福岡県久留米市大善寺町の神社、大善寺玉垂宮(だいぜんじたまたれぐう)で毎年1月7日に開催される行事「鬼夜(おによ)」。日本三大火祭りのひとつにも数えられ、紅蓮の炎を上げて燃え盛る直径約1メートル、長さ約13メートル、重さ約1.2トンにもなる巨大な6本の松明が裸衆たちによって支えられながら境内を進む、猛々しく勇壮なお祭りです。
天高く燃え上がる炎の迫力、危険を冒して巨大な松明を操る裸衆たちの気迫など、火祭りのダイナミズムもさることながら、長らく“秘祭”とされてきたという経緯から、神秘的でミステリアスな雰囲気をまとったお祭りでもあります。
戦時中や昭和天皇の崩御でも中止をしなかったという鬼夜は、今回のコロナ禍で、はじめて2年間の中断を経験しました。2023年、3年ぶりの開催にあたり、あらためて鬼夜の魅力や、継承に向けた課題、意気込みなどを鬼夜保存会の会長・岡 巖(おか いわお)さんにお聞きしました。
岡 巖さん
1947年生まれ。福岡県久留米市大善寺町出身。小学生の頃から地元のお祭り「鬼夜」に関わり、数々の役を歴任する。現在は鬼夜保存会の会長として、伝統の継承に取り組む。
生涯関わることができるお祭り、鬼夜に関わる人は80歳になっても現役
――岡様は、これまで鬼夜にどのように関わられてこられたのですか。
もう、小学生の頃からずっとですね。鬼夜は地域の子どもたちなら小学校3年生の頃から何かしら関わらないかんし、いろいろな役職があるので、歳をとってもずっと関わることになる。
――そんな小さい頃から、祭りに携わるんですね。
まず、行事をスムーズに進めるための場内警護と鬼役(鬼夜の行事中にさまざまな儀式を司る役)に付き添う『シャグマ(赫熊)』を小学生の子どもが務める。その次は『鐘・太鼓(かね・たいこ)』。祭りの時に鐘や太鼓を叩く任務が中学生にはある。それを過ぎると松明を支える『裸衆』で、これは50歳ぐらいまでの人が務める。
裸衆の中でも、ある程度段階を踏んでいくと『手々振(てでふり)』という松明を指揮する役職が来る。『手々振』を終えると『赤鉢巻(あかばちまき)』って言うんやけど、これは松明を持ち上げる人たちを指導する役職。裸衆が終わって『棒頭(ぼうがしら)』になると、着装ができる。場内警護をしたり、鬼役に付き添って導線を確保したりする役目。その後に、『惣(そう)裁判』。(各松明を担当する)地区の諸々を全部取り仕切るようになる。それも引退すると『尻綱(しりづな)』、松明の根っこの両サイドについている大きな縄を引いて舵を取る……と、70歳、80歳になっても、ずっと役職があって。
――すごい、生涯現役じゃないですか。
だから祭りが好きな人は、かなり高齢になっても出てくる。『邪魔や』って言うても出てくれるし(笑)しかし、こういう方々のお陰で祭りが繋がっていく。
――みなさん、本当にお祭りが好きなのですね(笑)
今の若い人はなかなか裸になりたがらないんだけど、私たちの年代は祭りに参加することが当たり前だったしね。私の子どもの頃の祭りのイメージというのは、もう喧嘩ばかり。『まーた、あのおじさん(喧嘩)やってるわ』って(笑)。家を出ると寒いから、酒を入れて来ると。そうすると、祭り会場に着いた時にはもうできあがっとるから、みんなベロベロなんですよ。今の人たちは逆に飲まんからね、シュッと(祭りが)統制されてるけど、昔はそういうの(お酒を飲んだり、喧嘩をしたり)が楽しみでお祭りをやっていたというところもあるだろうからね。
「鬼夜で見たこと聞いたことは漏らしてはならぬ」厳しい掟が神秘性を生んだ
――他にお祭りの形式や雰囲気で変わってきたところはありますか。
かつて、『鬼夜』は秘祭だったんですよ。鬼夜に参加して見たこと、聞いたことを漏らしてはならぬという『他言無用』の掟があって。だから養子とかで大善寺に来た人も、3年間は鬼夜に出るのを認められなかった。4年目になると『見たこと聞いたことを言いません』という誓約書に血判をして、ようやく参加を認められた。私たちの親父の世代までそういう雰囲気があったみたいで、1970年大阪万博の『東芝館』で鬼夜の映像を流してくれたことで、それから『こんなお祭りがあるんだ』って一気に広まった。
――こんな派手なお祭りなのに、昔は集落の人たちだけで密かにやっていたんですね。
これだけのお祭りが有名にならなかったのは、そこだろうと思うんですよ。あまりにも他言無用というのを貫いたことで、それが神秘性を生んだのかもわからんけども、逆に言えば弊害にもなった。
――実際、鬼夜にはミステリアスな要素がたくさんありますよね。
はい。例えば、鬼夜の中で鬼面尊神渡御という神事があって、鬼夜祭の主神である鬼面尊神が納められた箱を境内の『鬼堂』にお渡りただくのだけれども、誰もその箱の中身は見たことがない。鬼夜の神事を代々取り仕切っている勾当家(こうとうけ)という家柄の人も、鬼面を見たことがないらしくて。また鬼夜の終盤で、鬼役が『汐井場(しおいば)』と呼ばれる場所で禊(みそぎ)をして、神殿に帰っていく儀式の最中、鬼は建物の影に隠れて暗闇の中を移動する。人に姿を見られないようにしているんです。
「オール大善寺」で鬼夜を開催して、未来へのステップとしたい
――火祭りの間、粛々とそのような神秘的な行事が執行されているというのも、鬼夜の魅力ですね。昔と比べて変わってきたこと、というお話を伺いましたが、逆に変わっていないこと、変えていないことはありますか?
どんなに時代が変わって、祭りの形が変わっても、神事として最低限のことはやっぱり守っていかないかんとは思っています。例えば、鬼夜の日程は1月7日で固定なのですが、今でも『日にち変えて欲しい』という話は出てきます。1月の第1日曜日に、とかね。でも、なぜ鬼夜を1月7日にやるかというと、12月31日から始まる『鬼会(おにえ)』の行事が結願する日だからなんですよ。大晦日の夜に神官が斎戒沐浴(さいかいもくよく)して火打ち石で取った御神火(鬼火)を七日七晩、守り通す。その鬼火を1月7日、大松明に灯すことで満願となるわけです。
――確かに勤め人が多い現代では、土日の方が祭りに参加しやすいとは思いますが、日付を変えると、その一連の流れの意味が失われてしまうという懸念もありますよね。
歴史や伝統が壊れてしまうからね。そのうちそうなる(日程が変わる)かもわからんけど、積極的に変えることではないかな。だから『日にちを変えたい』と言われると、『そんなお前、今せんでもよか! それよりいっぱい人集めようや!』と返しとる(笑)
――とはいえ、やはり祭りの担い手は減っていっているのですね。
昔はどの家も、6人兄弟、7人兄弟とかの大家族で、ひとつの家庭から2人も3人も男手が祭りに出てきたんで、人はけっこう多かったですよ。今は人手不足で、ひとつの松明に裸衆が40人くらいは必要なんやけど、昔のように地区の氏子だけでは足りないから、有志の人や、青年会議所、商工会あたりから若者たちが応援に来てくれる。その人たちがおるから、なんとか祭りができているという状態。
――最近だと、コロナ禍で参加を躊躇う人もいそうですね。
そう。だから参加者を増やすために私が今度やろうとしているのは『こんな祭りがあるから出てみないか』という回覧を、各区長を通じて町の人全員に回して、参加を呼びかけ、『氏子に限らずオール大善寺で祭りをやったよ』と外部に示すこと。昔は祭りの規模も今よりもっと大きくて、隣町の三潴(みづま)からも松明回しに来ていたらしい。成功した実績があれば、次回からそういった他の地域にも参加を呼びかけることができますよね。
まあ心配ごとはつきないけど、まずは一回祭りをやってみないと、具体的な課題もわからないからね。感染対策など、準備を万全にして2023年は臨みたいと思います。
――まずは一度やってみないと反省点も見えてこないですからね。最後に、3年ぶりの鬼夜を見にくる人に向けて、祭りの見どころを教えていただけますか。
私が思うのはね、やっぱり一番の魅力は大松明に火が着く瞬間。それに合わせて、寸分の狂いもなく、他の5本の松明が一斉に点火するんです。この瞬間はね、今でもゾクゾクっとしますね。
それともうひとつは、大松明回しの前に行われる鉾面神事。鬼夜の起源を表しているという神事なのですが、鉾を持つ手の何気ない仕草にも深い意味が込められていたり、面の古さであったり、見ているだけで『おお、すごいな』と圧倒されます。ぜひ、そういったポイントにも注目して欲しいですね。
豪快な側面と、神秘的な側面を併せ持つ「鬼夜」のお祭り。時代に合わせて開かれた祭りとなっていった経緯はありながらも、神事としての一線を超えないよう、地域で守り継がれてきた伝統と文化が今も大切に受け継がれていることを、岡さんのお話から感じることができました。3年ぶりの鬼夜、その迫力をぜひ現地で堪能してみてはいかがでしょうか。