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皇居外苑で桜は見れる?知られざる歴史と合わせてご紹介

2021/4/17
2021/4/16
皇居外苑で桜は見れる?知られざる歴史と合わせてご紹介

4月2日(金)に皇居外苑の桜を見に行って参りました。今年はソメイヨシノを基準とした桜の開花予想が早く、見に行く頃には、もしかしたら終わっているかなと不安になりましたが、実際に現地に行って見ると綺麗に咲いており、何とか間に合ったかなと言った状況でしたが楽しむことが出来ました。自然は待ってくれないので、見頃にスピーディーに楽しむことが重要ですね。平安時代の女流歌人である小野小町が詠んだと言われる歌「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまにを思い出しました。それでは早速、その様子をレポートして行ければと思います。

皇居外苑についての紹介

皇居外苑のHPによれば、江戸時代以前、この辺りは漁業が盛んな日比谷入江に面していたそうです。江戸時代に埋め立てられ、屋敷が立ち並び「西の丸下」と呼ばれ、明治時代には、これらの屋敷が官庁の庁舎や兵舎などに使用されました。その後、それらの建物等が撤去され広場化されました。明治21年には「皇居御造営」完成後の事業として、皇居前広場のクロマツ等の植栽整備も行われ、戦後は国民公園として整備されていきました。

こちらは現在の皇居一帯の案内図になります。この案内図ですと皇居の左上のエリアが皇居外苑になります。この外苑の一角に楠木正成公(楠公)の銅像、皇居外苑楠公売店、楠公レストハウス等があり、桜が綺麗に咲いています。二重橋を正面に見据える楠公の像は、1333年(正慶2年)隠岐の島から還幸途次の後醍醐天皇を兵庫の道筋でお迎えした折の勇姿を象ったものですが、宮内庁と住友の歴史が刻まれた貴重な像でもあります。それについては後程触れて行きたいと思います。

皇居外苑の桜の様子

ここからは皇居外苑と桜の様子をいくつかの写真でお楽しみ頂ければと思います。

皇居外苑にまつわる歴史

この楠木正成像は、別子銅山開坑200周年事業として住友から宮内庁に献納されたもので、製作は東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)が行いました。学校の木彫科を総動員し、約3年をかけて木彫の原型が完成、木型は鋳造に引き継がれ、我が国初めての分解鋳造法による銅像が、明治33年(1900年)に竣工したのであります。本体の高さは約4m、台座を含めると8mに及ぶ堂々たる姿で、上野公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と並び「東京の三大銅像」の一つに数えられています。

楠木正成公を御祭神とする神戸市の湊川神社によれば、元弘元年(1331年)正成公38歳の折、よりよい国をおつくりになろうとされた後醍醐天皇のお召しにより、天皇の許に馳せ参じられました。正成公はじめ当時の鎌倉幕府に不満を持つ武士も少なくありませんでしたが、幕府軍の力は侮りがたく、後醍醐天皇は捕らえられ隠岐島(おきのしま)(島根県)に配流になってしまいます。しかし、その後も戦い続けた武将が正成公でした。散々、幕府を悩ます戦を続けられ、その目覚ましい戦いぶりが諸国の武士を驚かせ加勢を促し、その結果、ふがいない幕府軍を見て武士等の蜂起が各地で相次ぎ、やがて幕府軍が敗退し鎌倉幕府は次の時代へと交代になります。

取材を終えての所感

ここまで如何だったでしょうか。都心の桜そして楠公とお楽しみ頂けましたでしょうか。

冒頭の小野小町の歌の現代語訳は「桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった。春の長雨が降っている間に。 ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。」となりますが、ライターも同様に肌荒れを起こしてしまいました。桜の記事を沢山書いている間に。ちょうど都内の桜が逞しく青々と育って来てしまっているように、記事の文面のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。

こんな状況ではありますが、残りの桜特集記事も楠木正成公を見習って書き切りたいと思います。私の担当は後5本程度となりますが、北海道・東北エリアはまだまだ桜のシーズン。全国の桜が散り切るまで盛り上げて行きたいと思います。

 

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