しし踊りというと何を思い浮かべるだろうか?
V字の鹿の角に、後ろに伸びる鳥の羽。2mを超える巨体が左右にゆらゆらと揺れ動く。初めて見た人は、どうしてこの様な踊りが生まれたのかと疑問に思うはず。
関東出身の私もその一人。もともと日本の獅子舞をいろいろ調べて回っており、東北にはしし踊りがあると聞いていた。獅子舞と似ている様でどこか違う。おそらく日本古来の芸能も一部混じっているのではないかと思うのだが、その起源がよくわからない。
そこで、2020年12月1日から4日まで岩手県遠野市と釜石市を訪ね、しし踊り関係者へのインタビューや郷土資料の調査を行ってきた。そこで実際にわかったことを本記事でご紹介したい。
しし踊りって何?
しし踊りは、岩手県、宮城県、愛媛県などで主に行われている芸能だ。しし踊りを漢字で表すと「獅子踊り」「鹿踊」「しし踊り」など、地域ごとに当て字がある。主に、「太鼓踊系」と「幕踊系」の2種類に分かれる。太鼓踊り系はシシの格好をしている踊り手が踊りと並行して、太鼓を叩くなど演奏も行う。一方で、幕踊り系は踊り手が演奏まで行うことはない。上のアイキャッチの写真は岩手県遠野市小友町に伝わる長野しし踊りを過去に取材した時のもので、「幕踊系」のしし踊りだ。お盆や秋祭り、イベントなど様々なところで踊りが披露される。
しし踊りの由来とは?
今回、2020年12月に取材させていただいたのが、まず岩手県釜石市の外山鹿踊。踊りの由来を土地の人に尋ねると、350年前に木こりが村に来て房州(今の千葉県)から踊りを伝えたと言う。釜石は製鉄所があったことで有名だが、それに伴って人口も増加して、芸能文化も盛んになった。その流れの中で外山鹿踊も多くの担い手によって今に受け継がれていると言える。経済あるところに文化あり。家を建てる人との交流の中から生まれたしし踊りが、製鉄所の労働者の中で受け継がれて定着していったというわけだ。
この様に、岩手県のしし踊りの始まりに関する事例をたどると、その土地の人が始めたというよりは、他地域との交流の中で伝わって定着したという場合が多い。岩手県遠野市の中では最初に始まったしし踊りと言われる「駒木しし踊り」や「長野しし踊り」も同様だ。「駒木しし踊り」は京都や静岡から角助という人物が伝えたらしい。一方で、「長野しし踊り」は岩手県の一関から伝来したと言う。釜石同様に遠野でも350~400年前に伝わったとのことで、しし踊りが江戸時代に各地で流行したことが伺える。
遠野市立図書館で文献調査
様々なところから伝来したのはわかったけど、結局しし踊りの始まりってなんだろう。疑問が湧いてきたので、岩手県遠野市の図書館で郷土資料や文献を読んでみた。特に印象深かったのは、以下の3冊。
宮沢賢治『鹿踊りのはじまり』
しし踊りの始まりを描いた絵本で、粟や稗を作る農家の嘉十(かじゅう)が鹿に出会う物語。嘉十が歩いているときに芝草の上に手ぬぐいの忘れ物をしてしまい、取りに帰った。戻ってみると、鹿たちがその周りを踊っていたそうだ。鹿たちは言葉を話し、これは生き物なのか?などと囁いている。一匹一匹それが何かを確かめ合う。また、横に嘉十が置いていた栃の団子も少しずつ分け合って食べている。踊り狂い、最後に整列して鹿が太陽を拝むシーンは印象的である。嘉十が草むらから出ると、鹿は驚いて逃げてしまう。宮沢賢治はこの話を「秋の風」から聞かされたものだと述べている。このように、鹿が踊る場面に遭遇して、それを真似たという説は数多く存在する。
(参考:宮沢賢治,『鹿踊りのはじまり』,1994年, 偕成社)
遠山英志,『鹿踊り新考』
新しい切り口で、しし踊りの起源を知れる1冊。鹿踊りは鹿らしくないところも目につく。実際の鹿の生活を眺めていると、雄は単独で行動し、雌は群れをなす。しかし、鹿踊りでは雌が1頭に対して、他は皆雄だ。また、しし踊りの衣装のカシラ(頭)についている長いザイ(髪)は鹿には見当たらない。陰陽五行説によれば、ザイは木気に属し、風を表す。風を痛めつける対風呪術により五穀豊穣を実現するのがしし踊りの由来だったのではないかとのこと。
(参考:遠山英志,『鹿踊り新考』,青森県文芸協会出版部, 1994)
北上・みちのく芸能まつり実行委員会,『炎の伝承:”北上・みちのく芸能まつり”の軌跡』
この本では、平安時代の僧である空也上人が狩人の犠牲になった鹿を弔うために鹿踊を始めたという岩手県花巻市東和町落合に伝わる話を紹介している。これは空也上人が鞍馬山(現在の京都府京都市にある山)に住んだ時に、毎夜夢に現れて慰めてくれた一頭の鹿が猟師に殺された。それを悲しんだ上人は鹿の皮を衣とし、角を杖の頭につけて持ち歩いたとのこと。つまり、しし踊りは念仏供養として始まったというのだ。岩手県遠野市内小友町にはしし踊りの供養塔があるし、供養の性格をもったしし踊りは各地に存在する。その他にも、しし踊りの始まりについて、以下の説が紹介されている。
・人間が鹿になって踊るところに超自然的な力が現れると信じ踊りにしたのではないか(民俗学者・柳田國男)
・人間の感情を鹿の集団生活に移入したものがあり、カシラに本物の鹿の角を立てるのでシカ踊と呼ぶのが自然。従って踊りの起源は山野の鹿や春日明神(岩手県南部各地)
・鹿鹿の身代わりになって死んだ人の、墓の周りを踊るシカを模倣した(江刺市餅田)
・鹿島香取の神使いとして崇拝された鹿に扮して、春日大社に奉納した(水沢市佐倉河)
・山で鹿が角をふり、両腹を叩いているのが面白かった(一関市舞川)
(参考:北上・みちのく芸能まつり実行委員会,『炎の伝承:”北上・みちのく芸能まつり”の軌跡』, 1999年)
獅子舞との違い
しし踊りは「獅子踊り」とも書くわけで、日本全国の獅子舞との関連はあるの?ということについても述べておこう(上の写真は石川県加賀市大聖寺の獅子舞)。獅子はシシと読む。シシと言うと、一般的に狩猟の対象となる鹿や猪などの動物を指す場合が多い。獅子舞のシシはライオンだったものが霊獣として日本に伝わった。つまり、中東や西アジアなどでライオン狩りをしたり権威の象徴として王の台座に獅子を配置したりする文化が発展して、中国で仮面舞踊に取り入れられ、朝鮮半島を経て奈良時代に日本に伎楽という形で伝わった大陸系の芸能なのだ。
一方で、獅子踊りの場合は、奈良時代以前に東北で脈々と受け継がれてきた日本古来の芸能の影響が少なからずあり、その点では獅子舞とは系統が別と考えて良いだろう。メキシコやインドなどにも鹿の踊りが存在するが、関連は明らかでない。
権現舞との違い
また、岩手県には権現舞という山伏の神楽があり、その造形がしし踊りや獅子舞にも似ている。岩手県遠野市では遠野物語に伝承として登場する他、早池峰神楽などで演目の最後に舞う。権現舞は山伏たちによって主に東北に伝えられた芸能で、これは仏教伝来後のこと。時期的には獅子舞が日本全国に伝播した時とも重なるが、大きな違いがある。それは、獅子舞の獅子は「神様の使い」なのに対して、権現舞の権現様は「神様の仮の姿」なのだ。また、権現舞としし踊りについては広まった時期も過程も異なり、大きな関連性は見られない。
しし踊りの歴史を知る
この様に、しし踊りの由来は非常に多様であり、他の芸能と比較して見えてくる特徴も多くある。また、歴史的な視点で奥深い世界を知ることで、表層的な踊りから読みとることが難しい踊りの根元に迫ることもできる。しし踊りって何だろう?と疑問を持った方はこの機会に読書などを通じて、歴史的なことを学んでみてはいかがだろうか。
おすすめのしし踊りのお祭り
最後に、初めてしし踊りを見る方が訪れやすい祭りとして、「遠野まつり」をご紹介したい。地域に伝わる芸能が一堂に会する郷土芸能の祭典として知られ、しし踊り団体ももちろん出演する。しし踊りってこんなに種類があるんだ!ということを知っていただけるだろう。2020年は新型コロナウイルスの影響で中止になってしまったが、毎年9月に行われる。詳細は下記HPを参考にしていただきたい。
(参考:遠野市観光協会HP)