新居浜刺繍」という言葉を掲げ、新居浜から世界中に評価される太鼓台刺繍の文化を発信しようと尽力してきました。少し話が逸れますが、2022年5月の岸之下太鼓台新調の際も、製作した房が一番綺麗に割れるテンポを伝えるために青年団の子達が練習しているところにメトロノームを持って指導に行きましたよ。あのときは「自分、やっぱり太鼓が好きだな」と改めて思いましたね(笑)
太鼓台刺繍をひとつのビジネスとして捉えたときに、新居浜の太鼓台が芸術性、独創性の乏しい「商品」と化してしまえば、その文化は生産力の高いものに飲み込まれてしまう。だからこそ次の世代の担い手には郷土愛と情熱を持って太鼓台と向き合って欲しいです。
新居浜太鼓祭りは「リオのカーニバル」にも負けない可能性を秘めていると思っています。その可能性を引き出せる個性溢れる担い手が出てくることを、縫師の立場から願っています。